第4話 河下卯月の場合
「お父さん、本当にここなの?」
私河下卯月は、とある高級ホテルの前で立ち尽くしています。隣にいる母も口をあんぐり開けて、高くそびえ立つホテルを見上げています。
「間違いなくここだよ。ほら、早く入ろう。先方を待たせる訳にはいかない。」
そう言いながら、父は我先にとホテルの中へ入っていきます。私と母はそんな父の後ろ姿を目で追った後、お互い顔を見合わせ苦笑いをしてしまいました。
今日は私の『お見合い』の日なのです。普段カジュアルな服装が多いせいか、着慣れないフェミニンなワンピースにハイヒールで気持ちは既に家に帰りたくなっています。
お見合い相手は、父が勤務する会社の取引先の部長の息子さんだそうで、父親同士が一方的にこの日を決めてしまったため顔も知りません。母も写真の1枚くらい、と言っていましたが父曰くとっても感じの良い青年だから、と推し進められました。
正直言うと、私は以前付き合っていた男性が原因でやや男性不信になっているため、今日のことも本音は会いたくないのです。
以前の彼について少し話します。
2年前に別れた元カレは篠山恭吾といい、私より3歳年上で、5年間交際を続け尚且未来を考えていた人でした。交際当初はとても優しく気遣いもあったのですが、1年を過ぎた頃から彼の態度が少しずつ変化していったのです。
「疲れてない?少し休もう。」
「大丈夫?その荷物僕が持つよ。」
「帰りは僕が送っていくよ。」
そんな思いやりのある言葉をいつも掛けてくれていたのが、1年後には
「疲れた?俺はまだ疲れてないから、もう少し歩くよ。」
「重い?そんなの知るかよ。自分の荷物は自分で持てよ。」
「1人で帰れるよな。誰もお前なんか襲わねぇよ。」
とまるで人格が突然変異したかのようでした。けれど、時折元の優しい彼に戻ることもあって私は別れることまで考えていなかったのです。
きっと何か嫌なことでもあったんだ、とポジティブに考えてしまい、一人称が“僕”から“俺”に変わったことさえ気付かないフリをしていました。
交際から2年が経った頃、週末は一緒に過ごす事を彼が希望してきました。私は実家住まいだったので1人暮らしの彼のアパートに毎週金曜日に訪れ、溜まった掃除や洗濯、数日分の食事の作り置きをしてから日曜日の夕方に帰るという生活になりました。
相変わらず恭吾は“俺様”な態度でしたが、高校の頃半年間だけ付き合ったことがあるだけでそれ以降消極的な性格が邪魔をして、異性とは出会う機会がありませんでした。それが22歳の時に、会社の同僚から無理矢理連れて行かれた合コンで恭吾と出会い交際することになったのです。
正直ここで別れてしまったら、もしかしたらもう男性との出会いは失くなってしまうかも、という恐怖が先行してダラダラと週末同棲生活が2年続いた頃に私の両親から、結婚はするのか、という話が出てきたのです。
交際して4年。恭吾からはそんな話は一切されたことがなかったのです。26歳になった私もそろそろ結婚しても良い年齢のはずでした。
だから、意を決して恭吾に聞いてみることにしました。
「ねえ、恭吾。実はね…両親から結婚はどうするのかって聞かれているの。」
私の言葉に、スマホをいじっていた恭吾の手が止まりました。暫く何かを考えていたようでしたが、
「俺さぁ、結婚は30歳過ぎてからって思ってんだよ。まだ29だから、あと1年は考えられないかなぁ。」
そう言ってまたスマホを触り始めたのです。
あと1年…、27歳か。そんなことを考えながら変わらない生活をしてきました。
そんな私の目を醒まさせてくれたのが中学校からの親友、添田和奏でした。
和奏とは高校まで一緒に過ごしたのですが、卒業後彼女は看護師になるため看護学校へ、私はビジネスに必要な資格を取るための専門学校へと進学したのです。お互い勉強に忙しくも時間を見つけては、食事や買い物に行ったりしていました。
でも、和奏の就職先は総合病院だったので夜勤などでなかなか時間が合わなくなり、以前ほど会える機会はなくなりました。それでも電話やメッセージで連絡を取り合い、お互いの近況を報告しあっていたのです。
そんな折、和奏との休みが重なったことで久しぶりに会えることになりました。
場所は、高校の頃によく行った駅の近くにある山小屋風の佇まいの喫茶店でした。ここは、放課後や長期休みになると私達の溜まり場になっていたのです。
「久し振りだね〜。」
弾むような和奏の声が店内に木霊します。
「うん、ホント久し振り。ちょっと痩せた?」
私は和奏の顔を見て言いました。
「あ〜、看護師って結構ハードだからな。しかもうちって救急指定病院だから昼夜関係なく急患が運ばれてくるから、場合によってはご飯なんか食べられないからね。」
和奏はそう言って、運ばれてきたランチセットを口に運びました。
会話は、お互いの仕事の愚痴だったり高校の頃の思い出話をしていたのですが、唐突に和奏から避けたい話題がなされました。
「で、そろそろ結婚の話とか、ないの?」
「え…?」
私は思わず固まってしまいました。
だってつい最近、結婚を考えるのはあと1年後だと言われたばかりでしたから。
だから、正直に総てを話したのです。
付き合った当初とは違う言動、週末の家事、そして彼の結婚観。
話していくうちに、和奏の眉間のシワが少しずつ深くなっていったのは気のせいではありません。話し終えると、和奏は厳しい顔つきになっていました。
「…やっぱり、そうか…。」
和奏は、深刻な顔で何かを考えていました。
「え?何がやっぱり、なの?」
私は普段笑顔の絶えない和奏が、滅多に見せない真剣な顔に一抹の不安を感じたのです。
「ねぇ、卯月。あの彼氏と別れた方がいいよ。」
私は言葉の意味が分かりませんでした。頭の中で、和奏の言葉が反復しています。
「…なんで…。」
やっと出たセリフでした。
和奏は私の顔を暫くジッと見つめた後、おもむろにスマホを取り出し画面を操作しています。
そして、私の眼前に差し出されたのはフォトアルバム内の写真でした。
「2週間くらい前の写真よ。Y駅近くにある路地裏で撮ったの。この日私は、駅の2階にあるダイニングバーでお世話になった先輩看護師の送別会だったの。でも、急患の連絡を受けて急いで病院に行かなきゃならなかったから、近道でこの路地裏を通ったら…知った顔を見てね…。」
和奏のスマホには、私がよく知っている男性が私の知らない女性の肩を抱いて恋人同士が利用するホテルに入ろうとしている写真が示されていたのです。
「…これ…恭吾…」
震える手で和奏のスマホをスライドしながら数枚の写真を見ました。
「卯月…。言い辛いけど、彼氏にとって都合の良い女、扱いだったんだよ。」
私は自分の目がジワーと温かくなるのを感じました。それと同時に視界がボヤけたかと思ったら、画面上の写真にポタポタと水滴が落ちました。
「卯月…。涙、拭きな。」
和奏がポケットティッシュを出した時に、ようやく自分が泣いていることに気付いたのです。
「…どうして…私…どうして…。」
壊れたCDよろしく、同じ言葉を繰り返すばかりです。
「この写真のデータ、卯月のスマホに送るから後はゆっくり考えて。ただ、親友として言わせてもらうと、あんな男とはスッパリ縁を切って欲しい。卯月にはもっと良い男が現れるはずだから。」
そう言いながら、和奏は次々に写真を送信してきました。
その後私は何も考えることができず、久し振りに会えた和奏ともランチだけで別れてしまったのです。
本来であれば、もっと色々なところに行きたかったのですがあんな話しを聞いた後で、普通の精神ではいられませんでした。
帰り際、和奏から
「別れ話が拗れるようなら、私が加勢するからね。」
と言われたような気もしたけど…。
それから、私には虚無の時間が流れ始めました。食事も禄に摂れず、眠ろうとするとあの写真が脳裏に浮かび眠れない日々でした。そのせいで仕事は失敗が続き上司や先輩に注意される毎日でした。
そして金曜日の夕方。恭吾のアパートへ向かう足取りは重く、なかなか前に進めませんでした。アパート近くのバス停のベンチに座り何を考えるでもなくぼんやりしていました。暫く座っていると、スマホの着信が軽快なリズムで鳴りました。相手は恭吾です。私はスマホを手にしたまま画面を眺めていると、留守電に切り替わりました。
『おーい、腹減ったんだけど飯まだ?どこで油売ってんだよ。早く来て飯作れ。あ、あといつものように洗濯物も溜まってっからちゃっちゃっと済ませろよ。』
そんな声が聞こえました。その瞬間、私は和奏にメッセージを送りました。
‘今から恭吾と話しをしてくる。’
既読の確認をせずに、私はスマホをバッグに仕舞い恭吾のアパートへ向かいました。
合鍵を使い彼の部屋に入ると、いつに増しても散らかっていました。
「な、何?この部屋…。」
無造作にゴミ箱に突っ込まれたカップ麺やコンビニ弁当の残骸から異臭が放たれています。
恭吾は2人掛けのソファでいびきをかきながら、だらしなく寝ていました。
そんな姿を見ていると、どうしてこの人を好きでいたのかが解らなくなってきました。
「恭吾、起きて。恭吾!」
私は彼を揺り起こしました。恭吾の体から微かに香水の匂いが感じられ、あの写真が思い出されました。
私との前に、別の女と会っていたんだ。
心の深い所に、ドス黒い感情が芽生えました。これは嫉妬なのか、それとも恨みなのか私でさえ分かりません。
でも、私の気持ちはもう固まっています。
恭吾とは、今日でお別れすることに。
「恭吾!」
私の怒声に近い声で、やっと目を覚ましました。
「あー、やっと来たんだぁ。もー腹減ってよ〜。」
頭をボリボリ掻きながら、時計を見上げます。
「え?もう8時過ぎてんじゃん。早く飯作って、洗濯と掃除も終わらせて。あ、あと今日は帰っていいぞ。明日、朝から客が来るからお前いたら邪魔だからさ。」
そう言いながら、散らかったテーブルをかき分けテレビのリモコンを手にしようとしたのを、私は抑えました。
「待って。その前に話しがあるの。」
「あ?話し?飯食う時に聞くよ。」
「…もう、作らない…。」
「え?」
「今日何も買ってきてないの。明日の朝のパンも何も…!」
恭吾は私の顔を、トボけたような目で見つめます。
そして、言葉の意味を理解したのか険しい顔つきに変化していきました。
「は?はあぁぁ!?どういうことだよ!?家事はお前の仕事だろ!!」
言いながら手にしたリモコンを私に向かって投げつけてきました。既の所で交わしたので、壁に当たったリモコンは床へと落ちました。それを見た恭吾は小さく「チッ」と舌打ちをしたのです。
私は自分のスマホを操作しながら、
「友達が偶然、これ撮ってくれたの。」
和奏から貰った画像を表示させ、恭吾に見せました。
それを見た彼は一瞬目を見開きましたが、すぐに眉間にシワを寄せ私を睨みつけたのです。
「で、だから?」
恭吾の低い声がそう言いました。
「…言い訳、しないんだ?」
スマホを持つ手が悔しさと悲しさで小刻みに震えています。
「ハッ!言い訳も何もこの写真のまんまだよ。俺にはお前より数段カワイイ彼女がいーるーの。そうだな、強いて言うと、お前は彼女じゃなくて家政婦?みたいな感じだよ。明日来る客ってのも彼女だよ!でもさぁ、お前俺のこと大好きだろ?だから俺の世話させてやってんだよ。ごちゃごちゃ言うと別れるぞ?良いのか?」
ニヤニヤする恭吾の顔を見ていると、彼に固執していた自分がバカらしく思えたのです。
「…いいよ…。」
私は俯き、か細い声で言いました。
「あ?」
「いいって言ったの!!お望みなら別れてあげるわよ!!」
俯いていた顔を上げ私は叫びました。今まで恭吾に対してこんなに声を荒らげたことがなかったので、彼も驚いた顔で私を見ています。
「あ、ああ。そうかよ。いいぜ、別れてやるよ!これで彼女と同棲できるってもんだ!!お前って地味だから俺以外付き合ってくれる男はいないかもしんないけど、まぁ頑張れや。」
ニヤニヤした顔と、ヒラヒラ振る手を見て私は唇を噛み締めました。
出会った頃の恭吾の面影はまるでなく、この人の本性はこれだったのだ、と改めて実感したのです。
私はバッグを手にして無言で恭吾の部屋を出ました。そして持っていた合鍵を玄関脇の郵便ポスト投げ入れた瞬間、なんだか心が晴れ渡るような感覚になりました。
それから自宅近くの公園のベンチに座り、和奏に電話をするとワンコールで出てくれました。
『もしもし!卯月!!どう?どうだった?』
私が話す前に怒涛の如く捲し立ててきました。
「えっと、落ち着いて。和奏。あのね…。」
『なになになになに!?まさか、拉致されてるとか!嫌だ!!警察!!!』
「ちょっ、ちょっと!和奏!!」
慌てふためく和奏にはもう私の声は届いていないかと思われた時、通話口から男の人の声がしました。
『おーい、和奏。卯月まだ何か話してるぞ。』
「え、誰?」
私の名前をさも知っているかのような口ぶりでした。
『あ、ごめん。俺、海だよ。』
「え、海って…石原海くん!?」
『そうそう。和奏から、卯月のピンチかもって聞いて和奏の家で待機してたんだ。もしもの時、助けに行けるようにね。』
海くんは高校からの同級生で和奏の彼氏です。
「そうだったんだ。嬉しい。でも、大丈夫。きちんと別れてきたから。」
『ホント?』
今度は和奏の声です。お前なー、と微かに海くんの声が聞こえました。
「うん。向こうから別れてやるよって言われちゃった。あの写真の女の子が本命で、私はただの家政婦だったんだって。だから、サヨナラしてきた。」
そこまで話すと急に涙が溢れてきたのです。
『卯月?今どこにいるの?』
私は鼻を啜りながら答えます。
「自宅近くの公園。」
『それならUターンして家においでよ。海もいるから3人でお酒飲んで嫌なのことぜーんぶ忘れよ。ねっ。』
私は少しだけで考えました。本来なら恭吾のアパートに行ってるはずの私が突然帰宅したら両親は驚くでしょう。
そうなれば私はその理由を話さなければならなくなります。でも今は両親の顔を見て、正直に話すことはできないと考えました。
ほんの少しだけ時間が欲しい。
そう思った私は、和奏と通話しながら彼女のマンションに向かいました。
それから2年経った現在、私は高級ホテルのロビーにいます。
人生において私のような凡人に似つかわしくないホテルに足を踏み入れたことが、ある意味最大の絶頂期に値するのかな、と無意味なことを考えています。
「おっ、ラウンジのカフェでお待ちだよ。」
父の声で我に返りました。
ロビーの奥に高級感溢れるカフェがあります。そこに父より少し年上の男性と着物の女性、そして私と同い年くらいに見える若い男性が2人の合計4人が私達を見ているのです。
「いやあ、お待たせして申し訳ありません。」
父は慣れたようにカフェに入り、父より少し年上の男性と固い握手を交わしています。
「いやいや、このような機会を与えていただき感謝していますよ。」
呆気に取られてポカンとする私と母を、父は手招きで呼び寄せました。
「家族を紹介します。妻の祥子と娘の卯月です。こちらはお世話になってる取引先の鳴瀬部長さんだよ。」
「あ、初めまして。河下卯月です。父がいつもお世話になっております。」
父に続き私も挨拶をしました。
「こちらこそ。お父上には仕事でいつも良い提案をしていただいて感謝していますぞ。」
にこやかに笑う鳴瀬部長さんは、
「私も家族を紹介しましょう。」
と言いながら、後方に控えていた3人にジェスチャーで前に来るよう促しています。
「妻の芳美と長男の賢人。そして次男の勇人です。この次男と卯月さんとの場を設けさせていただくべく、本日お越しいただきました。」
勇人さんが一歩前に踏み出しました。
「勇人は今32歳です。P商社で係長をしておりますが仕事仕事で中々出会いがないもので親としては将来を心配していまして。」
P商社は、私の勤務する中小企業とは雲泥の差がある大企業です。
勇人さんは体格が良く、かといって太っている感じではありません。顔は優しそうな印象で、イケメンではないにしろ私自身は好感が持てます。
「初めまして、鳴瀬勇人と申します。本日はお時間を作っていただきありがとうございます。」
そう言いながら、深く一礼をされました。
それを見た私は釣られるように頭を下げると、肩に掛けていたバッグから中身が辺り一面に散らばってしまったのです。
「え、やだ、ちゃんと閉めてなかった!」
私は一気に赤面してしまいました。
こんなこと、恭吾の前でも何度かあったのです。元々そそかっしく、ドジなことばかりするので恭吾からは幾度となく怒鳴られていました。
今回も一瞬怒鳴られる、と恐怖しましたが聞こえたのはクスクスと笑う声でした。
ふと、勇人さんを見ると笑顔を向けてくれました。そして、スッと屈むと私物を拾い始めたのです。
「いやだわ、すみません。この子本当に昔からドジばかりで…。」
母も苦笑いしながら一緒に拾ってくれています。
「いいえ、一見しっかり者に見える息子も実は慌て者でしょっちゅう忘れ物、失くし物するんですよ。」
と勇人さんのお母さんが笑いながら言います。
「母さん、余計なこと言わなくて良いから。」
勇人さんのその言葉で、その場は笑い声に包まれました。
それから、革張りのソファに座りしばらく談笑をしていましたが1時間ほど経った頃でしょうか。鳴瀬部長さんが
「さて、そろそろ…。」
と言うと、父が察したように
「そうですね。」
と返しました。
鈍感な私でも理解できました。今から、勇人さんと2人きりになってしまうことを。
母が私の耳元で言いました。
「しっかりね。」
母の顔を見ると、ニッコリ笑ってガッツポーズをしていました。
程なくしてみんなが席を外し、向い合せに座る彼と私だけになりました。1対1になると何を話していいのか分かりません。
私が会話を探していると、勇人さんから話し掛けられました。
「卯月さんは、確かSS㈱にお勤めでしたよね?」
「あ、は、はい!そうです。P商社と比べると小さな会社ですが…。」
「そんなことないですよ。どんな仕事でも不必要な仕事はないと僕は思っていますから。」
微笑みながら話す勇人さんを見て、また恭吾のことを思い出したのです。
彼は勇人さんほど大企業ではないですが、程々有名な会社に勤務しています。そして、口癖のように「俺は平社員では終わらない。近い将来部長まで出世してやる。」と言っていました。向上心があるのは良いことですが、自分が有名企業で働いているせいか例えば、清掃の人やスーパーで働く人を見て
「可哀想だよな。学がないからこんな誰でもできるような仕事しかないなんて。」
と小馬鹿にしたように言っていました。
私は何度もそんな言い方は良くないと、言っていたのですが聞く耳を持たないどころか私の仕事まで、たかが事務とどこか見下されていました。
だからなのか勇人さんの、不必要な仕事はない、の言葉になぜだかとても嬉しいと思っているのです。
勇人さんはとても聞き上手で私の拙い話しにも丁寧に相槌を打ってくれて会話にユーモアがあり、終始笑いが絶えません。最初の緊張はどこにいったのかわからないくらい穏やかに話すことができました。
正直、時間を忘れてしまうくらい楽しかったのです。
「勇人。」
不意にどこからか声がしました。
勇人さんは声の主を見ると、鳴瀬部長さんがカフェの出入口に立っていたのです。
部長さんは、自分の腕時計を勇人さんに向け何かを伝えているようです。
「ああ、もう時間か。」
彼がボソッと言いました。
「時間?」
私の言葉に勇人さんは微笑みながら言いました。
「実は今日のためにこのカフェを2時間貸し切りにしてもらっていたんです。カフェのオーナーと父が顔馴染みだからできたことなんですけどね。でもタイムアップのようです。」
「えっ?貸し切りだったんですか?どうりでお客さんが誰もいないな、と思っていたんです。」
私の何気ない言葉に、勇人さんは吹き出してしまいました。
「え、え?私何か変なこと言いましたか?」
押し殺したように笑う勇人さんを見て、私はアタフタしてしまいました。
「い、いえ。大丈夫です。ちょっと面白かったもので…あ、でも…。」
そこまで言うと我慢が限界に達したように、大笑いしたのです。
「珍しいね。勇人が大笑いするなんて。」
そう言いながら、賢人さんが近付いて来ました。
「ああ、兄さん。いや、実に楽しい時間だったよ。」
「そうか、それは良かった。卯月さんは如何でしたか?弟が何か失礼なことはしなかったでしょうか?」
賢人さんは勇人さんと同じ微笑みで、私に尋ねてきました。
「いいえ!私も本当に楽しかったです。」
そう言って頭を下げると、またもやバッグの中身が辺りに飛び散ったのです。
「あ、やだ。また閉めてなかった。」
私の言葉に、大爆笑が起こったのはどうしてなのかわかりませんでした。
勇人さん家族とは、ホテルのエントラスで別れました。
別れ際父親同士が仕事の話しをしていたのですが、その隙を見計らったように耳元で勇人さんが話し掛けてきました。
「今度は2人きりで会えたらと思います。さっきバッグの中身を拾った時に僕の携帯番号を書いたメモを忍ばせたので、良かったら連絡ください。」
そこまで言うと、私の父の方を向き姿勢を正すと
「本日は貴重なお時間をありがとうございました。」
頭を下げながら、そう言いました。
「こちらこそありがとう。」
父が差し出す手に、勇人さんは笑顔で応えていました。
そして私達家族は予約していたタクシーに乗り込み、その場を去って行きました。
去り際に後ろを振り向くと、勇人さんは微笑みながら小さく手を振っていたのです。
ようやく長く感じた1日が終わりを迎えました。
私は、ベッドの上で勇人さんの携帯番号が書かれたメモを見つめながら、彼の言葉や行動を思い返していたのです。いつしか私の頭の中は勇人さんの顔や声で一杯になっていったのです。
月曜日になり、いつも通りの時間に会社へ向かいました。自分のデスクに座り、いつものようにパソコンに向かって仕事を始めました。
が、昨日のことを思い出しては手が止まり仕事がなかなか捗りません。
恭吾と別れて以来、男性との関わりは会社以外にはありませんでした。和奏から何度か紹介したい男性がいる、と勧められましたが恭吾のように、態度が変わったら、浮気をされたら、そう考えるとお付き合いすることが怖くなってしまっていたのです。
昨日の『お見合い』は、父からほぼ強制的だったこともあり断れなかったのですが、正直会って良かった、と思っている自分もいるのです。
考えが纏まらない中、いつの間にか終業時間を迎えていました。
帰り際、同僚から
「どうしたの、卯月?今日なんだかボンヤリしてたね。」
と言われ、苦笑いで誤魔化しました。
私は真っ直ぐ帰る気にはなれず、学生の頃よく行っていた河畔に向かったのです。
ここは、和奏と2人でよく秘密の話しをした想い出の場所の1つです。
「懐かしいな…。」
古いベンチに座り川を見つめながら、呟きました。
ここで、和奏から海くんに片思いしていることを聞いて背中を押したことや、テストを見せ合いお互い悪い点数で大笑いしたことなどが鮮明に思い出されます。
気が付くと、私はスマホを取り出し誰かに電話をしていました。
『もしもし〜、卯月!どうした?』
聞こえたのは和奏の声でした。
和奏とのことを思い出していたからなのか、いつの間にか掛けてしまったのです。
『もしもし?卯月、大丈夫?』
「あっ、ごめん…和奏。ちょっと考え事してて、思わず電話しちゃった。今平気?」
『うん、大丈夫よ。今日は夜勤明けだったから1時間位前まで爆睡してたけどね!明日休みだからサブスクでオールするつもり〜。』
和奏の元気な声にクスッと笑いが出てしまいました。
『何よー、もういい歳なのに夜更しするなって言いたいの?』
「違う違う、そんなんじゃないよ。…色んなこと考えて頭が回らなくなってて、なんとなく和奏の声聞きたくなって…。」
『えーっ!何それ?ちょー嬉しいんだけど!!てか、ねえ卯月…。』
和奏の声のトーンが一気に変わりました。
『…もしかして、何か悩んでる?』
「え?どうして…分かるの?」
『分かるわよ。卯月は私の大切な親友よ。そ・れ・に、卯月って昔から考えが煮詰まると、私に電話してくるじゃない。だから分かったのよ。』
「…和奏、私…。」
それ以上言葉が続きませんでした。自分の気持ちが支離滅裂になっていることを自覚していたので、それを上手く説明できる自信が無かったのです。
『どこにいるの?』
「…W河畔。」
『待ってて、10分で行くから。』
そう言って通話は切れました。
程なくして和奏の愛車であるモンキーバイクが見えました。和奏は颯爽とバイクから降りると、片腕にヘルメットを抱え私の側まで小走りで近付いて来ました。
「ごめんね、和奏。明日休みだというのに…。」
「何言ってんのよ。休みだから気軽に来れたの!それに親友が悩んでるんだから、それを聞くのは私の義務よ!!」
和奏は私の隣に座ると
「で、何があったの?」
と聞きました。なので、昨日の『お見合い』のことや今の自分の気持ちを嘘偽りなく話しました。
「当たり前なんだけど、勇人さんは恭吾とは全然違うの。彼は他人を見下したり私のドジっぷりを貶すこともしないの。だから…。」
「…好きなの?そのお見合い相手のこと。」
和奏から超弩級の質問をされると、途端に心臓がギュッと締め付けられるような感覚になりました。
私は胸に手を当てながら、
「まだ…昨日あったばかりだし分かんない…でも、ずっと彼のこと考えてる。」
そこまで話すと、暫くお互いに何も言わず薄暗くなった川の水面を眺めていました。
「もう1度会ってみたら?」
静寂の中に風船がパチンと弾けたように聞こえた言葉の意味を、ほんの数秒理解できませんでした。
「え?今何て…。」
「だから、もう1度その勇人さんとやらに会ってみるの。多分あっちは卯月に好意があると思う。そうじゃなきゃ、自分の携帯番号を教える訳ないじゃない。」
真っ直ぐに私を見つめる和奏の目は真剣でした。
「そんな…!初めて会ったのに好意とか持つ訳ないじゃない!」
「そんなことないよ。じゃなきゃ、一目惚れなんて言葉は存在しないことになるよ。私だって初めて海に会って一気に恋しちゃったんだから、有り得ないことじゃないと思うけどな。」
口の端だけを上げて笑う和奏の姿に、なんとなく納得できたような気がします。
「…うん…そだね、連絡してみる。」
和奏はニッコリ笑いながら、無言のまま私の頭を撫で回すのでした。
時間の流れは早いもので、あっと言う間に金曜日になりました。
仕事を終えた私は、先日『お見合い』をした高級ホテルに来ました。早鐘のような心臓を落ち着かせるために数回深呼吸をします。
今日この場所にいる理由は、遡ること4日前の月曜日に和奏からの後押しもあり、勇人さんに電話をすることを決めたのです。
でもいざスマホを手にすると躊躇してしまい、なかなか番号をタップすることができずにいました。
そんなグダグダする私に苛立った和奏が、スマホを取り上げ勇人さんから貰ったメモを見て彼に電話を掛けてしまったのです。そして彼が電話を取った途端にスマホを私に返してきました。
『もしもし、勇人です。』
「は、は、はいっ!!勇人さんですね!!すみません!!友人から電話しろ、と言われたので掛けたのですが迷惑ですよね!」
焦った私は訳の分からないことを捲し立ててしまいました。和奏をチラ見すると、呆れた顔をしていました。
『卯月さん、電話ありがとう。もしかしたら掛かってこないかもと諦め欠けていました。だから、とても嬉しいです。』
勇人さんは元々穏やかな声質で言葉1つ1つが優しい響きなのです。でも電話だからか、耳元で聞こえる声は柔らかくフワフワした感覚に陥りました。
「あの、すみません。突然でしたよね?」
『いいえ、大丈夫です。電話を希望したのは僕の方ですから。正直今日1日スマホを手にしたまま、仕事をしていましたよ。』
受話部からクスクス笑う声がしていました。
『卯月さん。』
「…は、はいっ!何でしょう?」
『良ければ今週金曜日に夕食をご一緒しませんか?もう少し卯月さんのことを知りたいし、僕自身のこともあなたに知って貰いたいですから。』
その言葉を聞いた後は、自分が何を話したか殆ど覚えていませんでした。
ただ、和奏からひたすら茶化されながら帰ったことを記憶しています。
そういう理由で、もう2度と訪れることはないと思っていたこのホテルに再度来た訳です。
腕時計を見ると午後5時55分です。待ち合わせの時間は午後6時なので、もう1度大きく深呼吸をして自動ドアの前に立ちました。ドアが開きロビーに足を踏み入れました。ロビーには20席程のソファとテーブルがあり、その1つに座ろうとした時、
「卯月さん。」
と名前を呼ばれました。振り返ると、勇人さんがこちらに向かって歩いて来ました。
この間の日曜日は、紺のスーツにエンジ色のネクタイでしたが今日はライトグレーのスーツに鶯色のネクタイという出で立ちで、お洒落な人なんだな、と呑気に考えていました。
「あ、お待たせしてしまってすみません。」
私は慌てて頭を下げました。
「いえ、そんなことありません。僕もついさっきここに着いて座ろうとしたら、卯月さんを見つけただけなので。」
相変わらず優しい微笑みに、少し胸が高鳴るのを感じました。
「16階の店に予約しているので、行きましょうか?」
そう言ってさり気なくエスコートをしてくれました。
エレベーターに乗り、目的階へ着きました。
この階には、私とは無縁の三つ星レストランが立ち並んでいました。テレビで名前をよく聞くイタリアンや懐石料理店、中華料理店が目の前にありまるで夢を見ているような感じがしました。
「ここです。」
勇人さんから案内された店はフレンチレストランでした。確か、雑誌にも掲載されていた店で会社の女性同僚達が挙って行きたがっていました。値段もOLの私達では手が届かないグランメゾンなのです。
私が固まっていると、
「入りましょう。」
と勇人さんから軽く背中を押され店内へと促されました。中へ入るとレセプショニストに予約していることを勇人さんが伝えると、グリーターが席まで案内してくれました。大きな窓に隣接した席で、夜景が一望でき思わず魅入ってしまいました。
「卯月さんは、アレルギーや苦手な食べ物はありますか?」
「あ、いいえ。強いて言うと中まで火が通っていない肉類はダメです。」
私の答えにウェイターさんが
「それではメインの牛肉は、ウェルダンで宜しいでしょうか?」
と尋ねられました。
「え?は?ウェ…ルダン?」
意味が分からず戸惑っていると、勇人さんが
「ええ、彼女はそれでお願いします。僕はミディアムで。」
と助けを出してくれました。
ウェイターは一礼すると、その場を去って行きました。
「す、すみません。こんな場所は初めてで何も分からなくて。」
私は赤面するのを感じました。
「いいえ、構いませんよ。予約の際に既にコース料理をお願いしていたんです。まず前菜からで次がスープ、魚料理からソルベ。そして肉料理が来てデザート、カフェが最後です。カラトリーは1番外側から順番に使用します。」
「ソルベ?」
「んー、簡単に言うと氷果…シャーベットのようなものですね。魚料理と肉料理の間の口直し、といった感じです。」
「…勇人さん、すごいですね。とても慣れているようでなんだか尊敬します。」
私は思わず小さく拍手をしてしまいました。
「え、いや、そんなに感動されるとは…。僕も初めて来店した時は、ドギマギしてマナーなんて全然でしたよ。」
「ここにはよく来られるんですか?」
「そう…ですね。年に3、4回位は。実はこの店のオーナーは母の兄でしてね。だから、名前を言うと結構融通してもらえるんです。」
悪戯っぽい顔でそう言った勇人さんを見て、
お茶目なところもあるんだ。
と何気に嬉しくなりました。
食事をしながらの会話は、主にプライベートなことでした。とは言っても、休日のことや友人関係など当たり障りのないことです。
そして、食後のコーヒーが運ばれて来ました。
「お味はどうでした?」
コーヒーカップを持ちながら、勇人さんは尋ねました。
「はい、とても美味しかったです。真似して作りたいですね。」
と、言いました。
「卯月さんは料理は得意なんですか?」
「はい、家でもよく作ります。夕飯は残業が無ければ母と交代で作っています。」
「へぇ、凄いですね。僕は1人暮らしなので作るには作るんですけど、本当に簡単なのしか出来なくて…。だから、3日に1回は惣菜や冷凍食品を頼ってしまいます。ハハハ、お恥ずかしい。」
勇人さんは照れたように笑いながら、コーヒーを一口飲みました。
「あの…卯月さん。」
途端に真剣な顔付きになった勇人さんを見て、ドキッとしました。
「は、はい。」
「正直に打ち明けます。実は、僕4年程前から卯月さんを知っていました。」
「え?」
突然の発言に頭は真っ白です。
「よ、4年前…ですか?」
「はい。卯月さんの会社に僕の高校時代の友人が勤めています。高橋竜一なんですが、ご存知ですよね?」
「え?!高橋主任ですか?もちろん知っています。高橋主任は私が新人の頃の教育係でした。今でもよく相談に乗ってくれる先輩です。」
「はい、そのことも知っています。実は4年前に高校の同窓会があったんです。その時に高橋が会社の飲み会だという写真を見せてくれたんです。その中に卯月さんの写真が
あって…。率直に言って一目惚れでした。」
顔を赤らめながらも真っ直ぐに私を見る勇人さんから、目が離せませんでした。
「でも、当時卯月さんには恋人がいることを高橋から聞いて諦めるしかなくて。ですが、去年偶然取引先で高橋と再会してあなたが今フリーだと教えてもらったんです。ただ、高橋からの紹介となると仮に失恋したとしたら面倒なことになると懸念していた時に父と卯月さんのお父さんとの面識があることを知って、それとなく父に頼んだんです。」
意外でした。勇人さんは何をするにも迷うことなくこなせる人だと思っていましたが、私と同じで恋愛に関してはやや消極的なんだ、と思ってしまいました。
「で、でも私、高橋主任に自分のプライベートなことは一切話したことないんですけど、どうして色々知っているんでしょう?」
「ああ、それは…あいつはそういうヤツなんです。昔から色んな所から情報引っ張って来るんです。僕の兄が結婚した時、海外で挙式だったので家族や近い親戚にしか話していなかったのに、電話で‘おめでとう’を言われた時は面喰らいました。」
そう言えば、と思い出しました。
私が恭吾と付き合い始めた頃は、嬉しくて舞い上がっていました。でも、仕事は仕事と分別付けていたはずなのに高橋主任から「楽しそうだね。彼氏でもできた?」と聞かれ驚いたことがありました。そして、別れた時も
「元気ないけど、何かあった?」と言われました。
「人間観察が好きなんだ。」
何かの集まりの時、高橋主任がそう言っていたことを覚えています。
「卯月さん。」
「!…はい…。」
勇人さんはさっきより真剣な顔になりました。
「僕と…結婚前提にお付き合いして貰えますか?」
私の頭の中には、小さい天使達がラッパを吹きながら回っている姿が浮かんでいました。
「…結婚…前提…」
「はい。僕も32なのでそろそろ身を固めたいと思っています。先週お会いできた時点で心は決まっていました。お願いします!!」
テーブルにぶつけそうになる勢いで頭を下げました。私は暫く何を考える訳でもなく、その光景を見ていました。それはとても長い時間に感じられましたが、実際にはほんの数秒で我に返ったのです。
「あ、あの…は、はい。こちらこそ宜しくお願いします。」
一気に顔が赤面し、心臓は聞こえるんじゃないかと思うくらいの音を立てています。
勇人さんはゆっくり顔を上げると、今まで以上の笑顔で
「ありがとう。」
と言いました。
勇人さんとの時間はゆっくり流れていきました。交際してからも、彼の穏やかな性格は一切変わらずでした。
私の買い物にも嫌な顔をせずに付き合ってくれるどころか、似合いそうな服をチョイスしてくれたりもしました。
また、和奏のWデートしたい、と言う我儘も笑顔で了承してくれて海くんにとっても頼りになるお兄さんになっていました。
そして、交際から間もなく1年になろうとした頃でした。
それは何の前触れもなく突然やってきたのです。
その日、夕食を終え2人でW河畔まで歩きました。この場所を教えたの私です。親友とここで色んな話しをしたことを彼に伝えた後から、何度か訪れるようになったのです。
古いベンチに座り、他愛のない話しをしていました。
ふと、勇人さんが空を見上げたので私もつられて見上げると飛行機が小さく見えました。
「卯月…。」
勇人さんが空を見上げたまま、私の名前を呼びました。
「何?」
彼を見ると、ふと視線を合わせてきたのです。
「実は、先週金曜日に人事から話しがあって…。」
「え、人事からって…どうして?」
「うん。僕の仕事は商社だから時々海外への出張もあるのは知ってるよね。」
私は頷きました。
「ある程度出張を経験したら、海外への赴任も考慮されるんだ。」
「え?まさか…外国に行くの?」
今度は彼が頷きました。
「2年間向こうで経験を積んで戻って来たら、課長としての席が用意されることになってる。」
私は絶望的な顔で勇人さんを見つめました。2年間も離れてしまうなんて、考えてもいませんでした。
交際を始めてから何度か短期の海外出張があったのは確かでした。でも、出張ではなく赴任だなんて。しかも国内ならともかく海外だと会いたくても直ぐには会うことはできません。
彼とも…別れることになる?
そんな悪いことばかり考えてしまいました。
「…来て…くれない?」
「…え?」
「一緒に…向こうに行ってくれないかな?…妻として。」
ツマ?刺し身の?
夕陽のせいなのか、彼の顔は赤く見えました。
「妻として僕と一緒に来て欲しい。結婚してください!!」
結婚…。あ、ツマって妻?え!?結婚!!?
頭の中は最早パニックになっていました。結婚前提の交際とはいえ、まだ1年にも満たない時だったのでプロポーズされるとは予想もしていませんでした。
勇人さんはいつかと同じように頭を下げていて、私の心臓は爆音を立てています。
しん、とした中に魚が跳ねる水音がしました。それを合図にしたかのように、私は答えました。
「はい!是非結婚しましょう!!」
顔を上げた勇人さんは、鳩が豆鉄砲食ったようになっていました。
「え?何か変なこと言った?」
私が戸惑っていると、勇人さんは豪勢に吹き出し大笑いしたのです。
「え?え?勇人さん!」
「いや、ゴメン。だって、プロポーズの返事が是非結婚しましょう、って。想定外の返事だったから…」
口元を手で抑えながら勇人さんは笑い続けていました。
「ヤダ。私、そんなに変だった?ねぇ、勇人さん!!」
「大丈夫、変じゃないよ。あー笑い過ぎてお腹痛い。」
勇人さんは自分のお腹をさすりながら、笑いの余韻に浸っているようでした。
そして、ふくれっ面をした私に向いて
「でも、ありがとう。プロポーズ、受けてくれて嬉しい。ご両親に挨拶に行かなきゃね。」
そう言いながら、抱き締めてくれました。
それからは、トントン拍子で進みました。
お互いの両親への挨拶は、元々『お見合い』から始まったこともあり両家で食事会しながら、となりました。
この時初めて、賢人さんの奥さんと3歳の息子さんに会うこともできました。
海外赴任は引き継ぎもあるため半年後となり、そのため日本にいる間に結婚式まで済ませようということになり、式場は出会いの場となったあのホテルと決まりました。
私もまた勇人さんに着いて行くため、仕事を退職しなくてはなりません。そのことをまず高橋主任に伝えました。
「そうか!結婚するのか。おめでとう!!勇人の粘り勝ちだな。」
と笑いながら祝福してくれました。
和奏と海くんもとても喜んでくれました。
「あーん、卯月が2年も日本にいないなんて寂し過ぎるぅ。」
和奏は目に溜まった涙を必死で堪えながら、冗談めいた口調でそう言ったのです。私も堪らず和奏を抱き締め、そこから暫く2人で大泣きしたので、海くんがどうして良いか分からず慌てふためいる姿を見て、今度は大笑いしてしまいました。
そんなふうに結婚と海外への生活に向けての準備に忙しい日々を過ごしてきました。
そして、結婚式を2週間後に控えたある日のことです。
私は数日前に退職していたのですが、出張でずっと留守だった課長が夕方帰社すると連絡を受けていたので最後の挨拶に出向いたのです。その帰り道のことでした。自宅近くの公園に差し掛かった時、
「卯月。」
と呼ばれたのです。その声には聞き覚えがあり、嫌な記憶が一斉に蘇って来ました。
私はゆっくりと声がした方に振り向くと、そこに居たのはかつての恋人だった篠山恭吾が立っていたのです。
恭吾は最初に出会った頃の笑顔で近付いて来ました。
身体全体が硬直したように動くことも、声を出すこともできずにいました。
「卯月!良かった、やっと会えた。卯月の会社前で待っていたけどお前の会社、交番の直ぐ近くだろ。だから毎日ウロウロしていたら変に見られてさ。だからこの公園なら絶対に会えると思って待っていたんだ。」
彼は両手を広げながら、ジリジリと距離を詰めてきました。
「…い…や、ち、近…寄らないで!」
掠れた声のせいか、恭吾には聞こえていないようでした。
もう後一歩という所でやっと
「それ以上来ないで!!」
と叫びました。
恭吾はその場に立ち止まると、たちまち顔を歪ませました。
「な、何でそんなこと言うんだよ?俺だぞ。お前が大好きな俺が来てやったんだぞ。」
「…あ、あれから…もう3年近く経つのよ。…恭吾が、私を捨てたの。…私を家政婦と罵って、ほ、他の女と浮気したんじゃない。…今更、今更何なのよ!?」
恭吾は広げていた腕を下ろして言いました。
「聞いたよ。結婚するんだってな。…お前、結婚したがっていたもんな。だけど、俺がまだしたくないって言っちまったから、仕方なく他の男とするんだろ?でももう大丈夫、俺が戻って来たからさ。あの女はダメだった。カワイイだけで家事もまともにできないし、おまけに金遣いは荒いしで全く良いトコ無かったんだよ。でもお前は違う。家事は完璧で、仕事も中小企業だけどちゃんとやってる。俺にはやっぱり卯月しかいないって分かったんだ。なぁ、今からやり直そう!今なら直ぐに結婚してやるから!!」
何かトチ狂った言葉を発しました。
「…変わってないね。」
恭吾は、片方の眉毛だけをピクリと動かすと
「は?何が?」
と、威圧するような声で言いました。
「変わってないって言ったよ。3年近く経つのに、あなたは何も成長していない。昔から、俺様な態度で人を見下していたわ。今だってそうよ。何が結婚してやるよ、よ!頼まれてもあなたとなんかと結婚しない!それに私はもう既に人妻なの。先月私の29歳の誕生日に入籍したわ。夫はあなたなんかと比べる価値もないくらい素敵な人なんだから!!」
言い終わった後、私は肩で息をしていました。恭吾は私からここまで言われるとは考えてもいなかったようで、目を丸くして驚いていました。が、それもほんの僅かな時間でした。顔は徐々に険しくなり、両手は拳を握り締めワナワナと怒りに震えているように見えました。
咄嗟にまずい、と思い踵を返し逃げる体制を取ろうとするより速く恭吾から肩を強く掴まれ、公園の金網に身体を押し付けられたのです。
「痛っ!!」
私が悲鳴に近い声を上げると、
「うるせーーーっ!」
そう言いながら、握った拳を上から振り落とされてくる様がまるでコマ落としのように見えたのです。
殴られる!!
強く目を閉じ痛みを覚悟した途端に、金網に押し付けられていた身体が自由になる感覚になったのです。それと同時に
「イテー!!」
と恭吾の叫び声がしました。ゆっくり目を開けると、地面に倒れ込んだ恭吾が見えました。
何が起きたか分からないでいると、
「卯月!!大丈夫?」
と和奏が駆け寄って来ました。
「良かった〜、無事で。卯月の家に行く途中だったの。」
そう言いながら私に抱き着いてきました。
倒れた恭吾の側には海くんが立っているのに気付いた時、理解しました。
海くんは幼い頃から柔道を習っています。私が襲われているのを見て、海くんが恭吾を得意の一本背負いで投げ飛ばしてくれたのです。
「…こっ、このやろ…!」
倒れたままの恭吾は悪態付きながら、起き上がろうとしていましたがなかなか思うようにいかない様子です。
「動かない方がいいと思うよ。多分肋骨折れてるかもしれないから。救急車呼んであげるから、そのまま寝てろ。」
海くんは言いながら、スマホで119番をしていました。
「そうそう。下手に動くと折れた肋骨が肺や心臓に刺さって命の危機に陥るかもね。ま、そうなったとしても卯月には何の関係もないからね♪」
和奏が中腰の姿勢で恭吾を見下ろしながら、ウインクをして言いました。
いつの間にか騒ぎを聞きつけた近所の人達が周りに集まってきていました。その中の数人がスマホで撮影しており、誰かが呼んだ警察に動画を見せたことで恭吾は警察官とともに救急車で搬送されてしまいました。
後から聞いた話し、恭吾はやはり肋骨が2本折れており暫く入院することになったそうです。そして退院後は、私に対する暴行罪で逮捕されることが決まっている、とも。
海くんは警察に事情を聞かれましたが、動画で私を助けたことが明確だったので罪には問われませんでした。
とんでもないことになりましたが、逞しい友人カップルに助けられました。
結婚式当日は、雲1つない青空でした。
ホテル内の控室で着替えとメイクを済ませた私は、チャペルへ移動するためブライダルアテンダーさんに付き添われ部屋を出ると、そこには勇人さんが待ち構えていました。
真っ白なドレスに身を包んだ私を見て、勇人さんは少し照れたような笑顔になりました。
「とても綺麗だよ。」
頬を赤らめながら小さな声でそう言いました。
「ありがとう。勇人さんも素敵。」
シャンパンゴールドのタキシードを着こなした勇人さんは、いつもより凛々しく見えました。
勇人さんは右手で私の左手を握ると、そのまま引き寄せ自分の左腕に私の右腕を絡ませました。
「行こうか?」
勇人さんの優しい問に私は答えました。
「はい。」
結婚式、披露宴も滞りなく無事に終わりました。
和奏を始め多くの友人と会社の先輩や同僚達が来賓してくれ、本当に楽しく幸せな時間でした。
それと共に、日本で過ごす日々が残り僅かだと思うと寂しい気持ちにもなったのです。
そして、とうとうその日はやって来たのです。
私と勇人さんはN空港にいます。
見送りに来てくれたのは私の両親と勇人さんのご両親と兄家族。それから和奏と海くんも駆けつけてくれました。
「卯月〜!!元気でねー。手紙でもメッセでも良いから連絡してね。絶対だからねっ!!」
号泣する和奏を抱き締めながら、「約束する。」と伝えました。
「海くん。和奏をよろしくね。和奏に何かあったら私向こうから速攻で帰国するからね。」
「了解。和奏を泣かせるマネはしないから安心してよ。勇人さん、2年後帰国したらまた2人で飲みましょう。」
勇人さんは笑顔で頷き海くんと固く握手をします。
そして小声だけど私だけに聞こえる声で
「和奏ちゃんと結婚することが決まったら、卯月だけじゃなく是非僕も招待してね。」
と言うと、海くんは恥ずかしがりながらも「もちろん。」
と答えました。
いよいよ搭乗手続きの時間です。
私は両親を見て言いました。
「お父さん、お母さん。結婚式の前は恥ずかしくて伝えることができなかったから今言います。29年間育ててくれてありがとう。日本に戻ってきたその時に親孝行させてください。勇人さんと2人で力を合わせて幸せになります。」
黙って笑顔で頷く両親の目には薄っすらと涙が浮かんでいるのが見えました。
そして、勇人さんと私は見送りに来てくれた全員に一礼してから搭乗口へ歩き出しました。
色んなことがあった29年間でした。嬉しいこと、悲しいこと、辛いことなどがたくさんありました。
でも、今からの未来は愛する夫と共に新たな人生を歩んでいきます。
私を支えてくれた全ての人達へ…ありがとう。
《第5話に続く》




