第3話 小塚弥生の場合
私は小塚弥生。半年前バツ1になった33歳。元夫との間に子供はいない。
私達の結婚生活は、2年間という短い期間だった。こんなことになるなら、最初から結婚なんてするんじゃなかった!
私と元夫・石橋龍司が出会ったのは、私が29歳で彼が31歳の時だった。
現在も勤務している職場に、来客として訪ねてきた龍司がフロアをウロウロしていたから声を掛けたの。
「何かご用ですか?」
「あっ、すみません。開発部を探していまして。」
「あぁ、開発部は企画課の中に入っているので分かりにくいですよね。ご案内します。」
と、これが初めての出会い。
龍司は身長180cmの細身で、これまたスーツがよく似合う。イケメンではないがキリッとした一重瞼は見る人が見ればイイオトコの部類に入るのかも。
私自身小学校から高校までバスケをしていたお陰か172cmと女にしては高いけど、これが原因であまり男性から見向きされていなかった。やっぱり、小柄でいい意味でフワフワしている女性に目がいってしまうみたい。長身で体育会系の私は、例え合コンに行っても距離を置かれてしまう。
だからマンガに出てくるような偶然とか運命だとかは、私には程遠い言葉だった。
そして、龍司の勤める会社との合同企画が始まると社内で見かけることが多くなった。最初こそ目が合うと会釈する程度だったけど、乗っていたエレベーターに彼がたまたま乗り合わせてきたことがきっかけで少しずつ話をするようになった。
しかし、それでだけではなかった。仕事帰りに買い物に寄ったドラッグストアでばったり出遭い、お互い「あれ〜。」なんて言って笑い合った。
私は単身用マンションに住んでいたのだけど、彼もその近くのアパートに住んでいたようだ。
それを知ってなんだか、“これってもしかして…運命?”なんて柄にもなく思ってしまった。
初めての出会いから3ヶ月が経った頃、私が仕事帰りにいつも通る公園の近くを歩いていると、
「小塚さん!」
と後ろから呼ばれた。振り向くと龍司が小走りで駆け寄ってきた。
「こんばんは。今お帰りですか?」
と息を切らしながら龍司から聞かれた。
「ええ。でも金曜なのでどこかで食べて帰ろうと思ってて。」
私がそう言うと、
「それなら夕飯に付き合ってくれませんか?美味しい店知ってるんです。あ、でも居酒屋なんですけど大丈夫ですか?」
龍司はニコッと笑いながら私の目を見て言った。その目を見つめたまま私は笑顔で頷いた。
そして何度か食事に行くうちに、彼からの告白で交際をスタート。その2年後に結婚したのだ。
新婚生活は、とても幸せだった。そう…初めての結婚記念日を迎えたまでは…。
あれは確か結婚記念日から2ヶ月が過ぎた頃、突然龍司の仕事が残業続きになったのだ。彼の会社は、決算期以外そこまで残業のないホワイト会社のはずなのに。
私は不思議に思い、龍司に尋ねた。
「なんだか突然残業増えてない?」
帰ってきたばかりの龍司は、ネクタイを外しながら
「仕方ないだろ。新部署が立ち上がったのに社員だけじゃ対応出来なくなってるから、派遣社員をお願いしてるんだ。彼女らへの指導もあるから自分たちの仕事が後手に回るんだよ。もう少ししたら仕事にも慣れてくれると思うから、そうなったら早く帰れるようになるよ。」
スーツをハンガーに掛けながら、そう言い残し浴室へと消えて行った。
こういう時、女という生き物は第六感が働くものなのか掛けられたスーツの上着とズボンのポケットを探ってみた。が、何も入ってなかった。
勘違いか…そう思いつつスーツを掛け直すと、ふと嗅ぎ慣れない香りがしたのだ。もう1度、スーツに鼻を近づける。柔軟剤?いや、これは香水だ。私も龍司も香水は付けないし興味も無い。なのになぜ…予想した答えは1つ。
女だ。
私は浴室に入り、籠の中の着替えの上に置いてあるスマホを手にした。が、ロックが掛かっており解除の暗証番号が分からない。
それなら、プロに調べてもらおう。
翌日、昼休みを利用して下調べしておいた興信所に龍司のことを徹底的に調べて貰うように依頼をした。
結婚2年目を1ヶ後に控えたある日。夕食の後片付けを終えて一息ついていると、龍司が真面目な顔をして言った。
「ちょっと話があるんだ。」
私の対面に座った龍司は、俯いたままテーブルを見つめていた。
「どうしたの?何の話?」
静寂に耐えられなかった私が尋ねる。すると、おもむろに何かの紙を差し出した。
離婚届だった。
私の目はそれをしばらく凝視していた。
「離婚…して欲しい。」
龍司は椅子に座ったまま頭を下げる。そういえば、交際を申し込んできた時も、こんなふうに頭を下げてたな。なんて、目は緑の紙を見つめたままそんなことを考えていた。
「…理由…聞きたいんだけど。」
私がそう言うと、彼はゆっくり顔を上げて私の胸元辺りで視線を止めた。
「正直、俺達合わないと思う。付き合っていた時は、楽しかったし弥生を愛していた。…でも、結婚したら思っていたのとなんか違うって感じて…。うまく言えないけど、2人でいてもときめきがないというか…本当に家族になってしまったんだって思うんだ。」
なるほど、飽くまで性格の不一致が理由で真実は墓場まで持って行くつもりなんだ。
「…そう、龍司の言い分は分かった。でも、返事はすぐにできないわ。暫く考える時間をください。それと、私の心が決まるまで寝室を分けたいの。こんなんじゃ、同じ部屋で寝ることなんてできなさそうだから…」
「うん、分かったよ。突然で申し訳なかった。俺はソファで寝るから、弥生は寝室を使ってくれ。」
そう言って必要な物を取りに、いそいそと寝室へ向かって行った。
私は、既に龍司の欄は埋め尽くされている離婚届を両手で持ちながら、内心“やった”とほくそ笑んだ。
それからは変わらない生活を続けていた。時折龍司は何か言いたそうにチラチラと視線を送ってくるが、気づかないフリをしていた。
離婚を告げられて3週間が経った。これだけの期間があれば、私なりの準備も整った。だから、その夜ソファで寝転んだままスマホをいじっている龍司に声を掛けた。
「ん?」
私の声に上半身だけ起こして、こちらを見た。
「これ、書いたわ。」
離婚届を見せると、ソファから飛び跳ねるように立ち上がった。
「あ…ああ、あの、俺が言うのも何だけどホントに良いのか?」
「ええ、この3週間考えた結果よ。龍司の言う通りよ。確かに“家族”になり過ぎたんだと思う。」
それに不倫がわかった時点で、愛情なんて氷点下よ、と心の中で毒づいてみた。
不倫を疑い、興信所に依頼すること約1年。やはり、夫は真っ黒だった。相手は新部署立ち上げの際に派遣された女で、清水舞花。年齢は24歳。
舞花が一目惚れをしてアプローチを掛けたが、最初こそ既婚者を理由に距離を置いていたそうだ。だけど、興信所からの写真を見ると【ゆるふわ】という言葉がぴったりの可愛らしい女性から好き好き言われ続け、理性のタガが外れてしまい気が付けば…という感じらしい。
不倫の事実を受け、弁護士へ依頼もしている。あとはタイミングだけだ。
「私、1週間後に引っ越すから、離婚届はその時提出するわ。」
「引っ越し?実家にか?」
「ううん、会社が借り上げたマンションに空室が出たからそこに。会社近くだから助かるわ。」
「そうか。俺はこのままここに住んでい良いかな?」
「名義は龍司だもの。好きにしたら。それじゃ、お休み。」
その後私は引っ越しと共に離婚届も提出して無事独身に戻った。奇しくも、結婚記念日が離婚記念日になった。
と、ここまでが半年前の話。
独身生活を謳歌している私の元に、興信所からある情報が届いた。
それは、元夫が再婚したということ。
もうしばらく時間を置くかと思っていたけど、予想より速すぎて最早笑いが出てくる。
でも、これでやっと龍司と舞花に仕返しができる!早速興信所へ出向き、今まで溜まりに溜まった証拠の数々を貰い受けてきた。お金はかなり掛かったけど、2人の慰謝料に上乗せすれば良いだけ。
証拠の中に2人の会話の録音までもが入っていた。「ねえ、いつ離婚するの?」
「もう少し待ってて。今計画を立てているから。」
「舞花が奥さんに言ってあげようか?龍司さんは離婚したがってますよーって。」
「それは絶対にダメだよ!俺達が不倫してることがバレたら慰謝料請求されてしまう。そうなったら、舞花が望む結婚式ができなくなるよ。それでも良いのか?」
「ええー?そんなのイヤ!舞花のキレイなウエディングドレス姿を龍君に見せたいもん!」
「だったら我慢して。絶対離婚して、舞花と幸せになるから。」
なんて体中が痒くなるような話をしていた。
私と離婚したことは会社が同業である以上、誰かから漏れ伝わることは避けられないのに、離婚後すぐ再婚すると否が応でも不倫していたことは安易に想像できる。だからなのか、本来結婚は離婚後1年程経ってからを予定していたそうだがそうも行かなくなったそうだ。
理由は、舞花の妊娠だった。
龍司にとっても想定外だったはずだが、予定通りの結婚となると先に赤ちゃんが産まれてしまう。だから、思い切って入籍をしたのだ。
お腹の赤ちゃんに罪はないが、親となる2人には果たすべき責任がある。
今この時が絶好のタイミング。幸せの絶頂にいる2人を地の果てに叩き落とすため、会社と実家、そして離婚前に私と住んでいたマンション、今や不倫カップルの愛の巣に弁護士を介して内容証明を送りつけてやった。
さて、どうなることやらニヤニヤが止まらない。
内容証明を発送して2日後。この日は土曜日の昼下り。のんびりとコーヒーを飲んでいると、スマホの着信が鳴った。相手は龍司だったから、鳴り響く着信音をミュートにして放置。
内容証明には、私ではなく弁護士に連絡するよう記載がされていたはずなのでわざわざ応答する必要はない。しかし、スマホは何度も無音の着信を知らせてくる。仕方がないから出てあげた。
『おい!何だよ、この書類は!!俺が浮気?何の証拠があってそんなこと言うんだよ!』
私が出るなり、スピーカーにしたかのようなボリュームで怒鳴りつけてきた。
「あのさ、その書類に私には直接連絡しないように書いてあったでしょ。何の為に、弁護士さんの名刺を同封していたのよ。」
『そんなこと知るか!しかも、慰謝料300万なんて法外だ。認められるかよ!!それに、離婚のとき財産分与はきちんとしてるからそれで終わったはずだ。』
「弁護士さんと話し合って決めた金額よ。それに、財産分与と慰謝料は違うわ。不倫が本来の離婚理由だと分かったから、あなたと舞花さんが払うべきものなの。」
『ま、待て。舞花とは離婚後に付き合い始めたんだ。だから不倫にはならない。こんなの無効だ。』
「そう思うんなら、弁護士さんに直接話してよ。私はあなたとは2度と会うつもりはないから。」
『…ちょ、待て待て。今、親父から電話が…弥生、もしかして…。』
「もちろん真実を伝えてあげたわ。ご両親の目があれば慰謝料の支払いから逃れることは絶対できないでしょ。それじゃあ、早く電話に出てあげなさいね。さよーなら。」
何か言っていたけど、ブチ切って着信拒否にしてから残っていたコーヒーを飲み干した。
翌週月曜日の仕事終わり、弁護士さんから電話が掛かってきた。龍司の父親から連絡があり、週末土曜日に舞花の両親と共に事務所で会うことが決まったそうだ。
弁護士さんへ、
「慰謝料の減額交渉の可能性がありますが、不倫を隠して離婚した事実がある以上断固として請求額から1円も下げるつもりはない、とお伝え下さい。」
とお願いした。
私は変わらない日々を過ごしている。仕事終わりに同僚と買い物に行ったり、ジムで汗を流したり、時には友人から紹介された男性と食事したりと有意義な毎日だ。そんな中、約2週間ぶりに弁護士さんから全て片付いたのでお会いしたいと、と連絡が来た。正直、龍司がゴネてもっと時間が掛かると予測していたので思うより早く話が纏まったことに少し驚いたが、仕事を早目に切り上げて事務所へ向かった。
「お待ちしていました。」
待ち構えていた弁護士さんからソファに座るよう促される。テーブルにはA4サイズの封筒が2通と、長形の封筒が1通置いてある。
「さて…。」
向かいに座りながら弁護士さんがポツリ。
それから話し合いの一部始終始を聞くと、驚くことばかりだった。
龍司のヤツ、私との離婚は私の浪費と家事放棄が理由だと元義両親にウソを付いていたのだ。しかも、離婚したのはもう1年も前だったとも。
元義両親は、龍司のウソを信じて私に対してかなり怒り心頭していたが、私と龍司の勤める会社が取引先関係である以上大きな問題にしたくはないと、自分の両親を諌めたそうだ。
そして、これが1番の大ウソ。なんとまだ私との婚姻期間中に龍司と舞花、お互いの両親に結婚前提で交際していると紹介し合っていたそうだ。
これには怒りより呆れてしまった。どこで綻びが出てくるかも分からないのに、自分達の欲を優先したのだ。私はこんな最低な男と結婚していたんだ、と愕然としてしまっていた。
「不倫はかなり否定され、飽くまで性格の不一致が離婚理由だと。証拠を出せとまで言われましたので、預かっていた興信所の写真諸々をお見せした所、完敗されました。」
弁護士さんはにこやかに話を続ける。
「しかし、やはり慰謝料はゴネられました。お相手に関しては、自分は妊婦だから払えないとかツワリで気分が悪いなどの理由で数回に分けて話し合いを続けました。結局双方のご両親からのお叱り…いえ説得を受けられ慰謝料請求書にサインされましたのでこれがその書類です。」
テーブルに置いてあった2通のA4封筒から中身を出して私に見せた。確かに2人のサインが確認された。
「そして、これですが…。」
弁護士さんは長形封筒を差し出した。
「これは元ご主人のご両親から、迷惑料として弥生さんに渡して欲しいとお願いされました。」
中を見ると、帯のされた札束が2つ。つまり200万が入っていた。
「こ、こんなに頂けません!元義両親には何の罪もないのに、そんな…」
私が戸惑っていると、弁護士さんは
「元義両親は、息子のウソを丸々信じてしまった。よくよく考えれば、あなたがそんなことをする人間ではないことを分かっていたのに、息子可愛さに騙されてしまったことを申し訳なかったと伝えて欲しい、と言われていました。あ、それと慰謝料は一旦ご両親が立替えるそうです。借金として利子を付けた状態で返金してもらうから心配ない、とも仰っていましたよ。」
つまり、この200万を利子とした形で返金させるつもりなのか、と悟ってしまったので私は静かにバッグに仕舞い込んだ。
あの不倫カップルは妊娠している以上離婚させる訳にはいかないが、生まれたら舞花の両親が育てるそうで子供が大きくなって両親の真実を話し、それでも会いたいと言えば会わせてやる。それまで子供に会うことと実家に帰ることは禁止する、と強く言われたそうだ。
思った以上の制裁ができたので、やっと溜飲を下げることができた。
私は弁護士さんに今までのお礼を述べ、弁護士事務所を後にした。
帰る道中、龍司と出会ってから今日に至るまでのことが走馬灯のように思い出される。
初めて食事した店、初めて2人で出掛けた場所、交際を申し込まれた時のあの夕日、そしてプロポーズの言葉。結婚式で神様を前に永遠の愛を誓ったはずなのに、どこで間違えてしまったんだろう。少なくとも、私に非はない。遅かれ早かれ、不倫していた事は会社内に拡がるはず。その事で、白い目で見られたり出世に弊害が出たりするだろうが、そんなこともう私には関係ない。
「あ、両親に連絡しておかなくちゃ。かなり心配していたからな。」
思わず出てしまった独り言にクスッと笑った。
ふと、見上げると桜の花の綺麗なピンク色が月明かりに照らされている。
今は3月。私の名前の月。季節は春だけど、私の春はまだ来ない。でも、きっといつか私を愛してくれる男性がいるはずだから、私は私の未来を歩いていこう。
「さあ、明日も頑張ろう。」
柔らかな風にそっと背中を押されるように、私は家路へと向かった。
《第4話に続く》