第92話 真夜中に
静かな夜。それはそうだろう、今キラがいるのは宇宙空間の中を進む宇宙船の中の、さらに一人与えられた自室にいるのだから。
キラはここ最近、少しだけ寝不足だった。それは夜もう寝ようかとなって、ニジノタビビトにおやすみと言って自室に戻ってから、毎日自分の知っているレシピを下書きしては初心者でも作りやすいように加筆修正してからポイントもまとめて清書するということを繰り返していたためだった。
ニジノタビビトがこのレシピを見て料理やお菓子作りをしようと思ってくれるかどうかは分からないが、今の自分にできることはこれくらいしか思いつかなかった。これはエゴだと小さな呪いという言葉が思い浮かんだくらいなのでそれくらいはとうに理解している。
「ねえレイン。俺は君に何か渡すことができるだろうか」
キラは必死に紙にペンを走らせながら一人呟いた。今書いているのはスコーンのレシピ。きっと彼にはミルクを入れた後の捏ねない混ぜ方が難しいだろうからとそこの部分の解説を丁寧に書かなくてはいけない。
キラはミドルスクールのときの美術の成績は三とか四だった。しかしこれは美術という技術が重視されがちな科目を慮った先生によって小テストがあったことによるものなので、絵が苦手でも真面目に取り組めば三を取ることは難しくなかった。要するにキラは絵が決して得意ではない。嫌いという感情はなかったが、教科書の片隅に落書きをしても恥ずかしくなってすぐに消しゴムをかけてしまっていた。
だから本当は、これから大切な友の手元に残り続けるかもしれないこのレシピ集にできれば直筆のイラストなんて載せたくなかった。それでも第七三七系の準惑星を発ってから思い立ったので、レシピに書き起こしたい料理を全部作ってその過程を写真に撮って印刷したりまとめたりするなんてことはできなかった。もう時間のないキラに出来るのは、できる限りわかりやすいように、理科のスケッチや数学の図形のように食材の切り方や混ぜ方をシンプルな一本線で描くように努めることだった。
「よし、次は……」
スコーンのレシピの清書は終わったので、今度は同じ用紙の右の隅っこにバリエーションについて記載し始めた。時間がない中でできるだけ多くのレシピを渡したいと思ったキラが考えた策が、一つから多く派生させることであった。
例えば今書いているスコーンのレシピで言えば、中に混ぜ込む具材を変えることで味のバリエーションを作れるだとか、ミルクの分量を十グラム増やして生地を折って作ればジャムやクロテッドクリームを乗せて食べるのにちょうどいいものが作れるだとかを書いておく。
そうすることで、今までニジノタビビトと共に食べてきた料理やお菓子だけでなく新しいものも作って貰えるかもしれないと、そう思ったのだ。
宇宙というのは意外と多彩だったりする。黒っぽかったり青っぽかったり紫っぽかったりすることが多いが、緑も赤も白もある。黄色だってある。それでも宇宙の色味というのはどこまで行っても宇宙の色味なものだから予想できるかわり映えと言うべきか、些か単調と言うべきか。今キラが乗っている宇宙船というやつはどこかの恒星の周りを回っているわけでも自転しているわけでもなく、ただまっすぐ進み続けているので外側の景色に時間の移ろいというものがない。
そんな朝も夜のない宇宙をひた進む宇宙船内の一つの部屋の小さな《翡翠の渦》に巻き込まれてしまった人間は、もう明後日には故郷の星、第七五六系第三惑星メカニカに帰還する予定である。




