第72話 キラとレイン
「レイン、レイン。顔を上げて」
ニジノタビビトはブンブンと頭を横に振ってそれを拒否した。今キラの顔を見たら、その優しい目を見てしまったら泣いてしまうことが分かっていた。その声音で分かる、自分がさみしいと思ってキラがすぐに故郷に帰れることを喜べない部分が幾分かあることをこれっぽちも怒ってなんかいないだろう。
キラは頑なに顔を見せてくれないニジノタビビトを見て、まず両手に持った買い物袋をそっと地面に置くと、ニジノタビビトの手を取って買い物袋を持ちながら手のひらに爪を食い込ませている指を解いた。それから、ニジノタビビトが持っていた荷物をそっと奪ってそれも地面に置いた。空っぽになったニジノタビビトの両手を指先だけで緩く握るようにしてからキラは膝をかがめて顔をのぞきこんだ。
「レイン」
ニジノタビビトはギュッと両目を瞑って涙腺と一緒にそのグレーのようなそれでいて光の加減で色を変えるどこか不思議な目を隠した。
「レイン?」
もう一度、キラが優しくて柔らかい声で名前を呼んだ。キラが、ニジノタビビトという役割や俗称ようなものでしかないその名ではなく、あだ名のような少しの遊びと親しみと、ある種の畏敬をこめてつけた名前。
そう何度も優しくお気に入りの名前で呼ばれてしまって、ニジノタビビトは固く閉じていた瞼をそっと、恐る恐る上げた。ああ、やっぱり。キラはニジノタビビトが予想した通り優しく、まるで泣いている子供あやす大人のような顔で笑っていた。一度目を開けてしまったら、もうどんなに唇をかみしめても涙腺を上ってくるものを我慢できなくなって、とうとうポロッと一粒溢れて落ちた。
キラはその様子に慌てるようなことはなく、手に込める力だけをほんの少し強くした。
「レイン、俺はさみしいって思ってくれたことが嬉しいよ」
ニジノタビビトは一度溢れてしまったせいで止まらなくなってしまった涙をポロポロと落としながら嗚咽はあげずにキラの方を見返した。
「だって、それだけレインの中で大きい存在になれたってことだろう? レイン、俺だってさみしいよ。レインと、旅をできなくなるのがさみしい」
このたった十四日の日々はキラの価値観を大きく変えるものだった。ニジノタビビトには言わないが、星に帰らなければ生きていることすら確認されないのだから自分を死んだことにして二人で旅を続けられたらなんて妄想をしたこともあった。それからニジノタビビトが記憶を取り戻して、旅をする必要がなくなって同じ星に定住できたりしないかなんてことまで考えを巡らせてしまったりもした。
それでも、どんなに考えても、やはり二十余年の日々を生きた星を、生活を、考えてきた未来を捨てることはできないし、ニジノタビビトの虹をつくるという美しいことをやめさせるようなこともできなかった。
「あーあ、テレポーテーションでもできれば惑星メカニカでの生活も手放さずにレインと旅を続けられたりしたのかなあ」
キラは自分が言っていることが幻想だとはっきり分かっていた。分かっていたけれど、こうだったらいいなを口にするくらいは許して欲しかった。こんなことを口にしながらもどうすればこの大切な友人と別れなくていいかということを考えていた。
ニジノタビビトはキラの顔を見てハッとした。さっきまで幼子に相対するような穏やかな笑顔だったキラの顔がだんだんと歪んで目に張られた膜が夕日の暖かなオレンジ色の光をピカピカ反射していた。
「レインと、旅をできなくなるのがさみしい。一緒にいられなくなるのがさみしい。もう虹をつくる姿を見れなくなるのがさみしい。一緒にご飯を作って、それを食べられなくなるのがさみしい。……レイン、レイン」
それからキラは何度も繰り返しレインと呼んだ。ニジノタビビトもつられて返事をするようにキラの名前を呼び始めた。
キラの頬をオレンジの光をキラリと反射するものがゆっくり落ちていった。




