第60話 感情でできたカケラ
ラゴウは安全装置のカバーを外してゆっくりとスイッチを押し込んだ。そして何かに促されるかのように下ろした瞼の裏に、そっと白い情景が浮かぶ。
不思議な感覚だった。しかし今までに一度だけ体験したことがあるような感覚。カケラを握ったときの、あの激情を目撃したとき。確かにあのときと似ていたが、それでも今回は自らの、自らだけのものであるのだから、慣れ親しんだ感覚と少しの孤独があった。
目を開けたラゴウは白い空間にいた。目の前には白をベースに青が混ざり、ところどころにあんず色の入った渦がある。渦は大きくラゴウの背丈よりも五十センチほど高い。横幅は両腕を伸ばしても少し足りないくらいある。ふと、上と下が絞られていて人口グラフのツボ型みたいだと思った。
どうしてかあれが自分の感情なのだろうと勘で分かったラゴウは渦に向けて一歩踏み出す。この白い空間は歩くことは出来るが、かと言って足元に床のようなものがある感覚もない。まるで空を歩いているようだった。
地面の感覚がないせいで膝が外に向いて空振るような変な歩き方になったが、すぐにあと五歩で渦に触れられるところまで来た。
「これが、私の感情なのか」
ああ、私の感情はこんなにも綺麗に出来ていたのか。ラゴウはもっとずっと、どろどろとして手で触れるのを戸惑うような、醜くて目も当てられないものだったらどうしようと思っていた。きっと感情なんて綺麗なものだけでできているわけがない。少なくとも自分はそうだと思っていたから誰にも言わなかったけれど頭の片隅で怖かった。
ラゴウは自分の感情の渦にあんず色があることを不思議に思って、すぐに思い当たるものがあることに気がついて一人顔を赤くした。
「いや、誰にも見られていなくてよかった……」
ラゴウは両手で顔を覆って呟いてから、気をとりなおすように両頬をパンパンと軽く叩いた。
「これに、触れて取り出して色を付けるって言っていたか?」
ラゴウは五歩分の距離を縮めて、ゆっくりと手を伸ばして渦に触れた。
「あっ、う、あ……?」
これらは全て知っているものだ。ラゴウが今まで感じてきた考えてきたものたち。心の奥底にあって自分を支えも苦しめもするものたち。
ラゴウは糸を手繰り寄せるようにして何とか手を引く。渦から離れた右手の中には手のひらから少しはみ出すくらいの小さな渦があった。大元の渦は白をベースに青が混ざり、あんず色がところどころにあるのに、手元の渦は青が多く、濃く、少しだけ濃い赤が混じっていた。
「やあ、私の感情。君は私が鬱屈なときのものかな」
そう言ってからラゴウは左手で渦を覆うようにして、少しづつ力を込めて握りしめた。自分にもよくわからないが、こうするものだと思ったのだ。小さな風がラゴウの前髪を揺らす。
ゆっくり左手を開けて右手に乗っていたのはもう渦ではなかった。それはニジノタビビトに見せてもらったものとは違って、幅広の八面体に近いカケラに形を変えていた。カケラは渦だった時とは異なり、そのもの自体が色を持っておらず、無色透明なカケラが濃い青や赤色を反射しているようであった。
「好きな色と言っていたけれど、やっぱり虹をつくるんだから虹の七色にしたいな」
そう言ったラゴウが最初のカケラにつけた色はケイトと旅行に行った時の暖かい地域の、凪いだ海のようなあお色だった。
「ねえ、本当に大丈夫なの?」
ラゴウはスイッチを押して瞼を下ろしてからときどきぴくりと手足が動いたりするものの目を瞑ったままで、ケイトが隣で小さな声でニジノタビビトに問いかけていてもそれに対する反応はなかった。
「はい。異常は起こっていませんから大丈夫ですよ」
ニジノタビビトもラゴウの邪魔をしないように座るケイトに顔を近づけるように屈んで極々小さな声で言った。
ケイトはもどかしい思いをしながら、見た目はまるで椅子に座ったまま居眠りをしてしまったようなラゴウを、そのあんず色の瞳で見守るしかなかった。




