第190話 サルニ・ガロンの慟哭
キラは一度通信機から視線を離した。そして目を強く瞑って瞼の裏の暗闇を泳ぐミミズに少しだけ意識を向けた。それでもここで止めるわけにもいかず、夜が更けつつあるのも明日が遅くないことも分かっていながらキラはもう一度ブルーライトに目を晒した。
待ち合わせは昼を過ぎたカフェのテラス席だった。冬に差し掛かる秋のことだったが、屋外式のヒーターがあったおかげで寒くはなかった。むしろあの時は時間帯と季節とが幸して周りに人がおらず、気を使うこともなくていいとすら思っていた。
息子の恋人は笑顔が素敵な女性だった。見た目も雰囲気もあまり似ていないが溌剌としてカラカラとその快活な笑い方が、亡くなった妻に似ているかもしれないと思った。
息子と息子の恋人が並んで座り、その向かいに私が座った。最初は緊張していたようだったが、三人で話をするうちにそれも解れていったようだった。二人は結婚の約束をしているのだと言った。息子は婚姻届の証人の欄に名前を書いてほしいと言ってくれた。あの時は生きてきた中でも五本の指に入るくらい幸せな時だった。
しかしやがてあれが現れた。
あの時時間をずらしていれば、あの時あのカフェにしなければ、あの時室内の席に案内してもらっていれば、考えれば考えるだけ、たらればと後悔が今も私を苛み続けている。
あの時、最初に巻き込まれたのは息子だった。正面に座っていた私は呆然としている息子の顔が見えていたのに何もできなかった。何が起きたのか理解すらできなかった。しかし隣に座った彼女は一も二もなく手を伸ばしてくれていた。私はそれを見ていることしかできなかった。
私は、息子が白と緑と少しの薄紫に吸い込まれていく様を何も分からず見ているしかできなかった。息子の恋人がおそらくそれを翡翠の渦だと気づきながらも手を伸ばしている様を見ているしかできなかった。息子と息子の恋人が目の前から消えてしまっても何も言葉を発することもできずに、座ったまま呆然とするしかできなかった。
それが翡翠の渦だと言われるものだったと気が付いた時には既に目の前の二人と、息子が座っていた椅子はなく、不自然に残った椅子が一つと、飲み掛けのカップが二つ残っているだけだった。
私はなぜあの時手を伸ばせなかったのだろう。せめてあれに巻き込まれたのが私であったならば。
テラス席は道に面していたので目撃した人が他にもいたらしく、気が付いたら私は警察で事情聴取を受けていた。もう何を言ったのかも覚えていない。どうしてそこに行ったのかも覚えていない。その後どうして家に帰ったのかも覚えていない。
ただまた気が付いたら家にいて、朝丁寧にまとめた髪はぐちゃぐちゃで、服はなんだか萎びていて、靴は傷だらけになっていた。
今の私はあの時なぜ手を伸ばせなかったのかという後悔によって突き動かされている。きっともう二人を見つけるか私が死ぬまで止まれない。
私はこの衝動の途中経過をこうして論文の形式でまとめることで知ってもらおうと思ったが、これが到底論文とは言えないようなものであることは知っている。これは、私のただの自己満足で、私の備忘録なのかもしれない。
これを書いている今も、二人の手がかりは何も見つかっていない。
キラはなんとか導入のところだけを読み終えた。そしてこれが論文として発表されたことに安堵した。例えばこれがブログなんかであったならばもっと嫌に騒ぎ立てられていた可能性がある。
これが素人の、サルニ・ガロンという名前を知られていない人間の論文だからここまで知られていないのだろう。
キラは寝不足など知ったことかとベッドから起き上がって電気はつけないまま窓のそばまで行って外から入る青白い光を浴びながら続きを読み始めた。