第189話 論文の書き出し
キラはやはり気になったので論文を冒頭だけでも読んでみることにした。その前に寝落ちして明日寝坊していやなので先にアラームだけセットした。
キラはベットにうつ伏せに寝転がって首だけ右に向いて通信機の画面を見た。目に悪いのは分かっているが既に消灯したので通信機の光量は最小限にした。
論文の導入ではこの論文を書くに至った経緯みたいなものが書かれていて、自分は《翡翠の渦》を目の前で目撃して調べ、人に知ってもらいたくて大学生ぶり、何十年ぶりに論文を書くことにしたのだ、と書いてある。
「じゃあこれは論文じゃないまである」
まあ、それは論文を学術的な研究結果をまとめたものと意義した場合の話なのでまだ筋道を立ててまとめたものという論文である可能性はある。
キラはまだまだと諦めずに読み進めることにした。そもそもキラは《翡翠の渦》に巻き込まれたが、目撃したことはないのだ。この人が《翡翠の渦》を目撃したというのであればそれは何か参考になるかもしれなかった。
そしてこの導入はまるで物語であるかのよう綴られていた。
私は息子と、その恋人が翡翠の渦に巻き込まれてしまう場面を目撃した。いや、目撃したというよりは目の前で二人を失った。私は今でもその時のことをとても後悔している。
そんな書き出しで始まった筆者の過去は顔に力を入れて歪めなければ涙がこぼれそうになってしまうものだった。
私はその日、息子にあるカフェに呼び出されていた。恋人を紹介したいのだと言われた。私には妻がいない。だいぶ昔に病気で亡くした。一人で息子を育てるのは大変だったし息子にも寂しい思いをさせて、辛い思いをさせて、苦労をかけてしまっただろうが、こんな私の息子にしてはまっすぐ優しい子に育ってくれた。
そんな息子が恋人ができたのだと教えてくれたのはあの日の半年前だった。もう社会人になったのにそんないちいち報告しないようなことを教えてくれる子だった。おそらく私が早期退職して細々と一人で生きているのを心配してくれていたのだろう。いつか会わせるから楽しみにしていてくれと言われた。実際とても楽しみで、晴れ姿を見ることを楽しみに結婚資金を貯めてやろうと学校の清掃の仕事も始めた。
気が早いと言われればそうだっただろう、しかし私にはなんだか会ったこともない息子の恋人が娘になってくれる予感がしていた。
そして半年後、あの日に息子は恋人を紹介してくれるのだと言った。年甲斐もなく、恥を偲んでいつも安い床屋ではなく美容院を予約した。これでも私のような老いぼれでも入りやすいところを探した。恐る恐る入店し、息子の恋人に会う予定があるのだと告げたらニコニコ笑って綺麗に整えてくれた。おすすめのワックスを購入して、そのまま優しい印象を与える髪型とか付け方の指導までしてくれた。
スーツなんかでは流石に緊張させてしまうかと思って色々調べながら穏やかさを感じるような服装を探して、良さそうなブランドの店に行き、店員に協力してもらって一式揃えた。
靴は昔から使って馴染んでいる革靴を磨いてもらってきて、ソワソワと当日を迎えた。今思えば、どんなに浮かれていたことだろうと思う。
まるで物語のようだった。一人語りだが、それだけの重厚さがある。
実はキラは論文を読んだ経験があまりない。レポートの参考文献は図書館で書籍を借りることの方が多く、論文はインターネットで検索した短いものを読んだくらいだった。
それくらいの経験でもなるほど確かにこれは論文とは言えないかもしれないと思った。しかし、それよりよほど信用にあたる資料になりうるかもしれないと思った。目の前で子供と、その恋人が消えてしまったともなれば相当な執念を持って調べたのではないかと予想できたからだった。