第119話 担当者カルーセル
予想通りだ。キラはため息を吐かないように、しかし大きく息を吸って鼻から吐いた。心の中ではもっとあからさまに何度も大きなため息をついている。いや、この目の前の慌てようを見れば静かになら大きくため息をついても誰も気づかなかったかもしれない。
今キラはパイプ椅子に深く腰掛けていつもよりも背中を丸めながら恨めしげに目の前で数人の大人がバタバタしているのを疲れたように見ていた。その大人たちというのは役所の職員で、少しずつ話が広がっているらしく、さっきから慌てふためく大人がどんどん増えている。大人が慌てている原因は確かにキラになるのかもしれないが、そのキラだって《翡翠の渦》に巻き込まれたのは不可抗力で被害者であった。
キラが役所に足を踏み入れてまず向かったのは、さまざまな個人相談を受けてくれるブースがあるところだった。この個人相談ではジャンルに関わらず、一度話を聞いてくれ、そこからさらに最適な部署に回してくれるらしい。順番待ちの整理券を切って、いくらか待つと、ポーンという音と共に整理券の番号と入るべきブースが伝えられた。それで呼ばれたブースが端っこの、壁寄りの目立たないところだったのはキラにとって運が良かった。
ブースに入ったキラはそこでカルーセルと名乗った担当者と対面して、本題を話始める前に予め「できるだけ、騒ぎにならないようにお願いします。これから話すことを外に漏らしたりしないでください」とお願いをした。そしてこっそりパンツのポケットに入れた通信機で録音も始めていた。こんなことができていたのだからキラは存外冷静だった。
三十代半ばごろと思われる男性の担当者、カルーセルが訝しげながらも頷いてくれたのを確認してから、もう一度騒ぎにしないようにお願いしますと念を押して、自分がキラ・ラズハルトであると名乗りでた。
最初はピンときていなかった様子だったので、四ヶ月前に《翡翠の渦》に巻き込まれたキラ・ラズハルトですと言うと、カルーセルはしばらくの沈黙の後にあんぐりを口を開けて喉が震えたものだからキラは慌てて身をずいっと乗り出して、騒ぎにしないでください! と迫った。
カルーセルはなんとか叫び出すのを堪えたが、今自分の目の前にいる男の言っていることが信用ならなかった。確かに、報道で見た顔のような気がするし、年齢の頃もあっている気がするが、今まで誰も生きて帰ってくることの叶わなかった《翡翠の渦》の被害者がまさか本当に目の前にいるようなんてこと、起こっているはずがないとそう思ってしまうのは致し方のないことであった。
しばらくあんぐりと口を開けたまま間抜けな表情で眼前に迫ったキラに大声を上げられないよう牽制されていたが、少ししてなんとか頭が回り始めると、訝しげな様子を隠すこともなく聞いた。
「本当に、ラズハルトさん本人なんですか?」
「本当にキラ・ラズハルトです。そこはまあ疑われると思ったので、身分証を持っていますから照会してください」
そう言うとキラは財布からバイクに乗るために取得した運転免許証と、保険証も一緒に出した。カルーセルはそれを受け取って、確かにキラ・ラズハルトのものであること、免許証の写真の面立ちが目の前の彼と同じであることを確認してどうしてか分からない冷や汗をかきはじめた。
「え、ほんも、本物……?」
「はい、《翡翠の渦》で飛ばされた先で宇宙を旅している人を見つけてなんとか頼み込んで雑用をしながらここまで連れてきてもらったんです」
「ちょ、ちょっと上を呼んできますから、その、ここ、ここで……少々お待ちください」
「はい、あの、マスコミとかに絶対に騒がれたくないので、できるだけ内密に、静かにお願いします。……連れてきてくれた人に絶対に迷惑かけられないんです!」
「分かり、ました。こちらお預かりしますね」
カルーセルはキラの運転免許証と保険証を預かってそれを握りしめながら上司の元へと急いだ。あまりのことにパニックになった彼は鬼気迫る様子で絶対に迷惑をかけられないと言ったキラがもしかして脅されてもいるんじゃないかと思いはじめていた。