第108話 セージ・タフカル
「キラ? どうしたの?」
「いや、セージって誰だったかなと思って……」
「あら……、もしかしてキラくんのお友達じゃなかったのかしら? でもそれにしては随分熱心に来ていたのだけれど……」
「多分、名前の方で呼んでいなかったんだと思います。それにしても、そんなに俺と関わりが深いのなら名前を忘れているわけがないと思うんだけど……」
キラはセージ、セージと繰り返しブツブツ呟いてなんとか思い出そうとした。どこかで聞いたことはあるとは思うのだが、自分が《翡翠の渦》に巻き込まれたのをそれだけ心配してくれて家にまで来てくれるような人の名前を覚えていないことがあるだろうか。
キラはそこでハッとした。どうしてその人は自分の家を知っていたのか。キラの家はユニバーシティから自転車で行ける距離ということもあって、ユニバーシティの友人が時折訪れたりしている。その中にいたことがあるか、キラの自宅を知っているような人物から聞き出さなければ知りえないはずだ。ということはやはりユニバーシティの人間だろう。
もういっそ自分の住所があちらこちらで知られている可能性があることはここまで来たらどうでもいい。
「セージ、そうか、もしかしてセージ・タフカルか……?」
「思い出した?」
「うん、セージという名前に一人だけ心当たりがある。授業がいくつか被っていて何回かグループを組んだことがあるんだ。でもそれも座ってる場所が近くて教授が適当に組んだやつだから、正直そこまで仲が良かった気はしな――」
ピン、ポーン――。
あ、という声が聞こえた。キラは自分は声には出していなかったと思ったが、実際に耳に音として入ってきたので、自分から発せられたものか、他の二人がこぼしたものか。実際には三人が揃ってあ、とこぼしていた。
キラは出ようとしたカプラのことを制して、ゆっくり音を立てないようにドアに近づいて覗き穴を見てからそっとドアを開けた。
「あ、キラくん? 本当にキラくんだ……!」
「……タフカル、だよな」
「うん、そう、そうだよ! よかった、本当によかった!」
カプラの部屋のドアを開けて出てきたキラを見て、ヒョロリと線の細い銀縁の丸メガネをかけた前髪の長い青年、セージ・タフカルはその興奮を抑えきれないようでそれでも閑静な住宅街の迷惑にならないように声を抑えようとする努力の見られる少し上ずった声でキラの名前を呼びながら泣き出した。
「あのね、僕、僕、キラくんが《翡翠の渦》に巻き込まれてしまったところを見ていたんだ。あの時、結構距離があったし、突然のことで動けなかったんだけれど、消えていってしまうキラくんの顔が忘れられなくって……。本当によかった、よかった」
ぼろぼろ泣き出したセージに思わず手を伸ばしたキラの手を取ってセージはまたぼろぼろと涙をこぼした。
「ごめんね、大家さんにはキラくんととっても仲がよかったって言ってしまったんだ。でも、キラくんが無事で本当によかった。生きていてくれて本当によかった……!」
《翡翠の渦》に巻き込まれた場面を目撃していたとはいえ、キラはどうして授業で数回グループになっただけのこの青年がこんなにも自分の無事を喜んでぼろぼろと涙をこぼして泣いてくれるのかは分からなかった。しかし、先ほどまで怪訝に思っていた心はもうなかった。理由はいまいち分かりきっていなかったとしてもこの涙と、喜色のまじる声音と表情とが本当のことだと物語っていた。