第102話 大家さん
キラはまず、自分の部屋がある二階ではなく、一階にある大家さんの部屋の前に立った。およそ四ヶ月の間、自分の部屋がそのままである気が、当然ながらしていなかったためだった。
ピン、ポーン――。
少し音の外れたチャイムが鳴る。
「……はい、はい、どちら様ですか?」
キラが鳴らしたチャイムの音の後、トタトタという軽い音がかすかに聞こえ、ドアが開いた。そこにいたのは少し腰の曲がった優しそうなおばあさんだった。
そのおばあさんはドアを開けたら知らない、決して背の低くない帽子を目深にかぶった若い男性が立っていたものだから目を見張って固まってしまった。
キラはつい、とかぶった帽子のツバを上げて顔を見せるようにしながら少しだけ膝を折って小さめの声で話しかけた。
「大家さん俺です、キラです。キラ・ラズハルトです」
「えっ……、キラくん? 本当にキラくんなのかい?」
大家さんのおばあさんは目の前に立っているのがキラだとはすぐに気付かなかった。これでも一応変装をしているので、すぐに気付かれてしまえばそれはそれで多少の問題があるのだが。キラは改めて大家さんと視線を合わせるようにすると、もう一度ゆっくり語りかけた。
「そうです、俺、《翡翠の渦》に巻き込まれちゃったんですけど、飛ばされた先で助けてくれる人に会えて、戻って来れたんです」
「そんな……」
大家さんは両手で口元を覆うようにして絶句した。が、すぐに震える手を前に伸ばしてキラの首に腕を回すようにした。キラは中腰になって頭だけを前に突き出すようにしながら、それを受け入れた。キラの肩には少しだけ濡れたような感触があった。
少しして落ち着いた大家さんは確かにキラの顔と声をした男性だと確かめるとそっと両手でキラの頬をおおってまじまじと見た。
キラは大家さんの両手をそっと持って紹介したい人がいるんですと言ってニジノタビビトの方を振り返った。
「カプラさん、この人が俺を助けてくれたレインです。レイン、この人は大家さんのカプラさん。いろいろ親身になって気づかってくれてたんだ」
キラはあえてニジノタビビトの名前を持ち出さずにレインという自分がつけたあだ名のような愛称のような名前で紹介した。
カプラは深々とニジノタビビトに頭を下げるとひとまず中へどうぞと入り口を開けてくれた。
「キラくん、その、ごめんねえ。キラくんの部屋にあった荷物、片付けてしまったんだよ」
「いや、まあ……なんとなく予想できていたんで大丈夫ですよ」
カプラの部屋に通されたキラとニジノタビビトはお茶を出してもらってカプラと対面していた。ニジノタビビトは誰かの家に入るのが実は初めてだったが、宇宙船内ではラクだからという理由で靴を脱ぐことの方が普通だったので、キラのちょっとの心配をよそに土間で靴を脱ぐことにこれといった抵抗もなく、カプラに出されたスリッパにそっと足を通した。
カプラはお茶を出してすぐに、しかし言いづらそうにキラの部屋だったところの現状を告げた。カプラの言葉にショックを受けないわけではなかったが、予想はできていたしそうしても致し方ない、むしろ当然であったともキラは思っていた。
しかし続けられたカプラの言葉に沈んだ気持ちは一気に浮上した。
「それで、大きなタンスとか、そういうのは部屋に置いたままで……。私の踏ん切りがついたらねえ、家具付で新しい人を募集しようと思ってそのままなんだけどね、こまごましたものなんかは段ボールに入れてしまってあるのよ」
勝手に部屋に入って片付けてしまってごめんね、カプラは繰り返し謝った。
しかしこれはいい意味で予想外であった。てっきり、捨てられていたりリサイクルに出されていたりしているものだと思っていたのだ。そりゃあ食品なんかは捨てられただろうが、自分の物が残されているというのはありがたかった。
カプラはキラが《翡翠の渦》に巻き込まれたと報道で知ってから、三日後に家に入って腐る前に食料品を捨てた。さらにそのひと月後、ひとまず細々したものをダンボール箱に詰める作業を一ヶ月かけて少しづつ進め、家具や電化製品をそのままに一応は次の人が入居できるような準備を進めてはいた。しかし、キラが死んだわけではない、もしかしたら戻ってくるかもしれないという希望が捨てきれずに、この二ヶ月ほどの間は空気の入れ替えと掃除をする以外何も出来ていなかったのだった。