マリス
マリスは王国のただ一人の直系王子として生まれた。
唯一の王子として幼い時から、欲しいと思う前に周囲の人々がマリスの望むものを完璧に用意した。
他者は自分に従い自分の都合に合わせることが当然であったマリスは、ルルーシアを切り捨てた時も何の呵責もなかった。
優しいルルーシアの手に引かれて良い方向へ行きかけた時もあったが、マリスは子どもだった。
ルルーシアが命の恩人であり擬似番であっても、最初からルルーシアを使い捨てる気でおり「王国の王子を救う名誉を与えてやったのだ、ルルーシアが頭を下げよ」という両親に溺愛されているマリスは、その影響をもろに受けていたのだ。
だからルルーシアを見る時、いつも感じた胸の奥底のかすかな痛みを、擬似番ゆえに自由にならない心の苛立ちと勘違いした。挫折も後悔もしたことのないマリスにとって、自分の心が痛むなど初めてのことでわからなかったのだ。それに擬似番だからつくられた好意だと周囲に言われ、自分の好きを素直に認めるのもプライドゆえに不快であった。
そしてマリスは両親に周囲に流された。その方が楽だったのだ。
豪華絢爛な装飾の大半を闇に沈めた寝室は、薬品や花瓶の花や詰める医師や侍従たちの吐く息で重く澱んでいた。
寝台のマリスは、まだ15歳なのに髪にも肌にも艶がなく枯れ木のように痩せ細っていた。呼吸の仕方さえわからないかのごとくマリスは短い息を、は、は、と小刻みに吐き出す。
突然、マリスの瞼が持ち上がった。類いまれなる美しい金色の双眸があらわれる。
乾いた唇が掠れた声を発した。
「……ルルーシアが生きている……」
それはギルベルトが死んだ夜だった。
王国を覆っていたギルベルトの魔力が消え去り、マリスは自分ではないルルーシアの擬似番の儀式の残滓を感じた。
ルルーシアが自分ではない男の番になった怒りだったのか。
ルルーシアが生きていることの喜びだったのか。
憎悪と歓喜が怨嗟と絡まりながら身体中から噴射し、全身が熱いのに冷たく、感覚が感情が肉体が血が、魂がルルーシアだけを狂ったように求め渇望した。いや、この時からマリスは半ば狂ってしまっていたのかもしれない。
卵を砕くように、バリリっとマリスの内側から何かが羽化をした。
人の声ではなく竜の咆哮が大気を揺るがす。それは王都中にビリビリと響き、人々に竜人の誕生を否応なく知らしめた。
マリスは鱗持ちに覚醒していた。
指先まで満ちた魔力が弱った体を動かし、草を刈るように無造作に部屋にいた人間の首を落とした。
不愉快だ。
緩やかなカーブを描く高い天井に大理石が敷き詰められた廊下を、ゆらりゆらりと亡霊のようにマリスが歩く。その一足ごとに残酷な赤が散る。竜の血の欠片を持つ人々は竜人となったマリスに、光に引き寄せられる羽虫のごとく集まり殺されていく。死の恐怖よりも、竜の血による支配力が強いのだ。
散れ。ルルーシアを虐げていた者など不愉快だ。
紅く、朱く、赤く、白い優美な王宮が染まり、赤と白がドロドロに混じる。
血肉が飛び散り、血が川のように流れてた。ぶつ切りにされた内臓が蛇のようにぐにゃぐにゃとして、むわりと生々しく臭った。
マリスは王座に座り、貴族たちは床に額づき奴隷のようにガタガタと震えていた。そこには国王の姿もあった。もはやマリスと国王は親子ではなく、支配する者と支配される者だった。
謁見の間は死臭が漂い、空気が薄くなったかのように息苦しい。貴族たちはマリスから発せられる巨大な力の圧迫に押し潰されそうになりながら、全身の穴から汗や涙や鼻水を垂らし、竜の血の主であるマリスにひれ伏し平伏する。竜の血をわずかにでも流す者は、覚醒した竜人に、祖たる竜の血の隷属により服従するしかない。
かつて王国の建国王は竜の血を飲んだ。
「我の血を飲むと我に逆らえなくなる、よいのか?」
諾、と若者は頷いた。
「奴隷ぞ? 子、孫、末代まで続く呪いになるぞ」
諾、と若者は躊躇いもなく竜の血を飲む。
「では子孫を増やせ。我の哀れな奴隷を増やすがよい」
力を欲した若者は王国を築き、若者の後宮には千人の美女がいたという。その末裔がマリスであり王国の人々であった。
「ルルーシアを探せ」
元番として生きていることはわかる。遠い場所にいることも。だが、方角すらわからない。
ルルーシアを失った欠落感に身が焦がれる。マリスは満たされない絶望に自己が崩壊しそうだった。
だが今や強大な力を持ち、ルルーシアを取り戻せる道ができた。
「周辺国を踏み潰し蹂躙して調べろ。大陸全土を侵略しろ」
重力のような威圧感で、チリ、と空気が震えた。マリスから滲み出る魔力は、暗く爛れ落ちるような殺意そのものだった。
人食い竜と化した王国が、大陸を無尽蔵に蹂躙する悪夢の始まりだった。
王国の人間は竜の血を持つため能力が高い。それは圧倒的な武力の差による純粋な暴力の殲滅戦であった。
王族も貴族も騎士も平民も男も女も子どもも、命はゴミのように無視され骸は折り重なり捨てられた。
そうして凄惨な戦火は火勢を増し続け、大陸の隅の小国へと火の手を伸ばそうとしていた。
「ルルーシア、君は優しいから君のせいで何十万の人間が餓死して何百万の人間が殺されるなんて耐えられないだろう?」
「それとも目の前で、赤子の首を花のように落とそうか? 幼子に命乞いをさせて手足を引きちぎろうか?」
「ルルーシア、地獄を救えるのは君だけだよ。喜んで僕のもとに来てくれるだろう?」
君がいない世界は、もう終わる。
申し訳ございません。
間違って完結を押してしまいましたが、修正することができました。
完結と思ってお読み下さった方々には、まことにご迷惑をおかけしてしまいました。
次話のルカーシュとマリスで完結となります。
本当にすみませんでした。
修正を教えて下さった方々にはお礼申し上げます。
二回真っ白になりましたが三度目で投稿できました。
ありがとうございました。
読んでいただき、ありがとうございました。