木乃美屋 静音
【翌年6月15日】
カツカツと黒板に達筆な字が埋め尽くされていく。
「えー、このように岩が溶け出していく。溶食だね。であるからして、この地形をカルスト地形と――」
「ふああ……」
地理Aを担当する後醍醐先生の授業は欠伸が絶えない。睡魔と闘うのに必死だ。
老体に鞭打って生徒に教えを施して頂けるのは大変ありがたいのだが、その独特の口調と声量の小ささが、正直”何言ってんのかわかんねえ”状態なわけで。
今まで俺はクラスメイトの大半が机の引力に吸い寄せられて次々と脱落していく中、窓際の席でシャーペンを手の甲にチクチクと刺しながらなんとか耐え忍んできた。
だけど授業が終わったあと、睡魔との闘いに集中しすぎて授業内容が全然把握できていない事に気付き、今は黒板に書いているのをただただメモするという単純作業に専念するようになった。
まあ、それだけが欠伸の原因ではないのだが……。
程なくして終了のチャイムがなり、休憩時間に入る。
椅子に身体を預けて背筋を伸ばしていると、後ろから肩を叩かれた。
「今日は随分とお疲れのようだね」
振り向くと、ニコニコとした顔なじみの顔が頬杖をついてこちらを見ていた。
「……よく耐えれるな。お前」
俺の後ろの席に座る男、早苗 忠臣にそう言って呆れた眼差しを向けると、忠臣の視線は俺から離れて、ある一定の方向へと向かう。
「だって、寝顔が見れるチャンスなんだもん」
忠臣が眼を輝かせて見るその先を追うと――
「ガーッ!……ガーッ!……ガッ!……グヘへ……」
よだれぇ……。
クラス内の丁度中心の席で机の上に突っ伏し、あられも無い姿を晒しているクラスメイトがいた。
木乃美屋 静音だ。
長い髪はボサボサ頭で飾り気が一切なく、女子高生としては異質な存在。
スポーツが万能で学力は底辺といった脳筋キャラだ。
一言で言うとデカいだ。鍛えているため太ってはいないが身長も身体付きなんかこう……デカいだ。
「……”あんな女”のどこがいいんだ」
視線は木乃美屋の胸部を眺めながらそう悪態をついた。
いまだに小麦色に日焼けした幸せそうな寝顔はバカさ加減を晒し続けている。
「えー、可愛いじゃないか!木乃美屋さん」
「……どこが?」
どう見ても俺が思っている「可愛い」との意味合いに繋がらない。
「可愛い」って自分より小さくて守ってあげたいとかそんな対象に対しての感情じゃないのか?
あの女の印象は「野獣」とか「アマゾネス」とかそんな感じなんだが……。
「わからないかなぁ?ライオンとかトラって、寝てる時無防備過ぎて凄く可愛くない?」
「うん。なんとなくわかったけどそれ、けなしてるよね?」
「ガーッ!……ガッ!……ンあ?」
そうこうしている内に木乃美屋が目覚めたようだ。
眼を擦り、一度背伸びをして、ボサボサ頭をガシガシと掻く。
寝ぼけ眼で机の横に掛けていた鞄からなにやら巾着袋を取り出した。
中身を取り出して、合掌のポーズをとると――
「ハフッ!ハフッ!ハフッ!ハフッ!――」
早弁ぇ……。
しかも唐揚げと白飯という重量級仕様……。
まだ2時限目が終わったばかりだぞ!?
寝起きに唐揚げ弁当てどんな拷問だよ!
「悪いことはいわないから……あの女はやめとけ忠臣。お前は、まだ上を目指せる」
「うわぁー!頬っぺたにご飯付いてる!可愛すぎるよー」
聞いてねえし。
残念イケメンが恍惚とした表情を見て、俺は溜息吐いた。
「……女子から告られたのをフってまで、執着するもんかね?」
「顔、安産型」
「真性のクズー。振られた女子達に言いふらしてー」
「ハハハハ、話せる女子も居ないくせに何言ってんの!」
「グフッ!」
忠臣とは中学からの長い付き合いで、エスカレーター式で高校も同じ学校に入学した。
中学ではそうでもなかったのだが、高校生になってから、ここ光凛高校では忠臣の人気ぶりは異常で、アイドル的存在と化している。
俺は仲の良い友人から忠臣の付き人。若しくはハガシ役に降格する始末。
正直、眼から血が滲むほど羨ましいのだが、当の本人は唐揚ゴリラにご執心なようで。
俺の精神は唐揚ゴリラによって均衡を保たれていた。そこだけは感謝している。
フフフフフ、後で女子達フった事を散々後悔するといい……。
つか、木乃美屋も木乃美屋で人気があったりする。
そのスポーツ万能を活かして、入学初めから数々の部活に体験入部している。
体験後、体育会系の部活からは勧誘が殺到して学校中の話題となった。
木乃美屋が中学時代。バスケ部に所属していたため最有力候補と持て囃されていたバスケ部は、先々週に本人から断られた。
木乃美屋もバスケ部入部は満更では無かったようで、まだチャンスはあると3年のバスケ部部長がちょくちょくこのクラスに訪れるのを未だに見掛ける。
だが木乃美屋はそれからというもの、部活とは一切の関わりを絶った。
周囲はその「木乃美屋の謎の行動」に翻弄され、噂が学校中を錯綜している。それ程の人気ぶりだ。
「んー、僕もちょっとわかんないんだよねー。木乃美屋さんてほら、インパクトあるじゃない?見た瞬間こう、ピカーン!てなって……一目惚れですよねー」
「さいですか」
「さいですね」
……そこまで言われるともう止める理由はない。
本人の自由意志だ。
困った友人を持ったものだ全く。
よし。それなら俺は友人として、陰ながら「妨害」するしかないですね。えぇ、えぇ……。
「僕としては、友人にもその魅力を共有したいわけなんですよ。ほら乙っち!木乃美屋さんをちゃんと見て!」
「おい。そのあだ名で呼ぶのはやめろってあれ程――
アガーッ!」
首がぁああああああ!!筋がぁああああああ!!
頬を掴まれ強引に向きを変えられた俺の首に激痛が走り、心の中で悲鳴を上げる中。
涙目から視界が徐々に良好になると、向いた先の木乃美屋が此方を向いていることに気づく。
唐揚げを頬張った相手と見つめ合う事数秒。
木乃美屋の大きな目は徐々に細くなり、睨みつけるように見下すと今度は左手が動き出す。
その手は俺に差し向けると手の形が変わり、その長い中指だけをしっかり立てて見せつけてきた。
はああああああああ!?
これだよ……。この腹立たしいこの態度だ。
だから俺はこいつが大嫌いなんだ!
もう我慢できない。
「あ、あれー……?」
困惑する忠臣を余所に、俺は怒りを抑えることができず、木乃美屋に向かってぶちまける。
「見たか忠臣……。この女はこういう奴なんだ。ガサツで、無愛想で、性格がひん曲がってんだ……。いいか忠臣!可愛いってのはなあ!可憐で!清楚!おしとやかなんだ!品があるから可愛いんだ!この女が可愛いわけないだろ!可愛いってのはなあ!このクラスでいう九条さんみたいな人のことを――」
「え、私?」
「ヒュ!」
変ナ声デタ。隣から聴こえてはいけない声が聴こえてきた。
痛めた首筋をぎこちなく声がした方向に向けると、案の定……。
そこには九条 結が驚いた顔で後退りしていた。
俺のボルテージ〈心拍数〉は最高潮に達する。
「あの、ええと……」
そう言って、眼を泳がせる九条さんもまた可愛いなと思いつつ。
俺は何か弁明しなければと思い口を開くも声が出ない!
「あ……あ……」
俺がカ○ナシばりのコミュ症を発揮すると、九条さんは俯き通り過ぎた。
ああ……キモがられた……終わった……。
「早苗君。HRで使うプリント持ってきたからこれ……」
「あ、あぁ。うん、ありがとう」
呆然と忠臣にプリントを渡す九条さんを隣で眺めながら、もう帰りたい……。と俺は自暴自棄になっていた。
だが、ここで終わりじゃ無かった。
その後、九条さんは振り返って俺の方に向いたのだ!
振り返った九条さんは、ゆるふわボブカットの黒髪を片耳に掛けて少し頬を赤らめた。
「木江くん……あの、その……」
九条さんは上目遣いでチラチラとこちらの様子を伺ってくる。
これはチャンス!またとないチャンス!
話せる機会ができた!まず、ちゃんと誤解を解かないと――
「ご、ごめんなさい!」
……エ?……ナニガ?
そう言って深々と謝罪した九条さんは走り去ってクラスから出て行った。
途中、教壇の段差に足を躓きかける慌てぶりもまた可愛いなと思いつつ。
謝罪の意図が全くわからない……。
「俺……なんで謝られた?」
「……多分なんだけど。告白されたと思い込んで断ったのかなー?なんて……」
へ?
「ギャハハハハハッ!イヒッ!イヒヒヒヒヒヒ――」
何かと思えば、木乃美屋が腹を抱えながら机のガンガンと叩いて笑っていた。
何をそんなに笑うことがあったのだろう?
全く……。だからこんなガサツな女嫌いなんだ。
あ、そうだ。
母さんから買い物を頼まれていたんだった。
危ない、危ない。また、忘れて怒られるところだった。
確か、丈夫なロープと椅子だったかな。あとしっかりと結びつけれる梁も用意しないと。そこに
ブルッ○スここにありきって刻んで――――
俺の記憶が戻るのは、それから5時限目の終わりまで時間を要することとなった。