「取り憑かれる」ということ
昔々の話だ。
と言っても、私の実家がある住宅街ができた頃の話だから三十年ほど前か。
私はお化けを見た。
○
ある雨の日の午後、私は山沿いの道を歩いていた。もっとも怪談に出てくるような物寂しい道ではない。道はきっちりとアスファルトで舗装してあるし、道路の南側には鼠色やクリーム色をした住宅が並んでいる。本当にただ山沿い、と言うだけなのだ。学校から自宅へ帰るには遠回りの道であったが、そんな道を傘を差して、当時小学生だった私はカエルを探しながら歩いていた。
三、四歩進んではしゃがみこんで草むらを覗き込み、また三、四歩進んでは石をひっくり返す。そんなカエル採集を続けていた私の目の前に突然黒い塊が現れた。
――いや。突然ではなかったのだと思う。黒い塊が目の前に現れたからと言って、周囲の何かが変わったようなこともなかったから。
きっと傘を差し、カエルを探すのに夢中で下を向いていた私は、道の先に立っていたソレに今まで気づかなかったのだ。
それは黒いモヤのようだった。その頃の私は『モヤ』なんて言葉は知らなかったから「筆洗に絵の具を垂らしたみたいだなあ」とぼんやりと考えていたのだけれど。
その黒いモヤは、おおよそは小学生である私の目と同じくらいの高さでわだかまり、ゆっくりと形を変えながら、雨の中、ゆらゆらとしていた。時に人の姿のようにも見えたし、大きな球のようにも見えた。
それには目も鼻も口も無かったが、私はそのモヤが私をじっと見ているように思えた。私は子供のころから、他人の視線を感じると、見られている部分に妙なくすぐったさを感じるのだ。そしてその時、私の全身を――まさに頭の先から足の先まで――くすぐったさが何度も何度も往復していたのだ。私も負けじと見返していたつもりだったが、初めて見た得体のしれないものに対してどう動けばいいのかわからなかった、と言ったほうが正しいのかもしれない。
ふ――風が吹き、その風に流されるようにしてほんの少し、モヤが私に近づいた――ような気がしただけかもしれない――。私は傘を放り出して、元来た方向へと一目散に駆け出した。怖かったのだ。声も出なかった。
走って走って、振り向いてみると――モヤのようなモノは元の場所にわだかまっていた。こちらを追いかけてくるようなことはなかった。
私はまた走って逃げだした。全身にくすぐったさを感じていたから。アレは私をまだ見ているのだとわかったから。
どうにかこうにか家まで逃げ帰った私は雨でずぶ濡れになっていた。家で夕飯の支度をしていた母親に、ずぶ濡れになったことと傘を失くしたことを怒られて、やっと泣き始めることができたことを覚えている。
○
次にソレ――おそらくだが――に出会ったのは中学生の頃だ。
おそらく、と言ったのはまるでソレの様子が変わっていたからだ。ソレと出会ったのはやっぱり雨の日だった。ゲームでもやろう、と友人と連れ立って彼の家に向かう途中にソレはいたのだ。やはり同じ山沿いの道だった。
傘を差して友人とのゲームの話に夢中になっていた私は、それに気づくことができなかった。
いや――それまで体にくすぐったさを感じていなかったから突然現れたのかもしれない。
ソレは真っ白なワンピースを着て、顔が隠れるほどに長い髪の先から雨雫を垂らして、私の目の前三メートルに立っていた。
長い髪がソレの目を隠しているはずなのに、私の体は全身にソレの視線を感じてくすぐったさと恐怖を感じていた。
「どうした?」友人は言った。「急に立ち止まって」
私が震えながら、口だけでなんとか「前……」と言っても、友人は「何?」と不思議そうな顔をするだけだった。彼には白い女が見えていないらしかった。
私は彼の手を引いて、また――小学校の頃と同じように――元来た方向へと駆け出した。驚いたように抗議の声を上げる友人の声を無視して走り続けた。まだ背中にくすぐったさを感じていたからだ。だが百メートルも行かないうちに友人が力任せに私を止めた。
「何いきなり走り出してるんだよ。傘落としたじゃねえか」
そう言うと彼は元の場所――白いワンピース女のいるところだ――へと歩いていく。そして傘を拾い上げると、ぼんやりと友人を見ている私に大きく肩を落として見せた後、再び私の下へと戻ってきた。
「で、何? なんでいきなり走ったりしたわけ?」
いまだにソレからの視線を感じてはいたが、既にソレとの距離は数十メートルは離れていた。私はびくびくとしながらもソレを指さして示した。
「あそこに、その――」
「お化けが」と言うと、彼は一瞬あっけにとられたような顔をした後、爆発でもしたかのように笑いだした。
「何? どんなやつ?」
私が事細かにソレ――白ワンピース女――の説明をすると、彼はひとしきり腹を抱えて笑った後、
「それってそのものズバリ貞子じゃん。先週テレビでやったところだしさ。人を驚かそうとするのはいいけど、ベタすぎ。三十点」
と馬鹿にしたように言った。不愉快だったが、見えるものは見える。これは仕方がない。だがどう説明すればいいのかわからないので私は何も言わずに帰ることにした。
「あれ、うちでゲームしていかねーの?」との彼の声が追いかけてきたが、「また今度な」と言って、私は彼から別れた。
二つの視線――彼の視線とソレの視線――を感じながら。
○
次にソレと出会った時のはつい一週間前だ。
私はそれなりの大学を出て就職し、結婚もしていた。お化け、なんて物を怖がるような子供ではなくなっていた。子供の頃にみたアレも「雨の中の静かな山沿いの道を歩く」という非日常が見せた幻覚だ、と一人納得していた。
私は久々に孫の顔が見たい、と言う父母のところへ一時間半、車を運転して顔を出し、子供の相手を両親に任せて、雨の音を聞きながら一日中ゴロゴロとして過ごしていた。やがて子供が「アイスが食べたい」と言うので、二人一緒に傘を差して新しくできたという山沿いの道にあるというコンビニに向かった。一番近かったからだ。
――だが、今思えばアレが幻覚だったのかどうかを確かめたい、という気持ちがあったからかもしれない。
山沿いの道は私が学生だった頃とうって変わり、人の通りが多くなっていた。いや――そこはもう山沿いの道ではなかった。山は切り開かれて平らに整地され、道の両側に店舗ができていた。その道はただの道になっていた。
だが――ただの道の上で、雨の中、ソレは変わらずに立っていた。その時のソレは赤い傘を差した黄色いレインコートの子供の姿をとっていた。全身の肌がくすぐったさを感じて痙攣を始めたように感じたのを今でも思い出せる。赤い傘が邪魔をしているはずなのに、ソレはやはり私の姿をしっかりととらえているらしかった。
私は子供に訊ねた「前に何が見える?」彼は答えた。「ファミリーマート!」
やはりソレは私にしか見えていないのだ。
私は今回はソレを睨み返しながら、子供と手をつないでソレに近づいて行った。近づくにつれ、雨に煙っていたソレの様子がくっきりとしてきた。
赤い傘を雨の中くるくると回しながら立っているソレは、小さな女の子の姿であるようだった。身長は私の子供よりも頭一つ高いくらいか。顔はやはり傘に隠れてわからない。
彼女の横を通り過ぎる時、何かが目の端で動いた気がしてびくりとしたが、それはソレがくるくると回す赤い傘だった。傘の向こうで私を見つめながら傘を回すだけでソレは何もしてこなかったのだ。くすぐったさを背中に感じながら私は子供と共にコンビニへと向かった。ちら、と後ろを振り返ると赤い傘を回しながらソレはこちらに背を向けて立っていたが、いまだに感じるくすぐったさから察するにソレは私を見ていたのだろう。ソレには前も後ろもないのだ。
コンビニで子供にアイスモナカを買っってやった後、ソレが立っていた場所から視線を感じそちらを向いた。だがそこにはもう何もいなかった。モヤも白い服の女も赤い傘の少女も。ただ何もない空間からの視線だけがあるだけだった。私は視線を感じながら山沿いだった道を抜け、子供と共に実家へと帰った。
それだけだ。視線だけがあった。
○
今日も雨が降っている。私は今からその山沿いだった道に向かおうと思う。
あそこに何があるのか。
別段、今日全てを明らかにできなくても構わない。幸い有給休暇は上司から「いい加減消化しろ」とせっつかれるくらいにはたまっているのだ。また雨が降った時にあの場所に通えばいい。
次にアレはどんな姿をとるのか。私はアレにどんな視線を浴びせるのか。
雨の今日は、次の雨の日は、その次の雨の日は――。
私自身が満足するまで、私はあの場所に雨が降るたび通うのだろう。
そんな事を考えながら、私は車のエンジンをかけた。
くすぐったさを期待して。