1年目 8月 その4
あたしが待ち合わせ場所に着いたのは約束の時間の10分前だった。地下鉄のホームから出ると、浴衣を着た女の子達がひしめいていた。ここが花火大会の会場の最寄り駅だから当然なのだけれど、こんなにも多いとは思わなくて圧倒され息を飲んだ。
この人たちも誰かと待ち合わせをしているのかなぁ、とぼんやり彼女たちの顔を眺める。あたしがそう思い込んで見ているからか、みんなどこか嬉しそうな表情を浮かべている気がする。一帯が浮足立った空気に支配されていて、あたしもなんとなく幸せな気持ちになって、唇をほころばせてしまう。
そして、見つける。
どこにいてもすぐにわかる。この人の周りの空気は違って見える。あたしの思いを差し引いても、本当に目立つ人だと思う。
先ほど確認したのにもう一回時計を見てしまう。待ち合わせの時間までまだ5分ほどあった。ほっと安堵のため息をつく。あたしもそうだけど、山本透さんは時間にとても正確だ。
あたしの視線に気が付いたらしい。それまで全くの無表情で何かの彫刻のようであった山本透さんの顔が柔らかく暖かい表情を浮かべる。それを見てしまうともうどうしようもなくて、すぐに傍に行きたいのに浴衣を着た上に下駄なんて履いているせいで走ることもできない。
せっかく着付けてもらった浴衣が崩れないように気をつけながらも出来る限り早く歩く。山本透さんをひたすらに見つめていたため、周りなんて全く見えていなかった。気にしていなかった。それがいけなかった。
どん、と強い衝撃。
それを感じてから思いだした。そうだ、ここめちゃめちゃ人がいるんだった。しかし、そんなの今思い出しても仕方ない。ああこのままあたしは転ぶんだろうと冷静に認識。あたしはせっかく綺麗な格好しているのに、それを見せる前にぐちゃぐちゃになってしまうのだろうか。
――――ぎゅ、と目を閉じて衝撃に耐えようとしたあたしの腕を力強く支えてくれたもの。
もしか、しなくても。恐る恐る目を開ける。
「大丈夫?」
予想通り、そこにいたのは山本透さんで。薄々わかっていたのにいざその顔を至近距離で拝んでしまうと、言葉が咄嗟に出てこなかった。こくこくと黙って頷くあたしを見て、山本透さんはよかったと破顔する。
「久しぶり」
「あ、お久しぶりです」
2週間ぶりくらいに会う今の山本透さんと、昔の山本透さんにさほど変化はなかった。そりゃそうか。体感的にはすごい長い時間だったけれど、客観的に見ればそんなに長い時間じゃないだろうしな。
「おみやげ、今度渡すよ」
そう言われて、何て返そうか迷って、あたしの口から出てきたのはこんな言葉。
「質問溜まっているので、よろしくお願いします」
「……色気ない会話」
くすりと山本透さんは笑う。確かに久々に会った男女の会話がこれってどうなんだろう。
慌てて、緊張のあまり靄がかかったようになっている頭を必死に働かせてみたけれど、何も言葉が出てこない。何を話せばいいのかわからない。
話したいことがたくさんあったはずなのに、いざ顔を見るとこうも何も言えないものなのか。しばらく山本透さんの顔を見つめていたけれど、この状況下が無性に恥ずかしくなり俯いてしまう。目の前の人が困っているのが伝わってきて、なおさら顔を上げづらい。
「浴衣似合うね」
サラリと落とされた言葉に頬が染まる。俯いていてよかったと思う。こんなことまともに顔見て言われたらダメージが半端なかっただろう。
「……ありがとうございます」
目線を合わせないままお礼を言うが、いつまでもこんな状態でいるわけにもいかないのはあたしだってわかっている。
勇気を振り絞って山本透さんの顔を見た。あたしと目がきちんと合ったからか、山本透さんは嬉しそうな顔になった。見ているだけで鼓動が跳ね上がるのに、こんな風に優しく笑われてしまったらダメだ。また顔をそらそうとしてしまって、何とか踏みとどまる。あたしがこの人の顔に慣れる日が来るのだろうか。一生来ない気がする。
「いこっか」
その言葉に頷き、山本透さんと一緒に歩き出す。浴衣で歩きづらいあたしのペースに合わせて歩いてくれる。あまりにも自然に優しくしてくれるから、あたしはいつも当たり前のように受け入れてしまう。しばらくして気が付いて、でも今さらその優しさを断るのも気が引けて結局最後まで享受してしまうのだ。
それにしても人が多い。先ほどから何度他人と肩がぶつかっただろうか。少しでも気を抜くと人ごみに流されて山本透さんと離れてしまいそうだ。
手とかつなぎたいなと一瞬考えて打ち消す。いくらなんでも調子に乗りすぎだろう。
というか、ベタだ。どうしようもなくベタだ。こんな夢見る乙女みたいな希望があたしの心の中にあったことに自分でも驚く。
「美優」
名前を呼ばれ、はと顔を上げる。あげてから後悔する。あたしは感情が表に出やすいうえに山本透さんは人の感情を読み取るのに敏い。だからあの人はことあるごとにあたしの心を読み取ってしまう。それに助けられることも多々あったけれど、今は嫌だ。今のあたしの考えが山本透さんにばれてしまったら、恥ずかしさで死ねる。
なぜか山本透さんもあたしの顔を見て一瞬ためらった。それはきっと本当に一瞬だったのだろうけれど、あたしにとってみたらやたらと長い時間に感じられた。期待と不安と緊張で胸がどくどくと大きすぎる音を立てている。やっぱり考えていることがわかってしまって、困っているのだろうか。
「……なんか食べたい?」
けれど結局訊ねられたのはそんなことで、安心のあまり素で答えてしまう。
「わたがしとかき氷と焼きトウモロコシ」
「即答!」
珍しいね、と山本透さんはくつくつ笑う。確かに、優柔不断なあたしにしてはためらいのない返答だっただろう。確実に食い意地はってると思われたなぁと、自分の軽率さを恨んだ。ひたすらに笑っている山本透さんに頬を膨らませる。
いつも通りの空気になって、さっきまでの緊張がふ、と緩んだ瞬間。
「……美優、はぐれるから、手」
あたしの回転の遅すぎる頭が山本透さんの言葉を理解し目を瞬いた瞬間、あたしの手がひんやりとしたものにつかまれる。
え、これって。自分が置かれた状況にいまいちついていけない。
なんで、どうして、こんなことするの? 困り切ってそのすました横顔を見つめてしまう。
どうしてだろう。嬉しいのに、どうしてこんなに手を振りほどきたいのだろう。泣きたいほど嬉しいのに、どうしてこんなに怖いのだろう。
あたしの困惑や動揺がつながった手から流れ込んできたのだろうか。今までどこか遠慮がちだったその手に強く力が込められる。あたしが頑張って振りほどこうとしたってほどけないような、ちょっと痛いぐらいの強さ。
「また転ばれても困るしね」
その言葉に、このまま手をつないでいてもいい、と誰かに許されたような気分になった 。少しだけ調子に乗ることを自分に許す。
山本透さんの手をゆるく握り返した。手の持ち主は驚いたようにこちらを一瞬見、とても嬉しそうに笑った。笑って、くれた。
「いこ」
「……はい」
俯きながらも頷く。
それからのあたし達の間には会話はほとんどなかった。あたしもとてもしゃべれるような精神状況じゃなかったし、山本透さんもどうしてだか言葉少なげだった。
ひたすらに感じられるのは山本透さんの体温だけ、で。その手があんまりにもひんやりしているのは、きっと山本透さんの手が冷たいんじゃなくて、あたしの体温が今現在において高すぎるだけなんだろう。
なんだか泣きたいくらい幸せで、でも泣いたら花火なんて見えないから、あたしは頑張ってこらえて、ただ山本透さんだけを見つめていた。
その日見た花火は忘れられないものになった。