1年目 4月 その1
その日は週に一度、家庭教師の先生に来てもらっている日だった。
母とその娘と若い男一人で、いつもより気合の入った豪勢な夕食を食べる。そんな土曜日はもう何回目だろうか。初めの授業で半ば無理やり夕ご飯に誘ったあたしの母親に、一人暮らしだから嬉しいですと麗しくそつのない笑顔で山本透さんが言ったことで、この夕ご飯はあたしの土曜日の恒例行事となっている。
お気に入りの家庭教師の先生に来てもらってることで母親のテンションは高い。浮かれ切っている。娘として若干恥ずかしいほどに。
そんな中で。
「どうかしら、美優。透先生にもう一日多く来ていただくって言うのは」
なんて発言を、いきなり親がしだした時には、嬉しいような困るような複雑な気分だった。
「それって、週2回来てもらうってこと?」
「そう、美優ももう高2でしょ。……先生のほうはどうですか?」
ああ、そうか。山本透さんの都合はどうなんだろう。あたしがどう思ったって、向こうの都合が付かなかったらどうしようもないのだ。
そうですねぇ、と考えるような山本透さんの色素の薄い茶色い澄んだ瞳がこちらをじ、と見つめている。あたしの答えが気になるのだろうか。視線に耐えきれずに、目をそらしつつあたしは曖昧に頷く。
「うんまぁ……じゃあ、お願いしようかなあ」
あたしがそう言うと、母親が満足そうに頷いた。あたしの受験うんぬんとか言うより、あなたが山本透さんを気にいってるだけでしょうと内心突っ込む。そもそも、あたしが何を言っても、多分きっと母親の思い通りに事が運んだに違いない。
あたし、本田美優と山本透の関係は、簡単に言ってしまえば家庭教師とその生徒である。
あたしが高校二年生で、向こうは大学二年生。母親同士が仲が良く、どちらが言い出したのかは知らないが本人の預かり知らぬところでその話はまとまってしまっていた。これから家庭教師の先生来るから、といきなり宣言されたのが1年ぐらい前のこと。
初めて会った時は、なぜに男の先生!? と思ったけれど、結果的に親の独断というか思いつきはは、あたしをいい方向に導いた。
あたしが努力するようになったのもあるし、山本透さんの教え方は本当にうまかった。相乗効果で見る見るうちに成績を上げていくあたしを見て、親はいい気持ちになってこんなことを言いだしたのだろう。
さっきは、そうですねぇ、と肯定でも否定でもない答えを返していた山本透さんだけれど、電話が来たと
言って母親が別の部屋に行き二人だけになったら「何曜日あいてる?」とあたしに訊いてきた。
「透先生は大丈夫なんですか?」
「俺としては願ったりかなったり」
「そういえば、先生って他にバイトしてるんですか?」
「いんやー? これだけ」
まぁ、それもそうだろう。バイトなんてする必要、そもそもない人だし。
家とは違って、研修医の受け入れ先にもなっているような大病院の一人息子。それを継ぐべくして、最高峰の国立大学の医学部に現役合格してしまったような頭脳。神様がどんだけ気合い入れて作ったんだとでもいいたくなるような整った顔と165センチあるような私でも見上げないといけないような高い背と程よくついた筋肉。ただでさえ何でも着こなせてしまうほどスタイルがいいくせに、また着てるもののセンスがいい。どこにいても人目をひかずにはいられない人。
母親同士のつながりがあるとは言え、そんな人がよくもまぁ、自分の家庭教師なんて1年近く続けているものだ。親はいくら払っているのだろうか、と人ごとみたいに思う。
存在は知っていたものの、そこまで仲が良いわけでもなかった御近所の有名人と、週に1回とはいえ勉強を見てもらい一緒に夕ご飯まで食べているとは。人生って不思議だ。
「次のテストいつ?」
「え、と1カ月ぐらい先」
「そろそろ一回目の進路相談とかあるんじゃないの?」
「どうだろう……」
わからなくて首をかしげると、おいおいと笑われる。もうちょっと進路ちゃんと考えとけよ、と言われて少しむかついたのは秘密。あたしのことを考えて言ってくれてるのは十分わかっているから。
山本透さんからしてみたら、あたしは将来も見えていない子供なのだろう。今あたしは高校1年生から2年生になったばかり。周りのムードに流されて受験という二文字がちらつきはじめたばかりで、目の前に広がる道のどれを歩いていけばいいのかわからない。
……あ、ヤバい凹んできた。
「や、まだ時間はあるから。そこまで焦んなくてもいいと思うけど」
あたしの元気がなくなったのがわかったのか、山本透さんは慌てたように言った。地雷踏み抜いたくせに、と内心呟く。八つ当たりなのは重々承知。
「まぁ、とりあえず今年1年は俺の行ってる大学目指して頑張ってみたら? 実際はどこ受けるかはさておいて、上を目指しとけば選択の幅広がるし。できなくてあきらめるのはイヤだろ? 行きたい学部は決まってるんだから」
この人は自分が頭がいいからできたことを、みんなもできて当然だと思っている節がある。そりゃあ山本透さんの話を聞いていたら、いとも簡単に楽しい大学生活が想像できるから、ぜひ一緒の大学に行きたいと思うけれど、偏差値どれほど高いと思っているのか。
「頑張るの嫌い?」
「嫌いじゃない、けど」
「よし、じゃあ頑張れ。……まぁ、美優の課題は、これ以上ないくらいはっきりしてるから、そこをこれから重点的にやろう」
頑張れ、とこの人に言われるのは好きだった。ここ1年以上見てきてわかったのだが、山本透さんはとても努力家だ。もともと地頭がいいうえに努力を尊ぶ人。これまで頑張ってきた人の頑張れにはとても重みがあると思う。
「英語」
当たり前だけれど、そんなあたしの些細な幸せなんて山本透さんは気が付くこともなくあたしに現実を突き付けてくる。
ええ、わかってます、わかってますとも。あたしは英語苦手だからね!
「英語、やった?」
やっているわけもない。無言で上目遣いに伺うと、あたしの状況なんてすべてお見通しと言わんばかりにさらりと言葉を続けられる。
「宿題。この前渡した文法の問題集全部と長文1日1個。来週までに」
げ、と多分思い切り嫌そうに顔をしかめたあたしに、山本透さんは手出して、と笑う。
その笑顔につられ言葉通りテーブルの上に手を広げてみた。素直に従うあたしに満足そうな顔をし、山本透さんは財布から何かを取り出す。そして手の平にのせられたのはあたしが好きな小説が原作の前売り券。
「え?」
山本透さんの顔を仰ぐ。そこにあったのは涼しい顔だった。あたしの疑問に答えるように、低めの心地のいい声が面白がるような響きを伴いつつも説明してくれた。
「来週までに、言ったの全部やってたら映画連れてってやるよ」
そう言われましても、今の一連の流れを理解することができない。状況を整理する。
とりあえずあたしは英語の問題集をやるのが必須。そしたらあたしが好きな小説が原作の映画に連れてってもらえるということ? しかも前売りまで買ってくれたうえで。……要するに山本透さんはあたしの好みを把握して誘ってくれてしかもあたしにお金を払わせる気がない、と。
そこまで考えて、そろりと山本透さんの顔をうかがうが、輝くばかりの笑顔を返される。普段はそこまでニコニコしているわけではないのに、ここぞという時に整った顔に浮かべられるそれはまさに致命的な一打。多分今のあたしの顔は相当ひきつって見えることだろう。ここで頬を赤くしてぽーっと見とれることができる女の子にあたしはなりたい。そんな女の子のほうが絶対可愛い。
「どうせ美優の家から出てるお金なんだから」
いつもいつもありがとうございます、と茶化すように言われる。普通に仲良くしているせいであたしとこの人は雇用関係にあることを忘れかけていた。そうか、家が払っているバイト代で買われたものなのかこれは。
そう考えると、少し気が楽になった。けど、だからと言って甘えていいのかはわからない……というか最初は納得しかけたが、いくら家から払われているとはいえそもそもあたしのお金ではなく、親が働いて稼いでくれたお金だ。
机の上に置かれた前売り券をじっと見つめる。欲しいな、と思う。行きたい。
さらに考えてみて、あたしのお小遣いも親のお金だということに気が付いた。ここで、あたしに悪魔がささやく。親に言ってもあっさりと、行けば? と返されそうだし。あれ、行っていいんじゃない? という気になるが論点がもはやずれている気もする。
うう、行きたいなぁ。どうしよう。
顔を上げる。あたしの迷いを全て見透かしたような少し余裕のあるその表情。当然だけれど、あたしが日ごろ塾とかで見ているような同世代の男の子たちとは違う、大人びた人。
まともに顔を見つめていることは心臓がうるさすぎて困難だったので、目線を少し上にあげる。山本透さんの髪は色々な遍歴をたどってきていたけれど、今は落ち着いて若干暗めの茶色である。あの、赤だの金だの変な髪色はなんだったのか訊ねると、遠い目で「大学生には色々あるんだよ」と返されてそれ以上聞けなくなってしまったなんてこともあった。
「シンプルに行きたいか行きたくないか。行きたいけど俺に遠慮してるんだったら受け取ってほしいし、断りたいんだったら断って。俺は美優と行きたいから誘ったんだからね」
俺のためを思うなら受け取って、と言われて俯いてしまう。なんでこんなことさらりと言えるんだろう。例え対象外の女の子相手であったとしてもこんなこと言ってて照れたりしないのだろうか。
……対象外。自分で思いついた言葉にはっとする。そうだ、あたしは対象外なのだ。そう思うと今まで浮かれていた気分がすっと冷える。冷たい水を頭から浴びせられた気分だ。
手渡されたチケットをじっと眺める。大学生、しかも女の子なんてより取り見取りな山本透さんが何も持ってない高校生なんて相手にするわけもない。どうせバイト相手のご機嫌とりなんだから、と勘違ってしまわないように心の中で呟いて、あたしは顔を上げた。
「じゃあ、行きたい」
「ま、行けるかどうかわかんないけど? 宿題やってきなよ?」
なんなのこの変わりよう。さっきまで熱心に誘ってきたと思えば、急に手の平を返された。本当にあたしと行きたいのか、とむっとしあたしは言う。
「頑張るよ」
自分でもむきになってるなぁとは思う。でも、こんなの貰って、頑張らないわけがないだろう。前売りを皺にならないように大事に握りしめる。
そう、あたしはこの人のことが好きなのだ。