第五目==三条橋の襲撃
「おい、ここでいいのか?」
芦屋はだらしのない笑みを顔面中に広げた。一方の武者小路は明らかに怒りの色を浮かべていた。
「中里、いくら貴様の言うこととはいえ、ここには入れん。不愉快だ」
当然だろう。なにせここは江戸時代の風俗店、女郎屋なのだ。
しかし、武者小路も素直である。
祇園に行く、と言われてそれが直接女郎屋になるということに気づかなかったのだ。
中里のことだから女郎屋ではない、祇園の何かだと思っていたのだ。
芦屋は気の立っている武者小路をなだめる様に言った。
「まぁまぁ、そう固いこと言わずに」
武者小路の蹴りが芦屋に炸裂した。
「祇園って言った時点で気づいてよ・・・」
中里が悲しい声で言うと、武者小路は反論した。
「小さいころしか京にはいなかったんだぞッ。そんなころから祇園を知っててどうするっ」
至極まっとうな反論に何も言い返せずに中里はそうだね、と言ってから続けた。
「悪いな。本当は俺もこういう場所は苦手で・・・」
確かに中里は客引きに引っ張られるように店に消えていってしまった。
「大丈夫だ。本命は裏にあるからさあぁぁぁ・・・」
中里の声はどんどん小さくなっていった。
芦屋はゲハハハハハと笑顔とよだれをたらしながら入っていき、セレネもそれにひっついていった。
武者小路はその場に立ち止まって入るのをためらっていたが、意を決したように中に入った。
「だーから、俺はここの主人に用があるのっ、君たちじゃないのっ」
中里は女郎に捕まれてギャーギャーわめいていた。一方の芦屋は早くも色々な物を運ばせて大宴会の準備は完全に完了していた。
「凪ィー、助けてぇー」
泣きっ面で懇願された武者小路はその強い腕っ節で中里の襟首をひっつかむとそのまま中里の小声の指示の通りに奥へ奥へと踏み込んでいった。
「なんで・・・よりによって・・・こんな所なんだ」
武者小路は中里に不平を言ったが、中里は申し訳なさそうな顔をするきりで何も言わなかった。
そして、中里はパンパンと服をはたいてから立ち上がると指をパチンと鳴らした。
武者小路は内心驚いて興味を示したが、すぐに中里のすぐ隣の階段から女が下りてきたので表情を険しくした。
「大丈夫。女性に関することは何もしないから」
中里はその女性が畳を持ち上げるのを手伝いながら言った。
畳の下から階段が現れたのはそれから程なくしてからだった。
武者小路は少し驚いた顔をしたが、女性と中里がその階段を下りていくのを見て自分もそれに続いていった。
階段を下りた先は地下通路になっており、少し、というかかなり這いつくばって進んでいくと今度はまた上りの階段があって登っていくと、今度は廊下に出た。
武者小路はこの忍びの屋敷の様な入り組んだ屋敷の内部状況を一個一個頭の中に焼き付けて、逃走経路を見誤らないようにしていた。
そして、女性は廊下の途中にあった襖を開けると、二人が入っていくのをみてから言った。
「少しおまちどすえ」
武者小路と中里が通された部屋はドンスカチャンとやたら賑やかな店の声が聞こえるほどに静かな部屋だった。よくよく耳を澄ますと芦屋の下品な笑い声とその周辺の女性の声が聞こえなくもなかった。
武者小路は刀を脇に置いた。何となく自分と中里の間に置いておくことで、仮に自分が間に合わなくとも中里がこの刀で何とかしてくれるのでは、という期待も、二人の間に置いた理由の一つであった。
店の女が運んできてくれる酒肴はどれも高級な品ばかりだ。
「金は無いぞ・・・」
武者小路が少し不安そうに言ったが、中里はヘーキヘーキ、何とでもなるからと言って懐をチャラりと鳴らした。
「久しくそんな音は聞いていなかったぞ」
金同士がぶつかり合う音は随分昔に一時聞いたきり、最近は金属同士がぶつかりあう音といえば刀同士のぶつかり合いだった。それを思うとまた武者小路は追憶に走りそうになり、首を振った。
中里はそれを不安そうに見つめるきりで、それ以外にしていることといえば唇を噛み締めているぐらいだった。
しばらくすると、ひょっこりと細目の男が顔を出した。
「どぉも、どぉも、遅れてすいませんねぇ」
背は小さく、細目の上に珍しい眼鏡をかけている。しかも猫背なせいで、小さな背はますます小さく見える。
「お目にかかるのはお初ですな。私、この店をとりしきっている時種と申すものですわ」
怪しい。あまりにも怪しすぎる。
飄々とした態度と、細めで表情が読めない部分はわざとやっている様に見受けられるが、そうだとしても、かなりの熟練度で自分、と言うものを押し込めている。
武者小路はほぼすべての人間の思考を読める。今考えていることをすべて見きることができる。
ここのところ例外が多くなってきて少し打ちのめされているのだが、何の武術の心得もなく、修行も積んでいない時種が武者小路の目を欺けるというのは本来ありえない。
「お嬢さん、私の思考は読めないでしょう」
ニヒヒヒヒヒヒと不気味な笑みを浮かべて時種は笑った。
怪しい。
「こいつは見るからに怪しいが、一族代々俺の知り合いで、こいつは信用できる。こいつが大切にするのは信用だからな」
武者小路は少し意外だった。こんな男のことだ。拝金主義者だとタカをくくっていたのだがそうではないらしい。
「お金という物は信用を図る物なんですわ。お金はあくまで信用あってのお金ですから、信用がないところにはお金はないんですわ」
結局お金が大切だといっているような気がしなくもない発言だった。
時種はしばらく二人が物をつまんでいるのを見ているきりだったが、中里が箸を置くとそこで話を始めた。
「実は先日仕入れた情報では裏切り者がいてはるゆうことなんですわ」
中里の表情が厳しくなった。
「浪士組の中にか・・・」
「さいですわねぇ。いかんせん人数が膨れがってしまったものやし、そこの辺の制御は効きませんやろなぁ」
時種はヒヒッと笑った。
しかし、中里としては気が気でない。
既に浪士組が分裂を開始しているということだ。
清川の呼びかけに応じて集まったのは約200人。
それらの志はまったく一様、皆同じという分けではない。
「つまり、烏合の衆、ということか・・・」
武者小路は表情を険しくして言った。
これほど危険な組織はない。
江戸で暇をしていた浪士ならば江戸では毒にも薬にもならない。
しかし、一旗揚げようと覚悟を決めた以上何らかの形で動き出す。
それが組織の目的にそっていなくとも。
動き出した群集は止まることなく突き進む。
武者小路は暗い顔をした。
中里は武者小路の意を知りつつ、何も言わなかった。
それから、中里は扱い辛そうに箸で寿司をつまみ上げながら言った。
寿司といっても我々が想像するような寿司ではなく、なれずしだ。
「右腕は相変わらずですわなぁ」
中里は頷いた。一方の武者小路は佃煮をつまむ程度で、特に食事らしい食事はしていない。
武者小路は目の前の細目の男を油断無く見つめた。時種はそれに気づいたのか、両手を振りながらニヤニヤしていった。
「どうしてもと言うならば、貴女もお雇いしますよ。もちろん他の店よりもはるかに高額でね」
武者小路はこの男に怒りを覚えた。無理もないだろう。ここは女郎屋なのだから。
「ですがね、この私。こうみえまして、かなり同情的なんですよ?」
大抵女郎屋にくるような女性と言うのは、貧乏な農家や武士の娘である。
「そういった方々には休暇、お土産、色々持たせてあげてますわ。彼女らかて道具やないんですから」
その辺をわかっといてください、と時種はいった。
それでも、武者小路は嫌悪の表情を緩めなかった。
「ついでに申しますとね」
時種は声をひそめた。
「なんや噂なんですけど、お庭番衆が動いとるとかそないなことないとか・・・」
中里の顔はますます険しくなった。
「そうか・・・。連中、地獄の底に舞い戻ってきたか」
中里もお庭番衆が敵勢力にいることはしっていたが、だんだんと陰りが出て来始めた将軍の支配を守るために他の場所にいっていると勝手に目論んでいたのだが、その目論見はあっけなく砕け散った。
「現在動きが確認できるのは」
時種の口から発された名前は、紅蓮、投擲の二つの名前だけだった。
しかし、確実に幻影はきているだろう。中里との因縁を断つ意味もこめて確実に来る。こないはずが無い。
武者小路を襲撃したあの日でお庭番衆の大半は入れ替わってしまったから、お庭番衆の全員は把握できていない。人数すら分からない。
どちらにしても、幻影の名が出てこないところをみると、背後で何人かが行動を開始しているのだろう。
武者小路は一体どういうことだ、と尋ねた。
今まで一切お庭番衆との接触がなかったからだ。
中里はお庭番衆がいかなる集団であるかを大まかに説明して言った。
「少なくとも、今のお前が相手をするのは止めておけよ」
それほどに強力な集団だということだ。
武者小路は握った拳に冷や汗が浮かぶのを感じた。
「分かった。ありがとう」
中里は立ち上がって言った。
「それでは・・・」
時種も同じように立ち上がったので、武者小路も遅れて立ち上がった。
「支払いは・・・全部あいつ持ちだ。無いというなら強制労働でもさせておけ」
「毎度ありがとうございます」
そのまま騒いでいる芦屋の声を聞いて少し気まずさを味わいながら、二人は外に出た。
3月とはいえ、夜の風はまだ肌寒く、武者小路は少し身震いをした。
「大丈夫か?」
中里が武者小路を仰ぐようにしていった。
「大丈夫だ。心配するな」
それから、武者小路は常々疑問に思っていたことを口にした。
「なぜ私を助けた」
今日の中里ならはぐらかさずに教えてくれる。そんな根拠のない自信が武者小路を満たしていた。
「根拠の無い自信に身を浸すなよ」
中里はピシリと指摘してから、続けた。
「生きるべき命は全身全霊で助ける。それが俺の生きて来た道だ」
つまりは自分は生きるべき命だ、と中里に判断されたということだ。
「この命に何を感じた」
中里は武者小路の問いに言葉をつまらせた。
「それをきいちゃう?」
武者小路は頷いた。
「そうだねぇ・・・」
中里はあからさまにどうやってごまかそうかと悩みながら左右を振り向きながら歩いた。
武者小路が中里を殴りつけてやろうとして身構えた。
しかし、中里が突如立ち止まった。
「どうした」
「・・・囲まれたか」
中里は自然体で目を閉じた。
「・・・以蔵か」
中里は目を開けると言った。
「おい、以蔵いるんだろ?」
「相変わらずいい目をしている」
上空から斬撃が振り下ろされる。
それを左腕で軽く裁くと、そこに長髪の男が立っていた。
「なんで今頃ここにいやがる。故郷に帰ったと思っていたぞ」
以蔵は笑った。武者小路はその笑みに不快感を覚えた。
「脱藩してきたのだよ。なぁに、ここにいる連中はみな似たような物だよ」
そして、天誅の名人が何人かいるということだ。
「実地訓練の一号にしては厳しすぎないか」
「うるせぇ、きちんと教材が難しくなりすぎないように問題の道筋をつけてやるからよ」
中里はそのまま飛び上がって消えた。
「逃げのか・・・あやつめ・・・」
以蔵は細い目で上空を見つめてつぶやいた。
その瞬間、武者小路の蹴りが以蔵に炸裂した。
「お前の相手はこちらだぞ・・・」
武者小路の目が厳しくなった。
空間に緊張が走る。
武者小路は刀の柄に手をかけて言った。
「殺しはしない。だが、道を開かぬなら倒して進む。それだけのことだ」
今は抜けない。抜こうともしない。すれば自然に刀は鞘で固定され、鞘で刀を受け止めるだけになる。
しかし、武者小路の足技は容赦なく相手の足元を狙っていく。
集団になればなるほど相手は足元を疎かにする。
刀の攻撃ばかりに気がいっている経験の浅い者は特にそうだ。
そして、自分は刃こぼれをきにしなくていい。
「確かに楽な戦いだ」
橋の欄干の高さにだけ気をつければある程度力を込めて蹴りを放っても命に関わりはしない。
刀を避け、素早く顎に膝を叩き込む。
宙に浮いた男をつかむ。
反対側からやってくる相手に投げつける。
橋の上の乱闘はだんだんと騒ぎが大きくなってきた。
多くの人間が互いの殺気に感化され、高揚していく。
その結果、乱闘は激しさを増した。
武者小路の蹴りも何発も同じ人間に繰り出されている。
高揚して冷静さを失った人間に場の状況判断などということはない。
ひたすらに進み、壊し、壊される。
武者小路は蹴りと投げ技で迫りくる相手との間合いを広げつつ攻撃をくわえる。
背後からの一撃はその鋼鉄の発する冷気から判断して避ける。
「諸刃活人・斬空ッ」
武者小路の振り下ろした手が一気に空気を断つがごとく突き進んだ。
「無駄だ」
以蔵が笑みを浮かべた。
「我は朱雀、南を司りし激飛の将。我が前に空撃など無意味ッ」
無意味どころか、以蔵は武者小路の放った空気をそのまま弾き返す。
「上手流しっ」
武者小路は空撃を宙に受け流す。
空撃は中里に直撃した。
武者小路はそのまま相手の攻撃を流し技で屠りつつ、倒していった。
「どれだけいるんだ・・・」
武者小路はだんだん焦りを感じてきた。
その複数の刀の発する冷気と武者小路の疲労によって予想軌道が実際の軌道とずれ始めた。
なんとか一撃を避けたものの、続く一撃が髪を断った。
「しまった・・・」
その動揺が武者小路の冷静さを奪っていく。
そして、続く一撃で武者小路の頬に血が滲む。
「クッ・・・」
武者小路にはまだ数が多い。
傷を負ったせいで殺意を覚えたが、今は抜けない。
この刀はただの刀ではない。人間相手に抜いてはいけないものだ。
武者小路は必死で刀を抜くという誘惑に負けないように右腕を抑えた。
そして、武者小路は目を見張った。刀の刃が鞘から飛び出している。
「まだだ・・・。ここで抜いてはいかん・・・」
右腕で鞘をつかんで戻そうとするが、一度覚えた殺意の衝動にかられる右腕は飛び出した刀の勢いを増そうとしていしているばかりだった。
その瞬間にも敵は斬撃を加えてくる。
避けるのすらままならない。
咥えた夾竹桃の汁が滲み出てくる。
その瞬間、中里が上空から降ってきて手を合わせた。
「そこまでだ。武者小路、後は俺に任せとけ」
武者小路は不安そうに鞘を腰の紐に戻した。
「なぜ最初から出てこなかった」
武者小路の厳しい指摘を中里は頭をかきながら笑ってごまかした。
「それでもお前が戦わなきゃいけねぇ理由があるんだよ」
中里は髪を風になびかせて言った。
「さぁ、とりなおしと行こうか。俺は武者小路と違って容赦がねぇぞ」
中里は手を広げて言った。
「参号系の体術系統をことごとく習得した俺が相手してやるよ」
中里の左手が拳を固めた。
そして、中里は武者小路を抱きかかえると再び飛び上がった。
「何をするっ」
「俺は平和主義なんだ。人が死ぬのは見たくないからさぁ」
そのまま屋根に軽く着地すると中里は笑った。
「ま、とにかく今回の修行はここまで」
その瞬間、中里の背中を鋭い斬撃が襲った。
中里は武者小路の腰に刺さったままの刀の鞘で受け止めた。
「以蔵、契約したのか?」
左目の下に何か黒い紋様が現れている。
「その通りだ。貴様への妨害工作が評価されて俺はついに力を手に入れた。武市先生や龍馬ですら俺を見捨てたが、あの方だけは俺のことを認めてくださった」
「安房守の警備で満足しときゃいい物を・・・」
中里は武者小路を抱え直すと言った。
「以蔵。警告しておく。今のままでいればお前は絶対捨ててきたはずの物に追いつかれて嬲られる。過去を見つめろ。過去に生きるのは人としての過ちだが、過去があるからこそ今の自分がある。そのことを忘れれば、お前は過去に食われるぞッ」
武者小路はハッとした。しかし、以蔵は顔色一つかえずに言った。
「人は過去を乗り越えるからこそ強くなる。私はあの方から力を借りたっ」
中里は一瞬悔しそうな顔をした。
しかし、以蔵の斬撃を足の裏で受け止めるとそのまま刀を蹴り上げた。
「お前の力は所詮借り物だ。大きすぎる力に使われているだけだ。諦めろ。以蔵」
中里はそこから消えた。
そして、着地を軽くこなすとそのまま河原町通りをあがっていった。
以蔵は後に続いて少し浮いて追いかけた。
しかし、中里は突如走るのを止めた。
「覚悟を決めたか・・・」
以蔵が降り立った。刀を抜く構え。抜刀術を繰り出す気だ。
しかし、中里は武者小路を抱えたまま歯を見せてニッと笑った。
以蔵は本能的に危険を感じた。
中里の右袖から何かがポトリと落ちた。
ボワンと言う音ともに煙の柱が立った。
「ゲッホッゲッホッゲッホ、な、何してんだッ」
「ゲホゲホゲホゲホ、ごめげほ、ごめん」
以蔵は自分は今までしてきた中里との戦闘を恥じた。あんなマヌケな奴の相手を俺は真面目に・・・。
そう思うとこの戦いを止めたくなった。
しかも、煙の柱は高くなっていくだけで、どんなに目くらましになっても逃げた方向があっという間に分かってしまう。至近距離で使う煙幕を誤って使用したとしか思えない。
「・・・どこまでマヌケなんだ・・・」
以蔵が刀の柄に手をかけた瞬間、以蔵の首筋に刀の刃の冷たさが触れた。
「誰だ・・・」
以蔵が眉を潜めて言った。刀の主は以蔵の問いに答えること無く言った。
「見回りが拙者たちでよかったと思え。これ以上騒ぎを大きくすると我々浪士組が捨て置かんぞ」
「・・・浪士組」
武者小路はぽつりとつぶやいた。
「なんなんだ、貴様等・・・」
以蔵は憎々しげに吐いて捨てて言った。
「言っているだろう。我々は浪士組。江戸にて数千の中より選び抜かれた強者の集いにして、第十三代将軍、徳川家茂様の守護職である」
以蔵は一瞬男を恨みのこもった形相で睨みつけたが、すぐに殺意をしまった。
「ふっ、見逃してくれるというのか」
「さよう、いかなる場にも行くことを許す。しかし、言葉を重ねるがこれ以上の騒ぎを起こすな」
以蔵はククッと笑って口を開いた。
「貴様の顔、しかと覚えておいたぞ。もう一度会うことがあればお手合わせを願うことになろうな。中沢良乃介」
以蔵は刀をチャッと振ると鞘に戻した。
それから男の名を口にしてからクククッと笑みをこぼしてから、そのまま歩いていった。
「いやぁ、助かったよぉ」
中里がヘラヘラして言うと、目の前の男は刀を鞘に戻していった。
「お前も同罪だ」
そして、中里は武者小路を放り上げた。
とっさの事で、武者小路の着地が乱れた。
「中里・・・」
武者小路が文句を言おうとして中里を見ると、中里の首筋に刀が触れている。
素早い抜刀だ。
「・・・やぁ、自己紹介してくれないかなぁ」
中里は両手を挙げてため息をつきながら言った。
「なんで女の人がいるの?」
中沢の背後の女性は拳を繰り出してきた。
「はいはい、ごめんなさいね。女性だからって見下してる訳じゃないんだよ」
中里は女性の拳を軽く受け止めた。
「どうする、お兄さん。ここでぶち殺してあげようか?」
中里は拳を握っていない左手首を720度回転させて言った。
「これくらいならわけなくできるよ。さぁ、どうする?お兄さん。かわいい妹さんの利き手がなくなっちゃうよ」
武者小路は中里がなぜこんなことをしているのか分からなかった。残虐過ぎる。いつもならこんなことはしない。
「なぜだ、中里」
武者小路は刀に手をかけて言った。
「おっと・・・、これは失礼」
中里は女性の手を離して詫びた。
それでも中沢は中里の首筋に当てた刀を離そうとはしない。
「もしかして、俺が大騒ぎしたことに怒ってます?」
中沢は頷いた。中里は頭をかいた。
「もっと言うと妹さんを苛めたことについても?」
中沢はさらに激しく頷いた。
「それは・・・もうしわけありませんでした・・・」
中里は地に伏して平謝りに謝った。
さすがにそれを見て中沢もこれ以上手をだしたらまずいと判断したのだろう。
中沢は刀を収めた。
「いやぁー、ありがとうございましたよ。あの浪士たちを追い払ってくれて」
中里はいきなり中沢の手を握って言った。
「おい、中里。こいつは知り合いか?」
「いや、全然知らない」
武者小路は突っ転んだ。
「でも、少し知ってることはある」
中里は満面の笑みを浮かべて言った。
「だけど、妹がいることは知っていたが、まさか付いてくるとは・・・」
小声で巻き込みたくなかったよ、とつぶやいているのが武者小路には分かった。
同情。そして、怒りが武者小路の心に満ちていた。それが誰に対して向けられた感情なのか、武者小路は知ることは無かった。
「さて、と。はじめまして、琴さん。俺は中里浩」
中里は自己紹介をした。
中沢琴。中沢良之介の実の妹だ。
「そこで刀を構えているのは俺の仲間、武者小路だ」
武者小路は腕組みをすると、夾竹桃を揺らして鼻を鳴らした。
「こんなところ、女がくるような場所じゃないがな」
その時、琴の動きは早かった。
武者小路につかつかと歩み寄っていくと、武者小路に詰め寄った。
「失礼じゃ無いですか?」
武者小路も大きいが、琴もかなり大きい。胸の話ではない。身長の事だ。琴のはあまりおおき・・・
「あなた失礼ですよね」
武者小路は詰め寄ってくる琴の鼻をくすぐるように夾竹桃を回した。
「いや、思ったことを言ったまでだ」
武者小路は淡々と言った。中里と中沢は互いに見つめあってため息をついた。
「まぁまぁまぁ、そう怒ってばかりいると美しいお顔が台無しですよ」
「余計なお世話ですっ」
中里はこそこそと武者小路の影に隠れた。
「帰るぞ。中里」
「あ、え、はい」
中里は武者小路の影に隠れるようにコソコソしながらその場を去った。
しかし、琴もそれにまけじとついてくる。
武者小路は引き離そうと歩足を早める。
琴も早める。武者小路がさらに早める。琴もさらに早める。
「なぁ、この辺で止めない。加速」
武者小路に隠れているせいで歩くのが大変な中里がつぶやいたが、耳を貸す者は誰一人としていなかった。
「おー、大変だったじゃねえか」
一条橋の麓に戻ると、穴の開いた紙を袖にしまいながらニヤニヤした芦屋はそう言ってから続けた。
「『楔』の方はしっかり守っといたからよ。安心していいぜ」
セレネは芦屋にひっついたままで一向にそこから離れようとしていないのだから無理もないだろう。
武者小路は黙って腰を下ろした。
「そして、そこのお二人はどこの何方だ」
芦屋のキセルが吐き出す長い煙が二人を煙に巻いた。
「浪士組、隊士、中沢良之介にござる。こちらはそれがしの妹、琴でござる」
武者小路はそうなのか、と鼻を鳴らした。
「妹の方は帰った方がいい。私たちに関わるな」
武者小路は夾竹桃を噛んで言った。
それは無口な武者小路が心から思った忠告だった。中里も芦屋も常人ではない。もはや人の域を越えている。そして、敵も同等か、それ以上の戦闘能力を有した者を戦線投入している。
そんな中、飛び込んできたとしても、結果は見えている。ツクヨミの目的は不明瞭だが、浪士組にツクヨミの協力者がいることは分かっているし、ツクヨミが京都全域に総攻撃をかけないともわからない。
今の武者小路はできるだけ多くの人を救いたかった。
ただ、自分が生きるためだけに戦おうと決めたあの日の決意を後悔し、ただ人のために身を斬っていく中里と同じように生きたいと、武者小路はそんな風に願っていた。
だから、琴はこの京都にいてほしくない。そんな思いが、自分と同じように武器をとる決意をした琴に自分と同じような悲しみを背負ってほしくない。
武者小路はそんな親切心から琴に厳しく釘をさしたのだった。
しかし、琴は武者小路が自分の事をバカにしていると、女だからと言って見下していると判断した。
そして琴の発言は簡単だった。
「決闘をしてください」
武者小路は一瞬唖然とした。
「決闘・・・?」
「はい。ぜひとも貴方様の腕を確かめたく・・・」
武者小路は中里を振り返った。
「いいんじゃないのか。ただし、明日竹刀を持ってくれば、の話だが」
琴は頷くと、兄の腕に抱きついてさっていった。
「お前の実力ならまずあいつを倒せるだろうけど、面白いことになりそうだなぁ」
中里は軽く笑ってから言った。
「訓練系ではない相手だが、命はかかってない。修行を振り返る意味もあるぞ」
武者小路は不安そうに頷いた。
「不安が人を殺す。それだけ意識しろよ」
武者小路は不安を振り払った頷きを返した。
芦屋はニヤニヤしながら煙管をふかして中沢に言った。
「おもしろい女じゃねえか」
セレネは武者小路の手を握って応援の言葉をかけた。
しかし、セレネの言葉に答えていた武者小路は何となく不安に襲われた。川が叫んでいる。何かの危険を。しかし、地は何も言ってこないし、空が振るえている様子もない。
「気のせい・・・ではないだろうが」
邪門壊機の方は少し光を帯びている様に見えなくもないのだが、夜闇の中ですらうっすらとしか見えない光が果たして自分の錯覚ではないという自信が武者小路には無かった。
中里は何の心配もないようにいつも通りの大欠伸をすると、ボケッと空中に字を書く癖を発動しているきりで、特に何かを感じている様子もない。
ならば、自分も心配することはないという事なのだろうか。
武者小路は首を振った。中里もああしていることだ。
武者小路はいつもの様に中里の隣に座ると、そのまま寝た。
「いい女じゃねえか」
芦屋がセレネを寝かしつけながら、牙を見せてニヤリと言った。
「ああ。本当にいい奴だよ」
中里は遠い目をしていった。