-004-
宇美乃くじらは、幼い頃から海が好きだった。
彼女の父親は海上保安官で、その父の背中を見て育ってきた。
穢れなき白の軍服。
海のような強さと空の気高さを服として纏ったヒューマノイドを従え、極めて高度な統率の元に海上警備を行う――そんな父親を愛し、尊敬した。幼かったくじらは、だから当然のようにその背中を追った。
海上保安官は、海上における犯罪について刑事訴訟法の規定による司法警察職員だ。
かつて日本の海上保安庁は軍事的な権限や機能を有しておらず、故に文民の警察官と同様に、手に余る海賊行為に対しては海上自衛隊に対応を任せるほかなかった。噛み砕いて言えば、武器も持たず丸腰でパトロールをしている警察官みたいなものだった。
しかし、自衛隊が撤廃されて軍が再設されるに伴い、海上保安庁も軍隊のそれへと移行した。いまでは軍のそれと同じく、一哨戒船につき16基からなるヒューマノイドと各種ドローンを配備し、海賊行為や密漁船の取り締まり、捜索救難や海洋汚染など、海に関する多分野を任されている。
「……お父さんと同じ服……」
そしていま、くじらは穢れなき白の軍服を身に纏う。
晴れて父親と同じ海上保安官となった彼女は、この日初めて任務を任された。
哨戒船の指揮を取り、武装ヒューマノイドを従えて、不法停留している船を取り締まる――簡単なパトロール任務だったが、父親と肩を並べれたような気がして浮足立った。
単純に嬉しかったのだ。
亡き父を、そして海を愛しているからこそ、自国の海の秩序を荒らす者を許さない。そんな幼い自負を抱え、無駄に意気込みつつもパトロールに出ると、早速のように不審な船を見つけた。
船……というより、それは潜水艇だった。
「むむ? 怪しい……とても怪しい! 怪しいと思わない? ねえ、ねえってば!」
搭乗員は彼女の他にヒューマノイドしかいない。
一般に普及している機体ならば適当な返しがあっただろうが、軍用機は決まって無口だ。いくらヒューマノイドが人間に似ているといっても、所詮は機械だ。戦場で、人間のように細かく違和感を感じ取ることは出来ない。ついでに言うと、下手に喋る機能を持たせてしまっては、色々と危険が伴いかねない。斥候中にぺちゃくちゃ喋られてはたまらない。
「絶対、怪しいよ。絶対、秘密結社とか、そのへんの悪い奴らに決まってる」
でかい独り言を言い終えると、早速とくじらはドローンを飛ばした。
不審船に勧告をするためだ。
が、待てど暮らせど返答は返ってこない。
そしてドローンがモニタした様子を見、くじらは憤慨した。
「……えっ? なにしてんの、こいつら」
相手は甲板で、あろうことかビーチパラソルを差してバカンスと勤しんでいたのだ。
「――はあああぁっ!? ば、馬鹿にしてんの!?」
船籍をデータベースに照会してみる。
該当船は確認できない。
つまりあれは、海域を犯す不法船だ。
すぐさまHQに連絡を送り、ヒューマノイド4基に命を下す。他、スリープモードだった10基も配置につかせ、不法船の取り締まりに舵をきった。
「ざっけんじゃないわよ! 海を荒らすヤツは、誰であろうと、あたしが絶対に許さないんだからッ!」
で。
「……おい、こりゃあいったい、どういう冗談だ?」
ダサいアロハシャツの厳つい男が目の前にいた。
男はダサいサングラス怪訝そうにずらして覗きこんでくる。
硝煙と煙草の混じった臭い。それとは別に、悪を裁けなかった悔しさが、くじらの鼻をつく。
「お前みたいな“ちんちくりん”が指揮官だと? どこまで平和ボケしてんだよ、この国は!」
くじらは拘束されていた。
それはあっという間の出来事だった。
この男が船に飛び移って来て、暴力を振るった。
哨戒船は乗っ取られ、武装ヒューマノイドはすべて無力化された。
これだとちょっと簡単に言い過ぎな気もするが、男が――不運が――行使した暴力は本当に単純な暴力のそれでしかなかった。右腕のガントレッドを使って、殴る、蹴る、ぶっ壊す。強化外骨格は珍しいものではなかったが、その性能の高さに手も足も出なかった。『致命的な道具』――≪牙≫の存在を知らないくじらにとって、荒ぶる不運の姿はまさに鬼人のそれだ。
おしっこちびりそうになった。
実際、ちょっとちびった。
しかし、いくら不運の暴力が圧倒的といえど、振るっているのが人間なのだから、やはり限界というものがある。単純な暴漢なら催涙ガス弾や電磁拘束網など、制圧する手段は豊富にあったはずだ。特殊な制圧兵器もくじらの哨戒船には標準装備されていたはず。
「別に取り立てて騒ぐようなことでもないでしょ。このご時世に見た目とか性別なんてカンケ―ないしー。見える情報だけを信じてたら、簡単に足元をすくわれちゃうよ」
と、片手間にテキトーな合いの手を入れる優男。
彼は耳裏のコネクトからコードを伸ばし、ブリッジのコンパネに接続している。なにを企んでいるのか――システムに直接接続しているのだろうことはわかるが、くじらにはそれ以上は把握できない。
「……よし、書き換え終わり。これでこの船はワタクシたちのものだ」
冷静に考えるとぞっとするようなことを言う。
そう。
くじらが不運の暴力を簡単に許してしまった原因は、この優男、楽天にあった。
ヒューマノイドが自動小銃や特殊兵器を掲げる中、楽天はとても涼しい顔をしていた。
自分が絶対に撃たれない、絶対に安全だとわかっていたからだ。
不運との戦闘時、くじら以下武装ヒューマノイドたちは、一発の銃弾も放てずいいようにされてしまった。くじら達が用いた武器のすべては、“認証をパス出来ず、扱うことすら出来なかった”からだ。
これは不運の暴力とは別次元の暴力と言える――リアルタイムで認証を書き換え、信頼を置いていた重火器すべてを粗大ゴミにされてしまったのだから、普通の人間なら放心せざるを得ない。
しかし、宇美乃くじらは諦めが悪かった。
おしっこをちびっても折れない心を持っていた。
悪に対して正義が負けるはずがないと信じ込んでいる。
頭が、あまりよくないのだ。
「……貴様ら、こんな悪行が許されると思ってるのか!」
くじらは吠えた。
不運は、小生意気にもガン飛ばしてくる“ちんちくりん”を鼻で笑う。
「許されるもなにも、俺たちは許されてーと思ってねーから、まあ、関係のねー話だな」
「ふん、強がりなんて言っちゃって。その余裕がいつまで持つか見ものだな」
やりかえすように、鼻で笑うくじら。
はからずもドヤ顔である。
「今頃HQは装備を整えてこちらに向っているはず。貴様ら低俗な海賊なんぞ、イチコロでぺちゃんこにしてくれるはずだ。わかるか? わかるだろう。わかったらなら、いますぐこの拘束を解き、あたしを解放しろ! 改心を見せれば、貴様らを悪いようにはしないと誓ってやろう」
不運はげんなりした。
「……またやかましい馬鹿が一匹……」
斉藤詩織といい、どうやら不運は愚直なお馬鹿に縁があるらしい。
「おい、楽天。てめーが立てた案だかんな? てめーで面倒見ろよ?」
見遣る操舵席では、楽天が楽しそうにモニタをいじくっている。
きっとシステムや環境を自分好みデザインしているのだろう。こうなってしまうと非常に長い。楽天は凝り性なのだ。
「こら、貴様! そこはあたしの席だ! 勝手にさわるな!」
ちびったりドヤったり怒ったりとくじらも忙しい。
楽天はぴーぴー喚く彼女へと振り返る。
「うるさいなぁ、もう。書き換えたって言ったでしょ? これはもう君のモノじゃなくて、ワタクシのモノだから」
君のモノはワタクシのモノ、ワタクシのモノはワタクシのモノ。
そうおちょくられるくじらは、けれどまだ自分の立場が理解できていない。怪訝な眉をさらに鋭くする。
「っていうかさ。君。まだわかってないようだから優しい優しいワタクシが懇切丁寧に教えてあげるけど、君の本部はこの状況を把握すらしてないよ? だから、君の言う助けなんてものは、絶対に来ない」
「……えっ?」
「君が馬鹿みたいにドローン飛ばして警告くれてる間に、この船のダミー位置情報を浮かばせた上で情報遮断膜を張ったからね。一時、電波なくてリンカー使えなかったでしょ? 君を乗せた船は普段と変わりないルートで現在も巡航中。あーテステス、P-B9よりHQ。本日も異常ナシ、本日も晴天ナリ」
おどけて見せる楽天に、「そ、そんな……」とくじらは唇を震わせた。
狂言の可能性もあったが、楽天の言には妙な説得力があった。先の戦闘でのハッキング技術を以ってすれば、それが容易であることは想像できた。
「まあ、安心してくれていいよ。ワタクシたち、君に危害を加える気はないからね。むしろ感謝すらしてるんだ。海のど真ん中で燃料切れちゃって、どうしようか途方に暮れてたところだったからね」
「……だったらこんなことをせず、救助要請をすれば……」
「ハッ、てめーはあれだな? 見た目通りの馬鹿だな、てめーは」
不運が割って入る。
「んなことしたら、俺たちが船を盗んだってバレるだろうよ。ちっとは考えてからモノ言えや、チビ助」
「……ち、チビ助!?」
くじらは唸った。
コンプレックスを見事に突かれた、というのもあったが、相手の頭の具合の悪さに驚愕したのだ。
な、なんて危険な思考だろう。やっぱりこいつらは、自分のことしか考えていない。ダサいアロハシャツ、厳つい悪党面から察してはいたが、根っこの底からの悪党だ。
――屈してなるものか。
再度折れかけたくじらの心に火が灯る。
助けが来ないからと言って悪党の好きにさせていい道理はない。
保安官は――父なら――こんなやつらに屈しはしない。
視界モニタを開く。
通信回線が開けている。幸いと、すでにヴェールは解けているようだった。
すぐさまリンカーからネットにアクセス。開いたARV窓からアプリストアに繋ぎ、役に立ちそうな機能をチョイス。縛られてるから、縄抜けの技術あるやつが欲しいなあ。おっ、このグリーンベレーとかいいじゃん。評価星5、最高じゃん。
浮かぶショップのリストから任意のASTSのソフトアプリケーションを選択。
ダウンロード状態を示すバーカウンターが視界に表示される。
「……あれ? ちょっと待って。これ、おかしい……」
コックピットの楽天が困惑したように言った。
何か問題でもあったのだろうか。しかし、くじらにとっては問題ではない。相手の注意が逸れるのはむしろ好都合だ。ダウンロードは残り30パーセントで完了する。早く、早く、と気が急く。
「なにぴよってんだてめーは。おかしいって、なにがだよ?」
「例の“奴さん”の話だよ。特定したロシアの売り手、その顧客リストにあり得ない場所がある……」
服の下でじっとりとした汗が滲むのがわかった。
海賊二人は話し込んでいて、くじらの企てに気がついていない様子だ。
くじらはしたたかにプランニングをする。
縄を抜けて、虚を突く。
この海賊二人を拘束して、本部へと連行する。
完璧だ。あたしの大勝利だ。お手柄を立てて、表彰されて、昇進になるかもしれない。
父の背中を追う良い足がかりを得て、吊りあがる口角を禁じ得ない。そんな浅い皮算用にくじらは、惜しげもなく大海原にスケベ顔を晒す。
「…………」
ようやく、インストールが完了した。
新たな窓が開き、求められた認証を許可。
すると途端に、視界にナビゲーションシステムが展開された。
「……えっ?」
くじらは当惑した。
それも当然だ。
落とした機能を開いたはいいが、その機能はまったく見当違いのものだった。
ナビゲーションシステム? そんなの落とした覚えなんてない。グリーンベレーはどこへいった。
「あ。インストール終わったみたいだね。じゃあ、さっそくで悪いんだけど、ナビしてくれるかな?」
「ま、まって、なんで? あんた、あたしになにを……」
「んと……簡単に言うと、脆弱性を使って君の視覚をハックした。いま入れた“それ”をワタクシが落としてもよかったんだけど、ちょうど適役がいたからね。君なら、仮に足がついても問題ないしー、足跡が残ったところでワタクシたちは困らない」
ハックした?
優男が言っている意味がわからなかった。
言葉の意味はわかるが、そこには現実味がまったく伴っていない――少なくとも、くじらの知っている現実では、他者の視野をリアルタイムでハッキングするなんて、そんなことは絶対に不可能なはずだった。
真綿で締め上げられるような生々しい不安がくじらを襲う。
気炎を上げる余裕が一瞬にして潰えてしまった。
通信手段を奪われ、助けを呼ぶことができなくなった――それだけに留まらず、自分の感覚すらも手ごまに扱われている。世界がひっくり返ったような気分だった。
どうなってるの……。
自分が視覚していた情報が、認識していたそれと全く異なっている。
その驚異は、お馬鹿なくじらでも十分理解するに足り得た。
「まあまあ、そんな顔しなくても大丈夫だって。言ったでしょ? 君に危害を加えるつもりはない。ただ、ちょっと“君”と、君の船を借りるだけさ。ワタクシたちを送ってくれれば、もう用済みだ。ちゃんと解放してあげる。約束するよ、ワタクシは交わした約束を破ったことがないことで有名なんだ」
嘯く楽天。
不運はそれを鼻で笑う。
「ハッ、よくわかんねーけど、また犯ってんのか。とことんまでクソ野郎だな、てめーは」
くじらはもう正気を保てなかった。
目の前にいるの二人が悪魔に見えた。
「んで? 目的地はどこだよ。そのあり得ねー場所ってのは」
陽気な悪魔は不敵に笑う。
「――“トウキョウ”さ」




