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燦々と照りつける太陽。
海面はきらきらと光りに揺れ彩られ、吹き抜ける海風が心地良い。
『こちらは海上保安局です。現在、この船舶には船籍提示勧告が出されています。すみやかに提示を行い、保安官の指示に従ってください。繰り返します――』
ドローンが耳に毒なアラートを奏で続けている。
中空にとどまる保安官の服装をした可愛らしいコアラのマスコットキャラ。その立体映像がアラートを向ける先に、海面に全体の半分を覗かせた小型の潜水艇があった。
鈍く光りを反射させる黒い船殻の上には、酷く不釣り合いなビーチパラソル。
傘下の二つの影は、警告などまったく耳に届いていない様子で、さながらバカンスと洒落こんでいる。
「掛かった」
と、丸眼鏡をかけた優男――楽天はにやりと笑った。
それを受けて、となりのチェアで煙草を吹かしていたグラサン男が起き上がる。
「……やけに早いな。間違いねーのか?」
柄の悪そうなその男は不運だ。
赤いアロハシャツを胸元全開にして、完璧にバカンスの態である。
この舐め腐った態度。遠くに見える哨戒船に人が乗っていれば、間違いなく憤慨しているに違いない。
海上都市の一件で、潜水艇をパクって海底プラントから脱出した二人は、そのまま海を彷徨っていた。より正確に言えば、燃料が切れて身動きが取れなくなっていた。
「まだ検証してないから100パーとは言えないけど、まあ間違いないね。ワタクシの直感がビンビンいってる。……けど、驚いたな。やっぱり奴さん、リンカーの脆弱性をついてきてる。リンカーのゼロデイ脆弱性なんてどこで仕入れたんだ? 国家機密レベルだよ、これ。……いずれにしても、素人ができることじゃない」
「素人じゃねーってのは、海上都市んときにわかってたろ。わざわざ立ち上げた会社捨てて罠仕掛けたんだから、ちゃんと魚釣りあげろよ?」
言われるまでもなく、と楽天はホロモニタと睨めっこしながら応える。
浮かんでいるモニタは複数あり、その一つに月野憂沙戯と銀守霞臥が事務所を物色している様子が映し出されていた。
が、それはいま彼の眼中にない。
彼の精神は、かつての“自分”の義眼をハッキングしていた相手に注がれている。
「大胆なくせに慎重。いや、芸術的だね。見てよこれ、リンカーに入り込むまでに足跡ひとつ残してない」
不運はグラサンを外して楽天のホロ端末を覗き込む。
ウインドウはわかる。文字が並んでるのもわかる。プログラムとかそこらへんの機械言語なのだろうこともわかる。けれど、それがどう転がって芸術的なのか、さっぱり理解出来ない。
「……悪ぃ、わけわかんねえ」
「これだから脳筋は」
嘲笑された。
殴っていいかなぁ、と思う。
「ようするに、相手はプロってことだよ。それも飛びきりの――あるいはワタクシに匹敵するかもしれない――特A級ハッカー。侵入感知できただけでもめっけもんだ。とりあえず、追跡システム走らせて3ポップまで探らせてみる」
「……3ポップ?」
「……もしいま、ワタクシが三人並んでる姿を思い浮かべたんなら、悪いことは言わない。一度病院に行ってそのお脳を視てもらったほうが良いよ?」
てめーの舞台上だからって調子に乗りやがって、と今度は不運が舌打ちをした。
NLOの神経接続は、この世界の血脈と言いきっても過言ではない。
人体、擬体、ヒューマノイド、他機器――車から家内システム、政府、軍、交通、医療機関、各種施設――に使われ、そのほとんどが神経接続で閲覧や操作が可能となっている。
故に、そのセキュリティは当然最高レベルだ。
がしかし、どんなシステムにも脆弱性、抜け道、穴というものが存在する。
リンカーの暴露ウイルス事件も記憶に新しい――楽天はその事件に関わっていないが、これはある程度の技術を持った者が脆弱性を突けば、大抵のシステムを簡単に乗っ取ることができることを立証する良い事例だ。
2008年、『山田ウイルス』というマルウェアを製造したとして、日本の大学生が逮捕された。
『山田ウイルス』は、主にファイル共有ソフトを媒介として感染し、感染すると山田と名乗る男が画面に登場してダウンフォルダ内部のファイルが全削除されたり、データを勝手にキャプチャして不特定多数にメール転送されたりする、いわゆるワームタイプのマルウェアだった(ちなみに、この『山田』という人物はウイルスの作成者ではなく、ウイルス作成者により勝手に写真などを利用された被害者だった)。
『山田ウイルス』は専用のソフトウェアを使って容易に作ることができるため、初心者でも簡単に作ることができた。そのため、亜種は100種類を超えると言われており、ウイルスの挙動は一つではないため、駆除方法も一つではない。
コンピューターウイルスがウイルスと言われる由縁が、まさにここだ。
ある程度の技術を持った者が、悪意でなくとも好奇心を振るえば、マルウェアは製造できる。一世紀前でこれなのだから、22世紀現代――NLOで簡単に知識や技術を共有・並列出来る現代――なら、その敷居はぐっと下がる。
もちろん、ウイルスの作成は重罪で、殺人と並ぶタブーだ。
「ロシア、韓国、中国……どっかのアングラから仕入れたソフトウェア……その亜種っぽいんだけど……なにこれ、意味わかんない……コードの暗号化と誤読化がマジでピカソレベル。追跡も2ポップで該当2000万ってどうなってんの?」
楽天の言うポップとはデータ追跡の範囲のことだ。
調査範囲は、通信した相手の通信先までで、例えば過去に10人と通信を行っていれば、その10人までを範囲とする。2ポップならそこからネズミ講式に10人。3ポップなら10の3乗で1000人となる。
いま、楽天が相手を特定しようと走らせた追跡システムが、3ポップで約600億件の手がかりを検出した。
「――じ、人類規模超えてるよ! ふざけんなっ!」
楽天がわめいた。
手がかりが多すぎて、これじゃあないに等しい。
相手はデコイをそこら中に振りまき――恐らくトロイの木馬を使って、不特定多数のアカウントを借りて――それらを踏み台にし、楽天らが用意した擬体の眼にアクセスしたのだろう。
丁寧かつ慎重で隙がない。
足跡はほとんどと言っていいほど残さず、万一感知されれば大量のデコイを使ってネットの森の中に身を隠す。木を隠すなら森の中とはよく言われるが、サイバー空間で一本の木を探すことは、宇宙空間で人間一人を探すようなものだ。手がかりなしに行えることではない。
「なあ」
と、不運が横やりを入れる。
「気になったんだけどよ、お前が追ってるそれって、逆探知されたりしねーのか?」
「はあ? はあぁ!?」
と、楽天は不機嫌を隠そうともせず応える。
どうやらプライドに触れてしまったらしい。
「馬っっっ鹿じゃないの不運! ワタクシがそんな素人みたいなことすると思ってんの? そもそも、追跡システムは足跡消しながら探ってくんだよ、ワタクシがわざわざ手を加えるまでもなくね。なにより、相手はワタクシと同じように脆弱性を知り尽くしている」
「その脆弱性の出元を探す、ってのは、また違うのか?」
「だーかーら! 不運が思いつくようなことは全部やってるっての! 相手が使ってる脆弱性から売り手の特定はできた。ロシアのアングラに売りに出てた量産品。ちなみにホールはリンカーじゃなくてワームのほうね。電子鑑識でざっと調べたけど、決め手になるような痕跡もない。逆に痕跡があり過ぎて、詳細に調べるには時間が掛かり過ぎる。わかった? わかったらちょっと、もう、ホント面倒だから黙っててくれないかなあ」
不運の額に青筋が浮かぶ。
『――こちらは海上保安局です。要請無視と判断し、強制処置に移ります』
無視され続けて腹を立てたのか、コアラ保安官が厳しい顔つきとなって船に寄ってきた。遠くにいたはずの哨戒船も、いつの間にかすぐ近くまで来ている。
勧告に従わなければ武力行使に移る――そんな平和的な圧力を、けれど暴力の権化である不運が従うはずもない。
というか、不運はイラついていた。
そういうわけで、迷いなくコアラを叩き落とした。
コアラは身体にノイズを走らせ、海に落ちた。
「さっきから黙ってきいてりゃ、ぴーぴーうるせえんだよっ! このクソがッ!」
これは誰に向けて放った言葉だろうか。
楽天は依然と険しい顔でモニタとにらめっこしている。
公共の敵である彼らにとって、違憲違法は日常の一部だ。
そして社会は違法行為というものを、とことんまで嫌っている。
哨戒船の甲板は、さっそくのこと武装したヒューマノイドが詰め掛けていた。治安維持のために不届き者を制圧する――いずれも銃を持ち、不運をレーザー照射する。アロハシャツは一気に水玉模様になる。
「チッ、メンドくせぇ。おい、楽天、情報遮断膜は?」
「もう張ってるっての。ワタクシを誰だと思ってんの? 遮断時間が長いと感知されるかもだから、600秒以内でヨロシク」
「笑わせんな、五分で十分だ」
楽天がこちらを見もせず中指を突き立て、そして不運は≪牙≫を剥いた。




