-007-
デスク。機器。水槽。物質。肉。繊維。筋肉。朽ちた身体。かつての自分の身体。
そして現在の自分の身体。
『わたし』。
漠然と認識していたすべてのものが、その瞬間に明瞭となった。
拒むように突き出した両手が、目の前の男――認識した。スマイルだ――を突き抜ける。ARとして浮かび上がる彼を押しても触覚は返ってこない。
ホログラフなのだから当然だろう。
突き出した腕の慣性に引かれるまま、ウテルスの身体はスマイルを通り抜ける。受け身を取り、床を転がるついでに彼によって洗脳された小型キメラの首をへし折る。
「――しまった、やぶへび……」
ノイズ交じりにそんな言葉を残して、スマイルを象っていた拡現は消滅する。
ウステルはこの生体から微弱ながら電波を感知した。
通信電波とは種類を逸した、自分と他が“繋がる”感覚。
そんな違和感に疑問を覚えたが、しかし、いまはそれより優先すべきことがある。
恐らく、スマイルはなんらかの方法を用いて、キメラに埋め込まれたNLOインプラントに強制干渉――行動基準伝達(ASTS)中枢回路をハックして、解析変換の後、キメラの身体をコントロールしていたのだろう。
電波をこの深海まで繋ぐには、中継基地的役割となるファクターが必要になる。憂沙戯の頭脳を譲り受けたウステルは瞬時にそれを判断。――中継基地は、間違いなく人間に……あるいはキメラに埋め込まれたNLOインプラントだ。
すかさず、思考入力で固有インプラントをオフライン、スタンドアロン状態にする。
情報セキュリティ・アカウント、国家登録ID等のログアウト警告が視界窓にアラートされたが、すべて無視した。スマイルがどの程度の干渉能力を有しているか……それは定かではなかったが、しかし、スマイルの足が自分の頭の中に残っている可能性を考えると、無理やりでも外部干渉はカットアウトしておくことが、この場合は冴えたやり方だろう。
「…………」
右を見て、左を見る。
ウテルスはタッチボードを探した。
人の生活をより便利なものにするため、街中や施設にはリンクマークが描かれた合成樹脂版のグリーンボードがいたるところに設置されている。これを使って都市システムにアクセス、認証により情報を得たり、ARホロ情報を更新したりできるのだが――当然、この海底プラントも通信こそ出来ないが、所内情報を統合するLabシステムは機能しているはずだ。
ウテルスはまず、自分はなにをすべきかを考えた。
目的はこの研究所からの脱出。
得た身体――月野憂沙戯として成り済まし、人間としての人生を手に入れる。そのためには、とにかくこの場所から出なくてはいけない。しかし、ウステルはこの施設のマップを知らない。少なくない期間暮してきた――管理されてきた――場所ではあったが、ウテルスが知っている世界は水槽の中の世界で、それ以外の世界は全く知らないと言っていい。
自らの記憶から研究員の会話をピックアップし、クロスワードのように繋げて推察するのも考えたが、とにかくいまは時間が惜しい。だったら、手っ取り早くシステムから情報を得たほうが効率的だろう。
ウテルスの目は、室内中央に設置された大型情報端末に止まる。端末脇に設置された直接接続用のコードを引っ張り出すと、髪をかき上げ、耳裏のプットへと差し込み、アクセス。
NLOインプラントが、読み込んだ情報を脳内に投影――大脳皮質における視覚に関する領域に情報が送られ、視覚データとしてAR展開される。端末のサーチエンジンを起動させ、数百、数千万の情報群から目的のそれを検索。
こういった自分以外の『モノ』と大量のデータ処理と交換をするための、電子的な『共感覚機構』は、伸び広がった電子神経を物色しているようで、少し気味が悪かった。
現実とは違うベクトルで展開される、濃密な情報の集積形態。
電脳世界。
個と個が、個とモノが、それぞれの点と点が線で結ばれたそれは、どこまでも自分が孤独であることを突きつけているようだ。
「――あった」
情報の海を物色しているうちに、目当ての物が見つかった。
海底プラントの施設内情報ソフトロム。もっと奥まった情報を得られればよかったのだが、パスコード認証を求められたので断念した。
Labシステムと自分のNLOインプラントを同期、取得したロムを処理させると、視界にARナビゲーション・マップが広がる。あと必要になるのは、ゲートなどの認証をパスするための生体IDだ。
これについては宛てがあった――ウテルスは、吹っ飛んだデスクと仲良さ気に寝ている、入江の壊れたヒューマノイドを見る。
腕と足はへし曲がり、首があらぬ方向に剥いて、人間なら明らかに死んでいる様だが……それでも、認証として死んでいるわけではない。彼の手のひらがあれば、指紋・掌形をパスできるし、顔を持っていけば網膜や鼻や耳の形など、使い勝手は多様だ。
懸念として、生きていなければ虹彩・音声といった認証をくぐれない――というものがあったが、もとより入江運河という人間は“全身を機械化している”のをウテルスは知っていた。目の前に転がっているコレが、彼本人なのか、それとも操作された別の彼なのかはわからなかったが、携えて損になることもないだろう。
そういうわけで、ウテルスは床に落ちていた電磁ナイフを使って、彼の手首と首を切り落とした。
精密にも機械と筋肉が織り成した身体の一部。
“それ”のカタチを“成しうるもの”。
それらを振り回して適当な血抜きをした後、手は服のポケットにしまう。
首はどう携帯しようか悩んだが、素直に髪を掴んで持っていくことにした。
「……えへへ」
不意に笑みがこぼれた。
いま、自分はファーザーを管理している。管理していた立場と、されていた立場が逆転していて、ウテルスはなんだかちょっと嬉しくなる。小唄でも口ずさみたい気分だ。
ウテルスは脳内テキストから一曲をチョイスし、スキップしながら歌った。
それは日本人なら誰もが知っている曲だった。
ロンドン橋落ちた。落ちた。落ちた。
ロンドン橋落ちた。大変だね。
木と泥で作れ。煉瓦とモルタルで作れ。鉄と鋼で作れ。銀と金で作れ。
寝ずの番を立てよう。
寝たらパイプを吸わせ続けよう。
「マイフェアレディ♪」




