Phase 7
それから数ヶ月が経った
桜の季節が終わり、暦は夏に切り替わっていた。
七月末のテストを難なくパスし、レポートを早々に提出し終わった青年は、他の生徒より早く夏季休暇を迎えていた。
しかし、大学ではオープンキャンパスのイベントだったり、補講期間だったりして賑やかさはさほど変わってはいないだろう。
けれど青年は、だからと言って大学にわざわざ足を運ぶような真似はしない。授業の聴講手続きやらで、学校へ顔を出すようになるまでは自宅に籠ってやろう、と思っていたのだが……。
これは今朝方のこと。
徹夜でコレクションを製作し、そろそろ寝ようかと思っていた矢先、携帯端末が震えた。
確認してみるとそれはメールで、差出人は一ノ瀬綾奈。
『大至急学校に来たれり! 私が大秘事を抱えて待っておるぞ!』
浮かび上がったホログラムには、デフォルメされた可愛らしいウサギがいた。その手には添付されたデータを持っていた。
面倒だと思いつつもタップして開いてみると、どうやらそれは画像らしく、甘ったるそうなショートケーキが映し出された。
……いや、意味がわからない。
一瞬、何かの暗号かと思った。
しかし、差し出し人はあの一ノ瀬。そんな回りくどいことをするなんて、まずあり得ない。
(……大秘事って……いつの時代の人間だよ……)
(しかし、大学か……行きたくないなあ……)
ずいぶんと迷ったが、仕方なく青年は重い腰を上げて、大学へと向かった。
待ち合わせ場所は大学のエントランスにある喫茶店、<道化の王冠>。
青年がそこに着くなり、一ノ瀬はバンザイのような格好で迎え、
「あっ! ■■■くん、こっちですよ! こっちこっち!」
と、叫んだ。
茶色を基調とした渋い店内装飾と、その物静かな雰囲気が気に入っている店だったので、今後のためにも本気で踵を返して帰りたくなった。
どうにか他人のふりを出来ないものか――と、考えるが、叫ばれたときに名前を出されたので、仕方なく一ノ瀬のいるボックス席、その対面に座る。
「……うん。とりあえずさ、勘弁してもらえないかな?」
「ん? なんの話ですか。それより■■■くん、なに飲みます?」
青年は嘆息する。
悪意のない無邪気さというのも、それはそれで厄介なものだ。
ふと、周囲の視線を感じた。
周りに目をやると、どうやらこのテーブルは注目の的らしい。
ひそひそ話をする生徒たちや、冷たいまなざしで見る生徒が見て取れた。それが一ノ瀬の奇行に対してなのか、それとも青年という異物に対する嫌悪の目なのか。
「……僕はエスプレッソで」
「了解です!」
一ノ瀬は馴れた手つきでテーブルに置かれている注文用の端末を操作する。
休日だからなのか、一ノ瀬の服装はいつもよりオシャレだった。
トレードマークのサイドアップにされた髪には、上品な華の飾りが添えられいて、その身はほとんど白のようなクリーム色のワンピースで飾られている。
手首につけられた携帯端末もその配色パターンを変えて、服に合う白を基調とした華麗なデザインになっていた。
(……なんだその格好……頭でも打ったのか……?)
(いや、夏だから熱さで頭をやられたのかも……)
普段の活発なイメージはそこになく、一ノ瀬はどこか深窓の令嬢のような服装をしていた。
少しして、ヒューマノイドの店員がコーヒーを持ってきた。一ノ瀬がすでに平らげたショートケーキの皿を下げて、小さな会釈をして去っていく。
青年はカップに口をつけ、一息着いてから訊いた。
「それで、大秘事ってのはなに?」
一ノ瀬は口の周りに白いヒゲを作っていた。
頼んだカプチーノの泡なのだろうけれど、面倒なので放置する。
お譲さまイメージは、所詮イメージでしかないらしい。
どことなく楽しそうに、声をひそめて一ノ瀬は言う。
「実はなのですが……なんと、今日は私の誕生日なのです」
「…………」
返事代わりにコーヒーを一口飲む。
ゆっくりと喉をならして、カップを置いた。
(……神聖なる休日に人を呼び出しておいてなにかと思えば……)
(まったく、面倒だ。僕はプレゼントでもせがまれるんだろうか……?)
一ノ瀬はこちらの様子を伺うように、しずしずとカップを両手で持ち、全くの無音でカプチーノを一啜りする。
そして、少し首をかしげて訊いてきた。
「……あの、もしかして怒ってたりします?」
「別に」
「でも……なんだか不機嫌そうな顔です」
「ちょっと夜更かししてね。それに生憎だけどさ、僕はいつもこんな顔だ」
「でしたっけ」
「そうだよ。ついでに言っといてあげるけど、口のまわりに泡付いてる」
一ノ瀬は慌てるでもなく、静かに口元をぬぐった。
どうやらわざとやっていたらしい。
それから――カップの底が見えるまで、時間が空いた。
しゅんとした面持ちのまま、やがて沈黙に耐えきれなくなったか、一ノ瀬は口を開く。
「……実はですね、今日お呼び立てしたのはですね。私、今日が誕生日でして……」
「それはさっき聞いた」
「……なので、えっと、プレゼントを買おうかなって思っててですね……」
青年は眉をひそめる。
「買おうかなって、自分にか?」
こくん、と一ノ瀬は頷く。
(…………)
(……まあ、そういうのもあるか……)
青年は深く考えずに、聞きに回ることにした。
「それで……一人でお買い物というのも、寂しいかなー、と……」
「そういうものかな」
「頑張っている自分にご褒美、ってニュアンスでもいいんですけど。それだとちょっと悲しい人になっちゃうかなーって、思いまして……」
「で、僕を呼んだと」
うなずく一ノ瀬。
どこか申し訳なさそうな顔だ。
青年はふうん、と鼻を鳴らして言う。
「だったら友達でも誘えばいいんじゃないか? 僕とは違って、一ノ瀬にはそういう人間がいるだろ。正直、僕が呼ばれた理由がわからないんだけど」
「えっと、ですね。それは……その……だ、男性用の下着が見たくて……」
「は?」
一ノ瀬はぼっと顔を赤らめ、
「わわっ! なに言ってるんだ私っ! ち、違いますっ! 間違えました! 男性の下着じゃなくてですね、えっと……えっと……し、趣味で……」
「趣味で男の下着を集めてるのか」
おたおたと慌て始めてしまった。
見ていて飽きない――と言えばそうだが、今日に限っては煩わしく感じた。
「……いえ、それでもなくてですね……あの、ごめんなさい、私いま、ちょっと緊張しています」
それは青年も思ってはいた。
オーバーアクションに定評のある一ノ瀬ではあるが、開口一番に叫ぶようなことは今までなかった。その表情も硬い。なにより、自分でそんなわけのわからないことを口走ってしまうくらいだから、普通の状態ではないのだろう。
しかし、なかなか本筋へ進まない会話にイラ立ちを覚えるのも事実だ。
青年は言う。
「言ってる意味はわからないけど、つまりこうかな。今日が一ノ瀬の誕生日だから、それを口実に僕になにかプレゼントでも買わせよう――ってことだろ?」
一ノ瀬は目をみはった。
その意味に気づきもせず――青年は続ける。
「僕だってそこまでケチじゃない。何が欲しいのかは知らないけどさ、そんな回りくどいことしないで率直に言ってくれれば――」
「違います」
青年の言葉を切り、一ノ瀬は訴えるように言った。
強張った顔で小さくうつむき、手元のカップを見つめている。
肩が少し震えているように見えた。
「……たしかに、もしかしたら■■■くんにプレゼント買ってもらえるかも、って思ってはいました。でも、違います。そんな理由で呼び立てたりなんかしません」
「…………」
「だから……だから、そんな言い方しないでください」
返す言葉が浮かばず、理解出来ない状況が青年の沈黙を誘う。
嫌な静けさの奥で、生徒の笑い声が遠くに聞こえた。
一ノ瀬はうつむいたまま、それと知れないほどそっと溜息を着き、ぽつりと呟く。
「……ごめんなさい」
青年はそれにつられて、
「ごめん。僕も少し不機嫌な言い方をしたかもしれない」
と、理由もわからないまま言ってしまう。
考えてから、謝る理由なんてなかったよな、と遅まきながら気が付く。
一ノ瀬のオーバーアクションは、喜怒哀楽すべてに精通しているらしい。申し訳ない、という様子がありありと見て取れたからだ。
青年はカップに手をつける。口に運ぼうとして、もうすでに飲み干したことを思い出した。
それを見てたのか、一ノ瀬の表情がふっと和らいだ。
「なにか頼みますか?」
「いや、いい。……それより、買い物だろ? なにが欲しいのか知らないけど……まあ、付き合うよ」
「えっ」
一ノ瀬は目を丸くする。
「付き合ってくれるんですか?」
沈黙のまま、時間が浪費されていくことは生産的ではない。
そう思って青年は頷いた。
「わあ! 本当ですか! ありがとうございます!」
一ノ瀬は桜のような満開の笑顔を見せた。
いや、季節に合わせるなら今は夏だから、アサガオか。しかし、水を得たアサガオだって、ここまで瑞々しい表情は作れないだろう。
「あ、飲み物がなくなっちゃいましたね。なに飲みますか? ■■■くん」
青年はゆるゆると首を振った。
(……まったく)
(……山の天気のような奴だな……)
二言三言と、感情を乗せた言葉を述べる一ノ瀬をよそに、青年は心の中で嘆息する。
一ノ瀬のカップも空になっているようだし、目的が鮮明になった以上、この場で潰す時間も惜しい。
青年はすっと立ち上がる。
「いこう」