深海都市 -001-
――日本海沿岸。
列島の中央部、北に向けて突き出した能登半島から半月掛けに広がる富山湾は、日本海最大の外洋性内湾であり、水深の深さと魚の豊富さで知られる日本でも比較的美しい海だ。春と冬には蜃気楼が発生することで知られていたり、これらが評価され世界で最も美しい湾の一つと認められていたりするが……まあ、そんなことは本当にどうでもいいことで、ともかく翔兵はその綺麗な富山湾の海面を“下から見上げていた"。
「うっわあ……」
首の角度は前方斜め四十五度。
固定しているとすぐに筋が痛くなりそうな角度だ。
その視線の先――クリアなアクリルの円形外壁にはでかでかとホロ・マップが表示されていて、富山湾がどれだけ美しいのか、どれだけ水質がいいのか、どれだけ魚の種類が豊富なのか――などを、つらつらと説明書きしている。
「……人間って、すげえな……」
何度目かの感嘆の息を漏らす。
浮かび上がるホロの奥は海だった。
遠くに見える海面が陽光を浴びて、ゆらゆらとまるで教会のステンドグラスのように煌いている。そこを気持ちよさそうに泳ぎゆく魚群や、外壁アクリルを転がる微細な気泡がまた彩を一層高めていた。
見回す全方位360度が海という、深海のパノラマを前に感動を覚えないはずはない。
少なくとも年頃の男心をくすぐる要素としては十分だ。
そんな幻想的な背景の手前には、一辺30メートルはあろう三角形の強化樹脂コンクリートが骨組まれていて、海中にただよう巨大な球体――ポートシティの輪郭を作り出している。海上都市……いや、むしろこれは深海都市といっても過言にならない。
直径一キロの球体コンクリートフレームの中に、翔兵たち五人はいた。
海面を見上げ呆ける翔兵の隣で、かれんは微笑し、
「翔兵さんのリアクションは見ていて飽きませんね。でも、人間の本当にすごいところは技術ではなくて、不可能に対して挑戦を続けることができることだと思いますよ」
まるで感嘆に肝を溶かした翔兵を諭すように言った。
その手に大きなカバンをコロコロと引いている姿は、まるで出張に来たビシネスウーマンのそれだ。私服なら旅行者に見えたかもしれない。
「こういった次世代環境都市は、21世紀初頭から考えられていたものです」
「21世紀っていうと……100年くらい前か。これ、そんな昔から計画されてたのか?」
「いえ、水上都市ではなくてですね……」
ちょっと困ったような顔をするかれん。
そこまで変な質問をした覚えもないのだけれど……この辺り、利便性に身を置いていた者と、そうでない者のギャップなのかもしれない。
「たとえば宇宙空間に都市を構えてそこで社会を営もう――などという思想は、100年以上も昔からSF小説や映画などでたびたび扱われていた、という意味です。もちろん計画もありましたよ。そういった過去の夢が、こうやって未来では現実として当たり前にあるのですから。なんだか感慨深いものがありますよね」
「なるほど……。かれんはなんでも知ってるな」
「そんなことはありません。ただ私はネットでブラウズした詳細を口にしているだけです」
夢も希望もないことを言われてしまった。
……しかし、過去の夢を未来が現実へ変える……か。
かれんの言うことを十全に理解できる翔兵ではないにしても、それがなんとなく大切で、凄いことなんだろうなーってことはわかった。
しかし、そんなロマンチックな考えが沁み込むほど、いまの翔兵は平時のものではない。見たことのない未来的空間、前衛的建造物に心を浮かせていた。出来ることなら色んなところを探検したい――そんな思いもやはり平時なら可能だっただろうが、いまは仕事で来ている手前、勝手は出来ない。
翔兵はおあずけされた犬のような目で再度辺りを見遣る。
幾何学的な球体。
すべてが透き通るクリアで開放的な海中の景観。
中央に大きくそびえ立つ、天井と床を繋ぐ大きなタワーのような円柱状の建造物。上を見れば地上外気と隣接したグランドエントランス、下を見れば何層にも連なるアトリウムが広々と展開されていて、さらにその下にはセントラルプラザ。この都市に住み、働いているのだろう人たちが往来を行き交っている。
いやもう、ホント探検したくて仕方ない。
絶対に飽きない自信がある。
ガイドマップを見たところ、このポートシティは晴れの日は海面に顔を出し、荒れた天候の際にはグランドエントランスを閉じて、なんと驚き海面に沈み込むらしい。つまり、“都市丸ごと海に隠れる”というのだ。
いまは天井にうっすらと揺れる漏れ日に蒼壁が見えるが、潜ってしまえばそれも見えなくなるのだろう。
「……ロマン溢れすぎだろ」
「なんだお前ら。ピクニックにでも来たつもりか? のどかなこったな」
翔兵の呟きに、いかつい声が反応した。
からかうような口ぶりの不動に、翔兵は険呑な視線を向ける。
「ここには初めて来たんだよ。……ちょっとくらい良いだろ」
「勘違いすんな、誰も悪いなんて言っちゃいねえ。……つーか、そう敵意丸出しにすんなよ」
「先に喧嘩を吹っ掛けてきたのはそっちだったと思うけど?」
「はっ、女みてぇなこと抜かしてんじゃねえよ。ちゃんとタマついてんのか?」
――この野郎ッ!
「翔兵さん。構ってはいけません」
「やめなよ不動さん。こんなところで喧嘩騒ぎでも起こしたいわけ?」
それぞれに助け舟が発せらた。翔兵はいまにも噛みつかんばかりに鋭く一瞥する。不動は舌打ちをし、「めんどくせえな」と悪態ついて引き下がった。
「あの……お取り込み中でしたかでしょうか?」
と、おずおずとした声に皆の視線が集中する。
そこに立っていたのは、精悍な顔つきの白衣を着た中年男性。羽織る白衣の内側には、ぴっちりとした肌に密着するウエットスーツのような次世代環境服――環境セルに身を包んでいる。
翔兵はその男を知っていた。
もちろんのこと、前もって情報を受けていたからだ。
見るだに知的な科学者風貌のこの男こそが、今回監査に入る海洋生物研究所の責任者――。
「なんでもありません」とかれんは向き直り「あなたがここの……」
「はい、入江運河です。監察官さんと監視官、それに請負いの方々ですね? 伺っております」
言って、入江は白衣のポケットを探り始める。
取り出したのは手の平より幾分小さいサイコロのようなものだ。
黒い角砂糖のようなそれは五つあり、折りたたまれた今や懐かしのコンセント部によく似たプラグが見える――それが何かわからず、首をひねる翔兵。
しかし、かれんと請負代行一行らは迷いなくそれを受け取り、各々の耳の裏にあるNLOアウトコネクトへと差し込んだ。翔兵は誰にも聞こえないような小声で、「かれん、それなに?」と囁く。
「このポートシティでのARロムです。都市システムと認証接続させオーグ・ナビゲーションや各種認証をパスするためのものですが……」
かれんは指向性を持たせた声で、翔兵の耳にだけ聞こえるように応えた。
基本的に富裕層民が見る拡現(AR)は、地域毎に設けられた都市システム内にあるデータだ。現実としてそこにあるわけではなく、コンピューター内に構築された疑似的なモデルの位置情報の上に表示されている。それをリンカーが、あたかも目の前にあるかのように見せているだけなのだが……まあ、語尾を濁すかれんが言わんとすることはわかった。
貧民層に属する翔兵は、NLOリンカーを埋め込んでいない。
「君は……失礼。あなたはいいんですか?」
「すいません。俺、リンカー入れてないんで……」
自分に視線が集まったような気がした。
こういうとき、本当にうんざりする。
最大多数にとって必要なモノの恩恵を受けていない……それを哀れに思われたり、見下されたりするのは馴れっこであるが……やはり慣れたいものでもない。
書き込みが終わると、それぞれが呟き始める。
「へえ! ここにも『黄色い屋根のケーキ屋さん』があるんだ! 後で行ってみよっかなー」
「存外広いんだねぇ……。ポートシティの仕組みはワタクシも知ってたけど、海底まで伸びてるとは思わなかったなぁ……興味深い」
「つか研究所ってこんな深いとこにあんのかよ。俺泳げねえんだけど……つか“沈んじまう”んだけど……おいっ、教授!」
と不動が入江を呼びつける。
「教授ではなく一応は博士なんですけどね……」
「呼び方なんざどうだっていいんだよ。へいミスタ、それよりだ。まさかこのパイプ、割れたりしねえだろうなあ?」
「大丈夫ですよ。ポートシティの各層を繋ぐアクアラインは強化アクリルと半透明メタマテリアル・リブで強度補強されていますから、大津波に大地震が重なっても破損の心配はありません」
「そっか! それ聞いたら安心だぜ!」
不動はよほど安堵したのか、入江の手を強引に引きぶんぶんと厚い握手を交わす。
ちゃんとした礼儀があるなら着けている黒皮のグローブを外すべきだろうけれど、この男に礼儀を求めるのは不毛というものだ。不動だけに。
やがて入江は皆を促すように片腕を上げる。
「それでは、車を発着フロアに用意してますので、どうぞこちらへ」
迷いなく歩き出す四人の後を翔兵は追った。




