Phase 3
午後に授業の予定はなく。
それは一ノ瀬も同じようで、二人は昼食をとってから大学の敷地を後にした。
青年の帰り道は、旧東京文京区の春日通り。台東区を経由して、墨田区へとほぼ東西に延びる道路だ。
この道路は昔から交通量も多く、端に置かれた数々の店舗が賑わう活気ある道だったが、光化学3Dプリンターの普及とともに、商店はここ数年で徐々に消えていった。
光化学3Dプリンターとは、光を含む電磁波に応答するマイクロ・ナノメートルスケールの共振器・アンテナ素子を大量に集積化したメタマテリアルを用いた最先端技術機器だ。
データさえあれば懐中時計のような微細なものから、電子基盤などの電子機器までデータ通りに構築可能とするそれは、世紀の大発明とされた。これは本来、宇宙開発に用いられた技術だったが――いまでは大手製造企業間で所有するのが当然とされている。
昔の東京ではよく渋滞を起こしたそうだが、2052年の今となってはそんなことは滅多にも起きない。都市機能とリンクしたフルオートナビゲーションシステムを搭載した全自動車が普及しきった現代において、交通渋滞とは過去の産物であり、過去の文化なのだ。
小奇麗に等間隔で過ぎ去っていく車を横に、二人は設置された自動歩道を進んでいた。
「……差別とか、区別とか言うけど、あれってナンセンスだと思わないですか? そういう言葉を作っちゃってる時点でもう駄目だと思うんですけど」
一ノ瀬は大学での出来事をまだ引きずっているらしい。
あれからというもの、話題は終始それだった。
「合理的な根拠もないのにですよ。このご時世になに言ってんだか! って感じです。あれどうせみんながそうだから私も――って感じですよ。自分の意思ってもんを持って無さ過ぎ、ステレオ過ぎます! あーもう、いらいらするなあ!」
不機嫌を全面に押し出す一ノ瀬。
喜びの感情もそうだったが、本当に裏表がないというか……青年が羨ましいと思うくらい素直な感情表現ができるタイプの人間らしい。
(……自分の意思……ね)
(けど、ここまでイラついている一ノ瀬を見るのは初めてだな……)
東京から電柱が完全に無くなってから数年。空は少しだけ広くなった。
代わりにビルが高くなって、空が遠くなった。技術進歩は世界を小さくした。
見上げると――自分が檻の中にいるような気がして、ちょっぴり怖くなった。
「……これは例えばの話だけどさ。一ノ瀬は『赤毛』って言われて、なにを思い浮かべる?」
ふえ?
と、一ノ瀬は間抜けな声を出し、意を得ないといった顔をする。
「赤毛って言われましても……、赤い毛……のことですか? あ、駄目だこれ。まんまですね」
「……差別用語なんだけどね。欧州や欧米社会では、いまだに赤毛に対する差別や偏見が残ってるんだ。赤毛の人間は皮膚のメラニン色素が少ないから、一般的な白人とかと比べて皮膚の色が薄くて顔色が青白い傾向にある。体質的に紫外線に過敏なんだね。光線過敏になりやすくて、顔面にそばかすやシミができやすかったりもする」
「ふうん。で、それがどうかしたのですか?」
どうやら一ノ瀬はあまり興味がないらしい。
しかし、青年は続ける。
「そういう要因が元となって、昔から赤毛は体質的に虚弱で、遺伝的に劣る人間だと偏見差別の意思気が大衆に根付いてる。紫外線に敏感な体質が『弱い』というイメージを作り上げたから、社会弱者に立てられたんだ」
「……それって、なんのためにですか? おかしいじゃないですか、だって。そんなの弱い者いじめじゃないですか!」
青年は頷く。
「子供のいじめもそうだけど、心の安心、安息、安堵のためだよ。例えの話を重ねるけど――もしテストで悪い点を取ったら、一ノ瀬はどう思うかな?」
「頑張って勉強します」
「うん。いいことだね。けど、そこで友達と点を見比べてさ。自分のほうが点数が良かったら、きっとこう思うんじゃないかな? 『ああ、自分より劣っている奴がいた。まだ自分は大丈夫だ』――ってさ」
「思いません。自分の点数が納得いかなかったら、私は努力をします。そこに人は関係ないですもん」
「……そうですか」
話が終わってしまった。
青年はバツ悪そうに頭を掻く。
「まあ、一ノ瀬は強い人間だからさ。それでいいと思う。けどね、人間ってのはみんながみんな強いわけじゃない。いや……総じて弱いって言ったほうが正確かな。自分が優位に立ちたいから――だから自分より下の立場を作りたい、他人と差を付けたい――って思うのは当然の心理だ。つまり、結局人間は差別の生き物なんだよ。誰だって心は弱い。弱者を蹴落とす事で自分の地位を上げるのは、とても簡単なことだからね。さらに、クソったれなことに、それは他人の心に伝染する」
「伝染?」
「そう。さっき一ノ瀬が言った集団心理ってやつ。迫害されないため――迫害する側に回るのは正当な防衛手段だし、人間は社会に生きていくうちに本能的にそれを学んでいる。だから、彼らは悪くない。それに彼らは僕を迫害したつもりでも、僕はなんとも思っていないんだから。だったらこれは問題でもなんでもないし、一ノ瀬が怒るような理由もないよね?」
その台詞に、一ノ瀬は黙り込んでしまった。
仕草からどうやらまだ納得がいかないらしい――けれど、青年としては自分なんかのために、 その感情を負に向けることなんてない、という気遣いもあった。
(……まあ、本当の主旨はそこじゃないんだけどね)
スッ、と。
自動歩道から通り過ぎていく景色に、違和感を感じた。
「あ、いまの……」
「どうかしました?」
青年は生返事で返し、手すりを乗り越えて自動歩道から降りた。
十メートルほど道を遡り、店と店との間の隙間。
その大人二人が並べそうな路地裏に、あってはならないものが落ちていた。
(……うわ)
透き通るような白い肌。
肘から先が千切れた肉の塊。
円錐状の掃除ロボットがゴミと認識したのか――それを吸い込もうと、ガンガンと体当たりをしている。
異物。
それは“人間の腕”だった。