Phase 2
青年は基本的に好き嫌いはなく、美食家でもないので大抵のものは選り好みをせずに食べられる。
ただし、それは食べ物という枠の中での話であって、食べ物じゃないものは普通に食べられない。結論から言って――この一ノ瀬綾奈が作る料理、という時点で、まともなサンドイッチはあり得なかった。そもそも青年は気が付くべきだったのだ。この一ノ瀬綾奈にまともな料理センスが備わっていないことに。
「てへへ。レンコンにジャムを詰めて、油で揚げてみたんですよ。きっとおいしいだろなあって。あ、マヨネーズもちゃんとありますよ。……む? なんですか、その目は。もしかして■■■くんって、漬物には醤油派ですか?」
「…………」
大学工学部中央エントランスから出てると見える、芝生が敷かれた校内庭園。右手側には、大きな木が植えられており、その木元にはベンチがあった。傍から見れば、青年と一ノ瀬はそこに座って仲睦ましくランチを楽しんでいる――ように見える。
しかし、青年の額には玉の汗が浮かんでいた。
青年は少し考えてみる。
一ノ瀬の太ももの上に広げられた、可愛らしいお弁当包み。その中から出てきた形容しがたい異物――
(……これはいったいなんなのだろう……?)
(そういえば、一ノ瀬はサンドイッチとか言っていたような気がするけれど……)
ラップに包まれた球体。
その白い表面には血のような赤が滲み、要所からはみ出る黄色い固形物――これは言ったようにレンコンなのだろうか……。それにジャムを織り交ぜるとは、やはり彼女のセンスには光るものがある。
ちなみに、漬物なんてものはなかった。
何を思ってそのワードを使ったのか――何を差してそのワードを使っているのか、頑張って考えたけれど青年には理解出来なかった。世界広しといえど、この常軌を逸したセンスを差し計れる人間は、きっといないに違いない。
一ノ瀬はおもむろに小皿を手に持つ。
いま、醤油がそそがれた。
マヨネーズが惜しげもなく投下され、かきまぜられ、茶色い液状物質と化した。
「さっ。どうぞ召しあがれ」
……いや、これどう見ても食べ物じゃないよね?
と、思わず言いかける。
しかし、そんな無防備に近い、相手に拒否されることを全く考えていないような笑顔を向けられると、青年も毒気を抜かれて言えなかった。
「どうかしました?」
「……ううん、なんでもない。いただきます」
若干、台詞が棒読みになってしまったのは、仕方のないことだろう。
恐る恐る手に取り、ラップを解く。
むっと湧くような苺の香り。
赤い汁が零れ落ちた。じゅくじゅくしたパン生地からも、それは溢れている。
(うわぁ……たしか、サンドイッチってこんな形じゃなかったよな……)
(……なんで僕はこんな罰ゲームを受けているんだろう……?)
意を決して口に入れる。
瞬間、戦慄が走った。
すごい味だった。全身の毛が粟立ち、食道が異物を押し返そうと、うねるのがわかった。
「どうですか? お口に合うといいのですれど……」
「……うん、まあまあかな」
料理の腕が認められて嬉しいのか、照れたようにうつむく一ノ瀬。
デフォルトでそのくらいのテンションは保っている彼女だが、どこかしおらしい感じがした。
もちろん、そんな顔をされては青年も本音は言えない。
けれど、悪い気にもならなかった。
「んふふ。もしかして■■■くんって、レンコン好きですか?」
「好き嫌いは、ないかな」
「えー、すごい! じゃあナスビも食べられます?」
玉の汗を額に浮かべ、青年は頷く。
「うわー……よくあんなゴキブリの内臓みたいなの食べられますね」
一ノ瀬は両手を広げて、ぐーっとベンチの背もたれに寄りかかり、
「私には無理だー! ですよ」
と、空に匙をぶん投げるように言った。
青年は視線を手に持つパンのようなモノへと移す。
目下にある、白い生地から赤いジェルがはみ出た、それ。
「…………」
まがいなりにも一応は食事中なので、そういう直接的な表現は控えて欲しい、と思った。
けれどその思いは彼女に届くこと叶わず、
「よいっしょ、っと」
体勢を戻した一ノ瀬は、カバンの中からお弁当袋を取り出した。
出て来たのはコンビニの弁当……どうやら自分用らしい。
開かれるその中身はパスタだった。青年は手に持っている奇妙な物体を投げ捨ててやりたい衝動に駆られた。
「ん? どうかしましたか? ああ、これですか。いや実はですね、今日の朝は時間がなくて、自分の分を作れなかったのですよ。でもでも、■■■くんは気にしないでください。遠慮せずに食べちゃってください」
照れ顔で言いながら、一ノ瀬はくるくるとパスタを巻き始めた。
しかし、それを上手く巻くことができないのか、思考錯誤している。
「うん。なんだかとても悪い気がするかな……なんだったら、僕がそっちのパスタを……」
「ん? パスタがどうかしました?」
「……いや、なんでもない。なんでもないさ」
やがて諦めたか、一ノ瀬は箸を取り出した。
抜群に諦めのいい性格らしい。
「変なの。まあ、変じゃなかったら■■■くんじゃないですしね」
遠まわしに失礼なことを言われた。だが、悪気があって言っているわけではないことは、青年も短くない付き合いでよく知っている。それに、青年も青年で――自分が普通ではないことは自覚していた。もちろん、それは自分が優れているという意味ではなく、人間としての欠陥がある、という意味でだ。
例えば――いま青年が見えている世界。
一ノ瀬綾奈という存在をあえては表記しないが、青年は数字を色相や感覚と結びつけ、理解する共感覚能力を生まれ持っていた。
その異常性を自覚したのは、児童養護施設に入ってからで――青年は1から100,000までの数字に各々の形態・色・手触り・感情などの意味を与え、計算の結果導出された数字たちを、直感的に共感覚的な景色であると“みなし”たり、“読み取っている”。
それは病気だった。
自閉症スペクトラムに分類される――サヴァン症候群。
知的障害や発達障害などのある者のうち、ごく特定の分野に限って、優れた能力を発揮する者の症状を指す。これの原因は諸説があり、2052年現在の大日本帝国の医学力を持ってしても、その特定には至っていない。
サヴァンと言えば――例えば、過去四万年から未来四万年までの曜日を記憶している異常なまでの記憶能力だったり――例えば、他人の年齢を聞き、瞬時にそれを分単位で計算し直して答えるなど、異常なまでの計算能力を持っていたりするが、皆一様に人間として致命的な欠陥を、その身に抱えている。
天は二物を与えず、と言ったところか。
神なんて奴がいるとは思えないけれど、それにしたって望んでもいない才能に代償を与えられては、理不尽もここに極まるというのもだろう。もちろん、異常な認識能力を生まれ持った青年も、その例外ではない。
「うっわ、“ゾンビ”だ」
と。
エントランスから出てきた生徒たちが、ベンチに座る青年を見るなり、言い放った。
「最悪だよ。昼間っから変なもん見ちまった」
「つーかあれ、なんでいっつも無表情なの? マジ気持ちわりーんだけど」
「一ノ瀬も変わりもんだよな。あんなとの一緒にいるとか、俺なら一秒だって無理だね」
三人の生徒は、薄ら笑いを浮かべながら去って行く。
青年はその後ろ姿を一瞥するようなこともしない――無関心、我関せずとか、そんな風に。
正直。
迫害を受けることに馴れきってしまっている青年は、いまさらなにを言われようとも、なんとも思わない。生まれた瞬間に“親から始まったそれ”は、彼にとっての日常だったからだ。
しかし、一緒にランチをしていた一ノ瀬は唇を尖らせる。
「……なんなのあいつら。■■■くんのこと、なんにも知らないくせに」
このキャンパスの中で、教師を含めて青年に自ら進んで声を掛けてくる人間など、一ノ瀬くらいのものだった。
そういう意味では、彼女も相当な変わり者なのだろう。
「気にしないでいいよ一ノ瀬。僕は馴れてるから」
「そういう問題じゃないです」
「まあ、そうだね」
青年は頷き、言った。
「問題ですらない、些細なことだ」