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「――雫? 聞いてる? どしたの、ぼーっとしちゃって」
その呼びかけに、蒼井雫はビクッと反応する。
顔を上げると、友人が覗き込むように見ていた。
「……ご、ごめん。ちょっと考え事してて……」
「訊いてよ、しーちゃん。ミカってばあたしの言うこと全然信じてくんないの」
「あのねぇ……それはあんたの話がソースまみれだからでしょ。ウスターソース? トンカツソース? でも残念。私、サラダはフレンチって決めてるから」
友人らの他愛もない会話に、雫は苦笑いを浮かべた。
軍立夢見ヶ丘高校――放課後の教室内。
放課後だというのに友人たちは帰ろうともせず、雫の席を囲んで談笑と洒落込んでいる。窓の外をぼんやりと見ると、陽も落ちかけてグラウンドが茜色に染まり始めていた。もう帰りたくてしょうがない。
冗談交じりに楽し気に話す二人とは違い、雫の表情はどこか薄暗い。
「それでさ。その店のパフェが超美味いんだって。甘党の私としちゃー見逃せないってわけよ」
「えー、でも私、今月ピンチだからなー。見てよ、これ」
そう言って、友人は指を宙に振ってみせた。
すると雫の視界の片隅に、メール受信を知らせるアイコンが現れる。
友人の内部端末(リンカ―)から送られて来たのだろう――人間の周辺機器としては欠かせない携帯端末は、その姿をより小さいものに変え、この22世紀では埋め込み型として、歯、頭蓋骨など人間の体内に存在する――雫は視界ホログラフ・モニタに映るアイコンを見、そっと指でタップする。
受信BOXからメールを開くと、銀行口座情報が表示された。
名義は友人のものだった。
「うわ……、この残高やばくない? 二千円って……」
ミカは指を宙に泳がせながら、露骨に引いてみせた。
視界ホロは本人にしか見えない。
だから、それを操作する姿は他者から見ると――まるで駅の路線図を指差し確認しているような仕草に見える。子供の頃はそれが滑稽で、親が宙に指をなぞらせている姿を見、『何をやっているんだろう?』と、面白可笑しくも首を傾げたものだ。
「だから言ったじゃん。もうマジで今月辛いんだよねぇ……パパ怒らせたら、おこずかい減らされちゃってさぁ……。ほんっと最悪だよぅ……しにたい」
「それ、自業自得だから。貧乏学生ってやだねぇ――てゆっかさ、その点、雫はいいよねー。国からお金貰えるわけだしー。ね?」
友人たちの口元がいやらしく吊り上がった。
細まった二対の視線に、雫は内心どきりとしつつ、
「……それは、そうだけど……。でも、貰ってるのは生活費とかだから。私もそんなには使えないし……」
と、俯いた視線はそのままにたどたどしく応えた。
不快感が手に汗を滲ませる。
次の台詞はきっとこう――
「しーちゃん、お願い! 今日オゴって! マジピンチなんだよぅ、頼むよぅ」
「ついでに私もね」
……だろうと思った。
どうせ最初からそのつもりだったくせに……。だったら、わざわざ遠まわしに話を誘導するような真似なんかしないで、単刀直入に言えばいいのに。嫌な思いをする時間を、一秒だって縮められたはずなのに。
「……えっと、ごめん」
雫は言った。
「私、行かなきゃいけないところあるから、今日は難しい……かな」
ごめんね。
本当にごめん――と、思ってもいない言葉を並べて、雫は席を立つ。
熱を帯びていた友人らの顔が急に冷たいものへと変化する。それはまるで雫がタブーに触れてしまったかのように、さっきまで和気藹々と騒いでいたのが嘘のようだった。
そんな友人二人を尻目に、雫は逃げるように教室を出た。
後ろ手に閉める扉の向こうで、
――なにあれ。ウザくない?
――友達やってあげてんのにねー。もういいよアレ。切っちゃう?
――それあり。きゃはは。
と。
そんな声が聞こえた。
「…………」
胸の奥がじくっと痛み、心の壁がまた一枚厚くなった気がした。
雫は唇を噛んで帰路に着いた。
……けれど、まあ。
どうせこんなもんだろう、とは思っていた。
期待なんて端っからしてはいないし、望んでいるわけでも決してない。
それは怒りと言えるほど大そうな感情じゃなくて――だけど、悔しさとも少し違う。自分の弱さを突きつけられて足掻こうともしない、他でもない自分に対する軽蔑――自虐めいた曖昧な嫌悪感。
不思議なものだった。
大した意味もなく、価値もなく、繰り返される嘲笑と侮辱の言葉に、自分は嘲笑いつつも見下しつつも、それでも心には深々と傷を残している。それはゆっくりと長い時間かけて通り過ぎて――積み重なって後に鈍い痛みを放つ。
笑える。
人間の心のない言葉が、自分の心にここまで大きな影響を与えているというのだから。
ぼんやりと、思う。
いつからだろう?
こんな振る舞いが自分の生きる規準――処世術となって、周りに合わせようとおたおたと馬鹿らしくも適応を求めて、居場所なんてないのに、どこにだってないのに、限られた選択肢から選ぶように馴染めないから馴染む振りを、友達って言われたから友達の振りを、望んでもいなことでも望んでいるかのように――そんな風に、自分の振舞い方を決めるようになったのは……。
「……生きにくいな、本当に……」
本当の自分と嘘の自分。
揺れて歪んで小さくなっていく心は、もう見えなくなりそうだった。
矮小な枠。
孤独。
自分。
……わからない。
本当にいつからなんだろう?
こんなくだらないことが、自分にとっての当たり前になったのは……。




