His name?
橙色の空が刻一刻と闇に呑まれていき、それと共に羊雲がある上空とアスファルトで固められた地上では大小様々な光が輝きだしていた。人々は自らが帰る場所へと急ぎ、まだどこかで学生が部活動を練習しているのか声が聞こえる。
「…………な、なんで……ッ!?」
すぐ隣を通り過ぎていく車両のヘッドライトに照らされながらそれとは逆方向に走り去っていく少女は後ろを見ながら驚愕と疑問の言葉を発した。
少女の背後にはまだ誰も現れてはいない。それでも少女には自分を追ってくる者の姿が見えていた。
呼吸は乱れ、足取りも揺らぎ始めた。何より体の問題より少女の精神面が限界に近くなってきている。
何故、自分がよりにもよって…………。
その日も少女にとっては平穏で平凡で平坦な日だった。
幸福だった事と言えば、星座の占いで一位だった事や学校までの道のりがすべて青信号だった事。
不幸だった事と言っても、嫌いな数学の授業があったことや購買で好きなパンが売り切れてしまっていた位。
いつも通りに学校に通い、いつも通りに授業を受け、いつも通りにクラスメイトと喋り、いつも通りに昼食を食べ、いつも通り所属しているイラスト部へと足を運び、いつも通り5時くらいの時間帯で家へと帰る。
そんないつも通りの毎日を過ごしていた彼女が異常な事に巻き込まれたのは、偶然、という言葉を使用するしかない程だった。
帰り道の途中、なんとなく炭酸飲料を飲みたくなり、別に今月はお金も余っていた為にコンビニに寄ろうとしていつも人通りが少ない近道を歩いている最中。なんとなく声が聞こえた気がしてその方向に言ってみると、そこでは犯罪が行われていて少女の姿は犯人の眼に映ってしまった。
そんな偶然的な出来事に巻き込まれ、少女は今その現場から逃げている最中というわけだ。
「…………な、なんで……ッ!?」
よりにもよって少女が見た犯行とは殺人。
そう言えばこの近くで連続通り魔だか何だかが発生しているという噂を少女も聞いたことがあった。
それでも少女にとってはそんなのがすぐ身近にいる現実というものが信じられず、きっと自分には関係の無いことだという心構えでいた結果、巻き込まれてしまったのである。
後ろを振り返る。先程見た犯人の姿はまだ無い。
案外、自分の事は追ってきていないのかもしれない。
そんな楽観的に考えようともするが、少女の心の奥底が逃げろと喚き散らしている限りそれを信じることは無理であろう。
とにかく逃げる。逃げて、逃げて、逃げ切ってから色々と考える。
体はその指示に従い、当てもなく走り続ける。
日の光が完全に闇に呑まれ月が高く上がり始めた頃、走り続けた少女は自身ですら分からない場所に来てしまい道に迷っていた。
完全に犯人がもうすでに追ってきていない自信はあったが、それでも自分が家に帰れなければ意味がない。
肉体的にも精神的にも疲労しきった少女は現状に落胆し、地面へとへたり込んでしまう。
「何なの……アレ…………今日は占い一位だったのに」
まったく、頼りにならない占いだ。
そんな事を少女は思いながら息を整え、空を見上げる。
一昨日が満月だった為、すでに月は少しずつ欠け始めているはずだが、少女の目からしたら十分満月と言うにふさわしい月だった。
特に何か意味をもって見上げるわけでもなく、ぼんやりと月を見ているとどこからか足音が近付いてきた。
きっとここの周辺に住んでいる人が誰かしら帰ってきたのだろう。ならばその人にここはどこなのかを訊いて、さらにはもしかしたら帰り道まで教えてくれるかもしれない。
そう考えて少女は視線を足音の方向へと向ける。
近付いてきた人物は、スーツを着たサラリーマンでもOLでもなく。
「…………ッ!?」
先程の、殺人犯だった。
すぐさま少女は逃げ出そうとするが驚愕のあまりに腰が抜けてしまい上手く立ち上がれない。
殺人犯の顔はよく見えないが、その右手には月明かりを反射する金属があった。
簡単に言えば、相手は血に塗れたナイフを持って近付いてきている。
「いや……ッ!!」
迫りくる死に心を追いやられ、少女は四つん這いの状態で逃げ出し始めた。
もはや自身の身形や形相などを気にしている場合では無い。気にしていたら死んでしまう。
必死になって逃げる少女に対し、殺人犯は無言で歩み寄るだけ。
少女に味方するように月は羊雲によって隠されるも、それで現状が一気に逆転するわけもなくその暗さで少女の心を余計に圧迫していっていた。
「やだ……死にたくない…………ッ!」
そんな少女の嘆きは誰に伝わる事も無く、とうとう殺人犯に踏み潰されるようにして動きを止められてしまう。
必死にもがく四肢を抑える事なく、俯せの状態の少女に跨り、首元を片腕で押さえて狙いを定める。
「やだッ! まだ死にたくない!」
もう一度だけ少女は必死に自身の感情を吐露するも、殺人犯にとってはそれは関係の無いことであって、無視するかのように逆手に持ったナイフを垂直に少女の首へと――――。
「バーン」
「ッ!?」
「…………ッ?」
――――振り下ろされる前に、何者かの声がすぐ間近でした。
動きを止めて周囲に目を凝らすと、すぐにその声の主の姿は見つかった。
「なあなあ、お嬢さん。アンタまだ生きたいそうで?」
声の主は殺人犯などには目もくれず、押し倒され跨がれている状態の少女へと話し掛ける。
少女はすぐさま返答できるはずもなく、現状を理解するだけで精一杯だった。
「何なら俺が助けてやってもいいぜ。その代り、対価を差し出してもらうけど」
「対価…………?」
「なぁに。別に悪魔と契約するわけでも無いんだ。ただアンタは、アンタの全てを俺に差し出せばいい。そうすれば俺はアンタを自身の所有物として助けてやる」
「何言って……?」
「口答えしてる暇はあるのか? そこで同じく驚いて動きを止めてる通り魔さんだっていずれは君を殺すんだろうし、俺も殺しに掛かるだろう。まぁ、俺はその程度はどうってことはないんだけど……お嬢さんは違うだろ?」
少女が理解できないうちに話は淡々と進んでいってしまう。
確かに、少女はこのままだとどうせ死んでしまう。
そして声の主はこの状況を自分なら打破できるという。
だが声の主は助けてやる代わりに自身の全てを差し出せと言う。
それは簡単に言ってしまえば、俺の奴隷になれ、と言われているようなものである。
このまま死ぬか、生きて奴隷になるか。
いきなり少女の人生の無数にあったはずの選択肢は二択へと縮まり、そしてそのどちら共にまともな未来が待っているとは思えない状況へとなってしまった。
「さてお嬢さん。生きる か 死ぬか。Your answer?」
「…………何でもいいから、とにかく助けて!」
悩んでも仕方が無い。悩んだ所で終わるだけ。
なら奴隷であれ何であれ、生きる未来を選択したい。
それが少女の答だった。
「OK、了解した。アンタは今から俺の物だ」
話の流れは少女にも殺人犯にも理解はできない。理解できているのは声の主だけ。
そして殺人犯としては抵抗が割と少ない少女を殺すよりも先に、阻害して来ようとする敵を排除すべきとでも考えたのか押さえ付けるのを止めて立ち上がり、声の主の方へと向かう。
「いいねぇ……正しく効率的で尚且つ合理的な判断だ。嫌いじゃない」
少女は少し体を起き上がらせて声の主……自分を助けてくれるはずの者を見る。
そこに居たのは奇妙な容姿の人間だった。
雲の隙間から出始めた月明かりを反射する銀色の髪。その髪の色とは対照的な暗い黒の瞳。
あまりにも目につく容姿をした少年。それが声の主。これからの少女の所有者。
「まぁ、でも最善の行動をしたところで善良な結果が帰ってくるとは限らないけどな」
殺人犯はそのまま逆手に持っていたナイフを振り上げ、少年へと突き刺そうとする。
少年は振り下ろそうとする腕を弾き、どこからか出した携帯型のスタンガンを殺人犯の首に当て電流を流す。
体が硬直したかのように一瞬跳ね上がり、その後、地面へと跪く殺人犯。
手に持っていたナイフを没収し、保険の為か、両肩を容赦なく外してその場へと放置する。
スタンガンを仕舞い、携帯を取り出すと少年はさっそくどこかへと連絡を付け始める。
「え、えーと…………」
まるで恐れていた自分がバカに思えてしまうくらいにあっさりと殺人犯を倒してしまった少年に対してどう話し掛けるべきかを悩んでいる少女の様子に気付き、少年はある事を促す。
「名前は?」
「えっ?」
「お前の名前。言わなきゃ雌犬ってこれから呼ぶぞ」
これから、という言葉を発している辺り、少年は本気でこれから先、少女を自分の物として扱うつもりなのだろう。
そんな事には気付かず、少女は促されるまま自身の名前を言う。
「沈村。沈村四葉」
「随分とおかしな名前だな。現代の風潮がよく活かされてる」
「……貴方は何て言うの?」
少年の口調がやけに苛立ったのもあるが、それよりも単純に自分を助けてくれた少年の名前が知りたくて四葉は問うてみた。
少年はどこかへの連絡はついたのか、携帯を仕舞い、四葉に向き直って答える。
「濁川空。それが今日からのお前のご主人様の名前だ。よく覚えておけ」
まあ思いつきで書き始めて思いつきで消し去るいつものパターンの小説ですよね、これ。