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水面の月を抱く国  作者: 橘 塔子
第二章 鳥籠は開かない
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学友

 裏庭はそれほど広くはないが、北の端が石積みの高い壁になっていた。人の背の三倍はあろうかというその高い壁は、学舎の敷地を越えて王宮まで続いている。

 壁の一部に、積まれた石をそのまま利用した階段があり、かなり急角度のそれをナタレは楽々と昇っていった。


 壁の向こうには、アルサイ湖が広がっていた。

 王宮側の湖畔は、自然の波打ち際ではなく人工的に整備された石積みの堤防だった。同じ大きさに切り取られた岩を、実に精緻な工法で組み上げ固めている。この岩は北方の山岳地帯から切り出し運んだものだという。

 堤防の続き、王宮を越えた先には二箇所の水門があるはずだ。市中に張り巡らさせた水路の始点だった。オドナスが大国になり都に人口が増えることを見越して、現王が五年前に築いた水門である。水門は国王が選任した番人が守り、王都に効率的に水を供給している。


 ぬるい風がナタレの黒髪を掻き乱した。


 ここが砂漠の真ん中であることを忘れさせる光景である。

 遥か彼方まで続く広大な湖面は、空の色を映してその色よりも深い瑠璃色に澄んでいる。午後の陽光を受けて小波がきらきらと輝き、漁をしている小舟が数隻、かなり遠くに影絵のように見えた。


 湖のほぼ中央に小さな島がある。緑がこんもりと茂った中に見え隠れする白い建物が、アルハ中央神殿だった。

 月神アルハを祀る神殿は砂漠に多数あるが、それらを統括する最高神殿があれだ。オドナス国内の信仰の要だという。ロタセイの民であるナタレにはあまりピンとこないのだが。


 湖畔はごく濃い緑色に覆われている。宮殿の庭を彩るのと同じ、熱帯の植物が多かった。緑の葉の中に目に染み付くように鮮やかな色彩の花も見える。

 湖の縁に沿って視線を流してゆくと、緑が薄く背が低くなっているところがあった。農地として作物を栽培している地帯なのだろう。


 ナタレはよく一人でここへ来る。他の生徒たちが市中で遊んでいる間、ここでひたすら湖を眺めている。草原と砂漠しか知らないナタレが、都に来て初めて目にした水辺の風景であった。

 今日も夕方からは王宮へ出仕しなければならないが、それまでの間、ここで何も考えずに水の匂いを楽しんでいるつもりだった。


 ナタレは堤防の上に腰掛けると、服をめくって左肩を見た。少し赤くなっている。押すと鈍い痛みが走るが、腕は普通に動くので心配はないだろう。

 確かめるように腕を回していると、下の方から無粋な足音が聞こえてきた。


「うわ、何やこれこの階段! めっちゃ急やん」


 騒ぎながら石壁を昇ってきたのはまたもやフツである。

 一人の時間と場所を邪魔されて、ナタレは不機嫌になった。


「何だよおまえはもう! こっち来んな!」

「へえ、ここ初めて来たわ。水が近うて気持ちええなあ」


 フツはそう言いながら、腰に結んだ麻袋を下ろした。ナタレの不機嫌などどこ吹く風である。


「ほらやっぱり痣になっとるやんか、肩。これ塗っとき!」

 

 袋から出した小さな瓶をぐいと差し出す。蓋を閉めているのに、濃厚な薬草の匂いが漂った。


「うちに伝わる秘伝の塗り薬や。打ち身切り傷、何にでも効くで。俺も塗ってきた」

「そんなもん塗るか。いいからほっといてくれ」


 ナタレは困惑して顔を背けた。


 この図々しく賑やかな学友が、ナタレは苦手だった。

 学業は今ひとつだが腕っぷしは強く、いつも学生たちの中心にいる。優秀だが他の皆と距離を置いているナタレとは対極にいる存在だった。

 いつぞや王宮の中庭で掴み合いの喧嘩になりかけたこともあったが、それはフツが相手に対する悪口を決して陰では言わず、相手の目の前で言うからだ。

 フツのそういうところが実はナタレは嫌いではない。嫌いではないが、苦手だった。


「おまえなあ、何でそんないつもツンケンしとんの?」


 フツは両手を組んで、勝手にナタレの隣に座った。


「自分以外、みんなアホやと思とるクチやろ。あかんでえ、そういうんは」

「うるさい、関係ないだろ。何しに来たんだよ」

「この前のこと謝ろ思て――おまえが王宮に取り立てられたこと、悪う言うてすまんかった!」


 彼はいきなり勢いよく頭を下げて、ナタレはまたもやびっくりした。本当にこいつは苦手だ。


「え、ええ?」

「今日おまえに負けてよう分かったわ。おまえが抜擢されたんは優秀やからや。小ずるい手ぇで王に取り入ったわけとちゃう」


 フツは顔を上げて照れ臭そうに顎を掻いた。


「いやほんまは前から分かってたんや。でもだから悔しくておまえのことやっかんどった。俺は器のちっちゃい男や。許してくれ!」

「いや、あの……」


 ナタレは何と答えればよいのか分からなかった。あまりにも率直な物言いに毒気を抜かれた感じだ。


「……別に怒ってないからいいよ。フツはいつも俺のいるところで悪口言うから、その時は腹が立つけど後には残らないよ」

「ほんまか!?」


 フツの顔がパッと輝いた。


「悪口は本人の目の前で言えいうんがうちの家訓やねん。陰でヒソヒソ陰謀を企てるんはヒンディーナの性に合わへん」

「それでよくオドナスと戦争できたなあ」


 ナタレは思わず吹き出した。ヒンディーナとは砂漠の北方にあるフツの祖国である。


「せやから俺がここにいてん」

「確かに」


 妙に堂々としたフツの口調に、ナタレは続けて笑った。つられるように、フツの顔も緩んだ。


「何やナタレ、おまえ笑たら可愛いやん。いっつも怖い顔ばっかしとるけど、笑た顔の方が絶対ええて」

「うううるさい」


 ナタレはわずかに頬を赤らめてそっぽを向いた。少し前に楽師からも言われた言葉だ。嫌な気分ではなかった。こうして同年代の相手と話をしたのは何ヶ月ぶりだろうか。

 フツはにやにやして、麻袋から陶器の瓶を取り出した。蝋と紙でできた蓋を外しながら、


「こないだ街に出た時に仕入れて来たんや。やるか?」

「これ……酒か? 学舎への持ち込みは禁止だろ?」

「固いこと言うなや。田舎では飲めへん珍しい酒がごろごろしてんねんで。せっかく都に来てんのに勿体ないやんか」


 彼は瓶に直接口をつけて、中味をあおった。


「うっ、きっつー」

「当たり前だ。それ、砂糖黍の蒸留酒だろ。普通は水で割って飲むんだよ」

「そうなん? よう知ってんな」


 ナタレは溜息をついた。

 成人するまで飲酒を禁ずるロタセイの戒律を守って、彼自身はまったく酒を口にしないものの、王の侍従見習いを務めるようになってから知識だけは身に着いた。


「ほんまに飲まんか?」

「遠慮しとく。夕方から出仕なんだ」


 残念そうに、フツは再び瓶を口に持っていった。さっきのように勢いよく流し込んだりはしないが、やはり生のまま飲んでいる。


「しっかしナタレはいつも落ち着いとるよなあ。やっぱり王太子はちゃうわ。一つ年下とは思えへんし」


 彼は堤防に沿って垂らした両足をぶらぶらさせながら言った。妬みではなく純粋な羨望の響きの混じった声だった。


「俺なんか王族いうても端っこの方や。王位継承権でいうたら十四位やで」


 そんなんでよくオドナスが留学許可したな、と言いかけて、さすがにナタレはやめた。あまり人質としての価値がないのではないか。ロタセイに課された和睦の条件はあくまでも王太子を差し出すことだったのに。

 おそらく人質の重要度はその国に対するオドナスの信用に反比例しているのだろう。フツの国ヒンディーナは造反の危険がほとんどなく、対してロタセイは、とても危険だと判断されている。

 沈黙してしまったナタレを気遣うように、フツはその顔を覗き込んだ。ナタレは我に返って軽く首を振り、


「王太子に選ばれたのはたまたまだよ。俺も兄弟は多いし……でも責任は感じてる。オドナス支配の中で国をどう守るか、考えなくちゃならない」

「へーえ、偉いんやなあ」


 フツはまた一口飲んで小さくゲップをした。


「ヒンディーナはな、鉄鉱石の鉱山がちょこっとあって製鉄技術を持ってるくらいの小国やん? せやからオドナスみたいなでかい国の傘下に入ってむしろよかったと思てる。鉄製品がばんばん売れるようになったしな」

「……悔しくないのか?」

「まあちょっとは」


 ナタレの生真面目な表情を、フツは人懐っこい笑みで迎えた。


「責任取らされて首刎ねられた王族もおるしな。でも実際に民の生活は豊かになったし、オドナスはそうキリキリ締めつける国とちゃうやろ。名捨てて実取れや」

「そういう考え方もあるか……」

「俺の位置は国に帰ってもたいしたことないけど、この機会に王都でなるべくたくさんの留学生と仲良うなって、将来うちの鉄製品を買うてもらうんや。ロタセイにもやで」


 ナタレは立てた膝の上に顎を乗せて苦笑した。自分とはまったく違う捉え方ながら、能天気に見えるこの少年も必死に努力している、そのことが分かったからだ。

 他の皆もそうなのかもしれない。国を出て都にやって来て、不安と迷いの中で、国のために何ができるのか一生懸命答えを探しているのかも。

 フツは大きく息を吐いてごろりと堤防に寝転んだ。


「ああっ、でもそうやった! 東のスンルー帝国で新しい鉱山が見つかったんやった! めちゃデカいんが! そんなん輸入されたらヒンディーナ負けてまうわ」


 彼の手から酒瓶が転げ落ちそうになって、ナタレは慌てて受け取った。半分ほどになった中味が零れぬよう蓋を閉め直して、


「スンルーの鉱山の石と鉄製品なら、もう見本が国王の元に届いてたよ。こないだ見た」

「やっぱり取引するんや」

「いや……国王曰く、石の質が今ひとつで精錬技術もまだまだだって。だからヒンディーナは焦らなくていいと思う。これまで通り製鉄と加工の職人の腕を磨かせるように、国に知らせてやれば?」


 途端にフツが飛び起きて、いきなりナタレに抱きついた。


「ナタレ! おまえええ奴やなー! 恩に着るで」

「離れろっ、臭い!」


 アルコールと肩に塗った薬の匂いに辟易しながら、ナタレはフツの体を押しのけた。


「もう俺行くから。着替えて出仕だ。おまえは酔いが醒めるまでそこにいろ」


 服の土を払いながら立ち上がる。さりげなく、フツの持って来た塗り薬の小瓶を手に取った。


「これ……いちおう塗ってみる。ありがと」

「……おまえと友達になりたいと思てる奴、俺の他にもぎょうさんおるんやで。今度話しかけられたら、無視せんと笑てみ」


 酔っているのかどうなのか、優しげな眼差しを向けるフツにナタレは口元を歪めた。笑みが浮かびそうになるのを我慢している。


「おせっかいありがとう。俺もひとつ」

「何や?」

「おまえ訛ってるぞ。外交がしたいのなら公の場では直した方がいい」

「うそん!?」


 本気で衝撃を受けるフツに笑いかけて、ナタレは堤防の階段を駆け下りて行った。

 自分でも不思議なほど、気持ちも体も軽くなっていた。





 いつも通り正装に着替えて王宮に出仕すると、ナタレはさっそく執務室に向かった。


 国王侍従とはいえまだ見習い身分の彼の仕事は、主に雑用である。

 夕刻のこの時間には王の執務はほぼ終わっているので、仕上がった書類を分類して担当の官吏に渡し、使い終わった文具の手入れと補充をしてから部屋を片付ける。余裕があれば、翌日の王の予定についての連絡会に出席することもあった。

 正式に侍従に任ぜられれば、実際に予定を管理したり大臣や官吏からの取次ぎを受けたり謁見の順番を調整したり、より重要な仕事が任されるようになるのだろうが、果たしてそれまで自分がここにいてよいものかどうか、ナタレにとって悩ましいところではあった。


 今日は珍しくまだ執務が終了していないようだった。

 先日から騒ぎになっていた密輸事件の証拠が挙がったことで、急遽、御前会議が開かれることになったらしい。税務担当大臣と交易品の捜査官が執務室に集まってきている。


 慌しげな先輩侍従を手伝ってナタレが椅子や机を動かしていると、セファイドが手招きをして彼を呼び寄せた。


「……ひとつ用を頼む」


 さすがに疲労の滲む声だった。会議の始まるまでのわずかな時間、椅子から立ち上がって体を伸ばしている。


「アノルトを呼んできてくれ。会議に出席するようにと。王宮のどこかにいるはずだ」

「かしこまりました」


 ナタレは短く答えて一礼した。

 セファイドは穏やかに笑って、


「剣術の模擬試合でまた優勝したそうだな。学舎の教官から報告が上がってきた」

「は……はい」

「よくやった。これからも励めよ」


 と、ナタレの背中を軽く叩いて椅子に戻った。


 ナタレは反応できずに体を強張らせていたが、すぐに大きく頭を下げて、それから急いで部屋を出た。

 何だか物凄く複雑な気分になっていた。

 自分が留学生の中で優秀さを示せば、それはそのままロタセイへの評価に繋がると思っていた。だが今、国王に誉められて、まず感じたのは個人的な誇らしさだった。

 自分が努力して得た評価に対して、単純に嬉しい――そんな心の動きに、彼自身が戸惑っていた。

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