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水面の月を抱く国  作者: 橘 塔子
第二章 鳥籠は開かない
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新しい仕事

 国王に呼ばれたサリエルが執務室に向かっていると、入れ替わりに出てゆくアノルトと廊下で顔を合わせた。

 立ち止まって頭を下げるサリエルに、数人の側近を連れたアノルトは気さくに挨拶をした。


「やあ、楽師殿、父上の所へか?」

「はい、書簡の翻訳を承りました」

「なるほどなあ、あなたのような方がいて父上も重宝しているだろう」


 王子は父親によく似た快活な笑みを浮かべた。


 サリエルがオドナス王宮に仕え始めて約一ヶ月が経過しようとしていた。

 彼は楽師として乞われれば誰の前でも演奏をした。王宮の中だけでなく、貴族の邸宅に招かれることも多い。また気が向けばふらりと街へ出て、以前と同じく広場で演奏することもあった。

 その見事なヴィオルの技術と、旅で培った広く深い見識、そして何よりも輝くばかりの美貌で、彼は広く王都の住人に愛されるようになっていた。


 サリエルの主人であるセファイドは、もちろん誰よりも彼の演奏を愛でた。日中は執務で多忙な身であるが、夜は三日と空けず自室にサリエルを呼び、就寝前の一時をヴィオルの音色とともに過ごした。

 おかげで後宮への来訪が減って、愛妾たちは少々暇を持て余しているようだ。しかし嫉妬されるどころか、後宮でも演奏するよう彼女らから要望が殺到しているのがサリエルの凄いところだった。


 それが、最近になって執務室にまで召喚されるようになったのには理由があった。


「父上は今ご機嫌が悪いよ。俺のせいでな」


 アノルトは冗談交じりの軽い口調でそう言う。


「南洋諸島部侵攻の件で、言い争いをしてしまった」


 国家機密に関わる重大事をさらりと口にする王子を、さすがに側近たちが制しようとしたが、アノルトは気にしなかった。


「議論できるご子息がおいでなのは頼もしいことです」

「父上もそう思ってくれているといいが。おまえは性急すぎると怒られてしまったよ。父上は国土を拡げることにあまり積極的ではないみたいだ」


 最後の方は呟きに近く、声が小さくなっていったが、アノルトは我に返って軽く首を振った。


「まあサリエルの顔を見れば父上のご機嫌も直るだろう。よろしくな」

「かしこまりました」

「ああそれから、用が済んだらリリンスの所へも顔を出してやってくれ。あなたがあまり遊びに来てくれないと文句を言ってた」


 アノルトは妹思いの兄の顔になって苦笑した。


「俺はこの先、王都と南方を往復する生活になる。我儘な妹だが話し相手になってやってくれ。あの子の出自は聞き及んでいるだろう? 寂しい思いはさせたくないんだ」


 サリエルは肯いて、それから気遣うように微笑む。


「それはもちろん――ですが、姫様はご自身の居場所をもうしっかりと作っておいでのようですよ」

「だと安心なんだがな……お」


 アノルトは肯いて、それから視線をサリエルの向こうへやった。

 つられてサリエルが背後を振り返る。


 回廊の先を、数人の男女が通り過ぎてゆくところだった。皆似たような白い服を身に着けて、ゆったりと歩いている。


「アルハ神殿の神官たちだ。今夜は満月だから、午前中に王宮内で礼拝があって……ほら」


 アノルトは声を潜めた。


「先頭にいるのがユージュ大神官だよ。昨年先代が亡くなって、あの若さで神官長に就任した。まだ二十歳そこそこだと思う」


 言う通り、彼らを率いて先頭を歩くのはまだ若い女だった。華奢な体つきのせいで少女のようにも見える。

 彼女はふと足を止めて――こちらを見た。


 黄味を帯びた肌と、細い線で描いたような顔立ち。髪と目の色は黒いが、オドナスの民とは明らかに異なる人種らしい。他の神官たちも、男女の差はあれ皆同じような容姿をしている。

 ユージュは無表情のまま、アノルトとサリエルに目礼した。

 顎の位置で切り揃えられた髪が、揺れて頬にかかる。どことなく無機質な印象の女だった。


 宗教上の立場では国王の上に立つ大神官である。アノルトとサリエルが丁寧に礼を返すと、彼女は再び歩き出した。


「……異国の方のようですね。アルハ神官は皆そうなのですか?」


 サリエルは白い神官服の後ろ姿を眺めながら訊いた。


「そうではないが……アルサイ湖の中央神殿だけが特殊なんだよ。俺も詳しくは知らないが、父上が王位に就いてすぐ、流浪の民だった彼らを受け入れて王都の神官に任命したらしい。ユージュ殿など、その頃まだ子供だったはずだよ」

「神殿の中でお育ちになったわけですね」

「あの方には父上も一目置いている。天候に関する神託を恐ろしく正確に読むし、医者も見捨てた重病人を癒すことすらできるらしい。噂では、魔法が使えるとか何とか」


 最後の一言は冗談交じりだった。魔法や呪いがまだまだ信じられている国で、アノルトも父親と同じく現実的だ。


「それに美人だ。まったく、父上の周囲には美人が多くて羨ましいよ」

「聖職者に対してそのようなことを、殿下」


 サリエルが呆れたように笑うと、アノルトは肩を竦めて見せた。

 育ちと血筋のよさが滲み出る屈託のない仕草で、長兄である事実を差し引いても、この王子が王位に最も近いことがよく分かった。





 サリエルが執務室に入ってきた時、セファイドは数人の官吏と一緒に机に広げた都の地図を覗き込んでいた。街の拡充に伴う水路の増設工事について、上がってきた案を検討しているところらしい。

 セファイドはちらりと目を上げて、


「ご苦労。隣の部屋で頼む」


 と短く告げる。

 サリエルは一礼して、続きになっている隣室へ向かった。執務中のセファイドはいつもこんなものだから、特別不機嫌というわけでもなさそうだった。


 隣室には円い大きな机があって、書類と本が乱雑に広げてあった。その周りをやはり本や帳面を手にした数名の官吏が取り囲んでいる。


「サリエル殿、ご足労頂いて申し訳ない」


 官吏の一人が足早にサリエルに近づいてくる。


「私でお役に立てれば」

「こちらの書簡をご覧下さい。東のスンルー帝国のさらに北に位置する小国から送られたものなんですがね……」


 官吏は卓上から紙の束を取り上げてサリエルに見せた。原文の写しらしく、あちこちにオドナス語の書き込みがしてある。


「香料の密輸容疑で捕えた商人が所持していた証拠品です。ほとんど国交のない国なので言葉の分かる翻訳官がいない始末で。スンルー語に似ている部分があって大体の意味は分かったのですが、細かい部分までは我々では……」

「読めます。書くものをお借りできますか?」


 あっさりとしたサリエルの答えに、官吏たちは一様に安堵の表情を見せた。


 セファイドが執務室にサリエルを呼ぶようになったのは、彼のこの卓越した語学力を認めたためであった。

 旅の生活を送っていたから、という理由だけでは説明がつかないほど多数の言語を、サリエルはほぼ完璧に操れた。以前にやってきた西のカナク王国の使節団の通訳は、彼が口にするカナク語を聞いて、カナクに三十年は住まないとあんなに流暢には喋れないと言い切った。

 そもそも、考えてみればサリエルはオドナス語をまったく不自由なく操っているのだ。

 この才能に気づいてからセファイドは、国内の翻訳官がてこずる書面の翻訳や、外国人の客の通訳をサリエルに手伝わせるようになった。

 結果としてサリエルはオドナスの外交についての重要事項を知るようになったが、国王は彼を信用しているようだった。楽師である彼は招かれた先々でごく私的な話を聞いているはすだが、それが彼の口から漏れたことは一切ない。


 翻訳の誤りを数ヶ所指摘して、サリエルは短い時間で仕事を終えた。

 書簡の内容は、逮捕された商人の他にスンルー人を含め大勢の関与を裏付けるものであったが、彼がそれ以上詮索すべきことではなかった。 

 翻訳官らの羨望の眼差しをそれほど気にも留めず、謙虚に一礼して退室するサリエルをセファイドが呼び止めた。 

 

「来月の月神節は知っているな?」

「はい、建国祭でございますね」


 オドナスの建国の日は月神節と呼ばれ、新年の祭りと並んで国内で最も重要な祝賀行事である。毎年王都と王宮には国内外から大勢の客が集まり、アルハ神への祭礼がたいへん賑やかに執り行われていた。

 セファイドは疲れた体をほぐすように椅子の上で伸びをして、


「祝祭ではおまえに活躍してもらう場が多そうだ。キルケとともにな。よろしく頼む」

「仰せのままに」


 オドナス随一の歌姫と楽師がようやく同じ舞台に立つ――そこにいる全員が軽い興奮を感じた。

 そして同時に、できることならその舞台を見逃さぬよう、自分が非番であることを切に願ったのだった。





「そこまで!」


 教官の制止の声が飛んだ時、ナタレの突き出した木剣の先が、フツの首筋をかすめて背後の土壁にぶつかったところだった。

 柔らかい土壁からぱらぱらと落ちた粉が、フツの肩に白く降り注ぐ。軽い木剣とはいえまともに食らっていたら失神しかねなかった勢いに、フツは口元を引き攣らせた。

 ナタレは木剣を引いて、ちらりとフツを一瞥し、面白くもなさそうに背を向ける。


「今回の優勝はナタレだ。六度目だな。おめでとう」


 剣術の教官の宣言に、生徒たちはざわめいて拍手を送った。みな同じ木剣を帯に差して、体のあちこちに痣を作っている。ナタレとフツを含め三十人余りの生徒たちは属国からの留学生だった。

 武術の授業の一環で、月に一度ほどこういった勝ち抜き戦が行われていた。

 同じ年頃の少年たちの中では、ナタレはどちらかというと小柄な方だ。その彼が六度も優勝しているのは、人並み外れた反射神経のよさと動きの素早さ、そして闘争心の強さゆえであろうと思われた。

 あいつに真剣を持たせたら死人が出るぞ――と他の留学生が陰口を叩くほどである。


 授業が終わり、他の少年たちが賑やかに談笑する中をすり抜けて、ナタレは独りで練習場を出て行った。

 優勝した彼に声をかけようとする者もいたが、ナタレは興味がなさそうに歩を進めるだけだった。


  王宮に併設された留学生用の学舎である。ここで彼らは共同生活をしつつ、オドナスの学問と文化を学び、故郷に帰る日を待っていた。

 実質の人質とはいえ客人である彼らの行動は制限されることはなく、王都の街を自由に散策することも許されていた。ほとんどの留学生はその待遇に満足しており、オドナスの進んだ文化に傾倒する者も多かった。国王の計画はほぼ成功したといえる。 


 学舎の中庭を廻る水路で、ナタレは手と顔を洗った。王宮に近い位置にあるのでつまりは湖からも近く、水はとても冷たい。


「左肩、大丈夫か?」


 背後からかかった声に、ナタレは驚いて振り返った。水の心地よさで、完全に気が緩んでいた。

 ついさっきナタレが打ち負かしたフツが立っていた。左肩を押さえて痛そうに顔をしかめている。


「おまえが大丈夫か」

「やかましわ。思クソどついてくれたな」


 試合中、先にナタレの左肩に一撃を入れたのはフツの方だった。

 次の瞬間、正確に同じ箇所を同じ角度で、しかも倍の強さで、ナタレに打ち返されたのだ。


「やられたら倍にして返せっちゅうことか。ほんま恐ろしい王子様やで、おまえは」


 ナタレは無視して、両手を振って水滴を跳ね飛ばし、その場を後にした。


「ちょ、ちょ待てやー! 話があんねん!」 


 喚く声が聞こえたが、相手にする気は起きず、ナタレは学舎内を通り抜けて裏庭に出た。


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