異邦の楽師
イラストは、つるけいこ様から頂きました!
国王の自室に入ると、香炉から立ち上る柔らかい香りと混じって、強烈なアルコールの匂いが鼻を突いた。
「うわ、酒臭っ……」
「こっちだ、ナタレ殿」
サリエルが部屋の奥で呼ぶ。
普段読書などに使っている机の脇にごく背の低い長椅子があって、その上でセファイドがぐったりと倒れているのが見えた。
「陛下!」
ナタレは駆け寄ろうとしたが、その周囲の状況を見て納得した。
陶器の酒瓶が、ざっと数えただけで四本転がっている。しかもこの独特な匂いは砂漠でいちばん強いといわれる蒸留酒のものだ。
セファイドは長椅子にその体躯を投げ出して、小さな鼾をかきながら眠っている。精緻な刺青の覗く右腕がだらりと垂れ、その下の床に杯が転がっていた。
「たった二人でこんなに空けたのか? あの短時間で?」
ナタレは呆れてサリエルを見た。
彼は困ったような表情で肯く。しかしその頬にはわずかな朱色も上っておらず、透き通るほどの白さを保っている。
「陛下はかなりお強いようだったが、さすがに飲みすぎたかな」
「これだけ飲めば象だって酔っ払うよ」
そう言いながら、ナタレは知らず知らず笑みを浮かべていた。
「凄いね、俺、この人が酔い潰れるところなんて初めて見た。いつもどれだけ飲んでも平気な顔をしてるのに。サリエルは強いんだな」
「そうかな」
泥酔状態の王を前に、ナタレはホッとした。
セファイドの漁色家ぶりは周知の通りで、現在も後宮に多数の愛妾を抱えている。今のところその対象は女性だけだが、サリエルほどの美貌の主が相手ならあるいは――という彼の心配は杞憂に終わったようだ。
ナタレはとりあえず足元の酒瓶をまとめて端に寄せた。
「寝台に運ぼう。そっち、持って」
「分かった」
二人はセファイドの頭と足を抱えて、奥にある寝台へ運んだ。王が目を覚ます気配はまったくない。
薄い布団を被せて、湖からの夜風を避けるために寝台の天蓋を下ろしながら、ナタレの動きがふと止まった。
両眼が、意識のないセファイドの顔を捉えている。
初めて見る国王の無防備な寝顔――規則正しく上下する胸元と喉仏を庇うものは何もない。ナタレの背筋を寒気に似たものが駆け上がった。
今なら……今ならば――。
背後で、緩い弦の音が鳴った。
鞭で打たれたようにナタレが振り返ると、サリエルがヴィオルを手にしてその弦を指先で弾いていた。
弓で鳴らすのとはまた趣の異なるふくよかな音色に、ナタレの悪寒がすうっと引いていった。そして初めて、自分の手がセファイドの喉下に伸びていたのに気づく。
「……陛下はお休みだ。出ようか、ナタレ殿」
サリエルの穏やかな口調に促されるまま、ナタレは呆然と肯いた。
続き部屋に戻ったナタレは壁際にぺたりと座り込んで、じっと自らの手を見詰めた。
サリエルがいなかったら、自分はどうするつもりだったのか……全身を駆け上がってきたあの寒気は快感にも似ていた。
あれが――殺意か。
「水をもらえないか、ナタレ殿」
サリエルの声で、ナタレは顔を上げた。ナタレの衝動に気づいていたのかどうなのか、楽師は相変わらず静謐な佇まいだった。
「……殿はやめてくれ。ナタレでいいよ」
彼は立ち上がって、燭台の下のテーブルに置かれた水差しから杯に水を注いだ。
「私も少し飲みすぎたようだよ」
喉を鳴らして水を飲み干すサリエルを、ナタレは不思議な心地で眺めた。冷えきった掌に徐々に体温が戻ってくるようだ。
「また会えて嬉しいよ、サリエル。あなたが無事で旅を続けていてよかった」
ナタレは素直にそう言った。昼間、回廊で口にできなかった言葉だ。自然と笑顔が浮かんだ。
サリエルは空になった杯をテーブルに戻して微笑んだ。
「ようやく笑ったね。昼間はまるでよくできた人形のような顔をしていた」
「え……」
「この国がお嫌いか?」
ナタレの顔から笑みが消えた。だが感情を押し殺した無表情にはならず、怒りを含んだ険しい皺が眉間に刻まれた。
「オドナスはロタセイの仇だ。滅ぼされなかったとはいえ戦争では同胞が大勢殺されている。今の俺はその仇の檻に飼われているようなものだ。媚を売るつもりはない」
凍れる刃のように鋭い口調だった。この国に来て初めて吐露する、属国の王太子としての胸の内だった。
サリエルは低く息を吐いた。
「オドナス王は君を評価している。頑なになるのは勿体ないと思わないか?」
「あの男は……俺を手懐けてロタセイを完全に支配しようとしてるんだ。人質の王子を傍に置く理由などそれ以外にないだろう」
ナタレの日焼けした頬は軽く紅潮していた。
これほど感情が高ぶるのは久々のことだった。さっきまで冷たかった掌がしっとりと汗で湿ってくる。
ロタセイ王太子のひたむきなほど頑なな言葉を、サリエルはまるで鏡のように静かに受け止めた。
少し間を置いて、言う。
「君のその誇り高さは尊敬に値するが――だが今の君は自分と、自分の故郷しか見えていないようだ」
「……ロタセイの民として祖国を想ってはいけないというのか」
「そうではない。ロタセイは確かに強く誇り高い民だが、同時に固い岩のように内側に閉じている。若い君もその岩の檻に縛られているようだ。君の精神は本来もっと柔軟で生気に満ちているはず――」
ナタレは我知らず胸に手をやった。心臓が脈打っている。
ここに来た日に、すべての感情は殺したと思っていた。敵地でひとり、傷つかぬようにひたすら心を閉ざして、祖国へ戻れる日を待つつもりだった。
それなのに、この気持ちの昂りは何だ。この怒りと苛立ちと悔しさと――まだこんなものが自分の中に息づいていたのか。
サリエルの白い顔が、蝋燭の揺れる赤い炎を映している。銀色の両眼だけが何の色にも染まっていない。
「今この都の繁栄は、地上で一、二を争うほどだ。各地を渡り歩いてきた私にはよく分かる。そんな都を築いた王のすぐ傍で世界を眺める経験は、いずれロタセイを継ぐ君にとってこの上なく貴重だ」
「俺はただの人質じゃないか! 世界など眺められるわけがない」
「違う、それはそういった目を持たないからだ。自分の内ではなく外側を見てみなさい。世界はすぐそこにある」
ナタレは言葉に詰まった。
楽師のこの澄んだ銀色の瞳――この目は、いったいどれだけの世界を映してきたのか。
「ナタレ、ロタセイを繁栄させ、いつかオドナスに匹敵するほどの国にしたいと願うなら、まず王太子の君が外の風を感じ日差しを浴び水を飲むことだ。それには今の立ち位置が最も恵まれている」
そんなことを言われたのは初めてだった。
サリエルの言葉は、ナタレにはよく分からなかった。ただ彼が無責任な慰めやごまかしでそれを口にしているわけではないことだけは感じられた。
鼓動の高鳴りはそのまま、激しい感情がすっと引いていった。
ナタレは沈黙して顔を背けた。
考えはまとまらないが、不思議と気持ちが楽になった。ここに来て初めて人と会話をしたような気がする。
「……すまない、不躾なことを」
横顔に向かって、サリエルが詫びた。
「私も無事な君に再会できて嬉しいよ、ナタレ」
「ありがとう……心配をかけてごめん」
ナタレはサリエルに向き直って、再び微笑んだ。疲労と安堵の入り混じった笑みだった。
「正直あなたの言うことはまだ理解できないけど……よく考えてみる。また話そう。サリエルと話していると、なぜだか楽に息ができるみたいだ」
彼にとってこの都で初めて心を許せる相手が、この美しい楽師だった。
今までの少年の孤独と不安を思ってか、サリエルの眼差しが少し翳った。
「ナタレさえ心を開けば、友人はたくさんできるはずだ」
「そうかな……よく分からない」
ナタレは困った顔をして顎を掻いた。年相応の子供っぽい仕草だった。
つられるように、サリエルは笑った。
こうして新しい宮廷楽師にとって王宮での長い初日が終わった。
国王が楽師を自室に招き、二人で飲んでいるうちに泥酔して眠ってしまったという話は、翌日には王宮中に広まっていた。
しかも話には尾ひれがついて、楽師のあまりの美貌に目が眩んだ国王が彼をモノにしようと酒を飲ませたが逆に酔い潰されてしまった――と、セファイドにとってかなり不名誉な噂となってまことしやかに囁かれるようになった。
だがセファイドはこの噂を耳にしても怒ることなく否定もせず、一方のサリエルも曖昧にはぐらかすだけだった。
もともとセファイドが色事に関して鷹揚であることは知れ渡っており、それも彼の人間的魅力の一部と捉えられていたので、噂が事実であろうがなかろうが彼の評価には関係しない。その噂は別のところに影響した。
国王の特別な相手である楽師に妙な真似はできない――。
そんな緊張感が王宮に集う男女の間に流れ、サリエルに言い寄る者は出てこなかった。初日にセファイドが注意した通り、この先サリエルの奪い合いで争いが起きる事態は回避できそうだ。
案外それが狙いでわざと流した噂なのかも――真面目なナタレは釈然としないながらも納得した。
こんな感じでゆるゆる続きますが、読んで下さると嬉しいです。
次章ではもう少し一人一人詳しく書きます。