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水面の月を抱く国  作者: 橘 塔子
第一章 オドナス王宮の人々
6/57

正妃と第一王子

 その夜の晩餐の席に、さっそくサリエルが呼び出された。


 風紋殿の広間に設えられた卓台には、香辛料のきいた焼肉や、塩漬けの魚、数多くの種類の野菜と色とりどりの果物が並べられていた。これだけの東西の食材を集められることからもこの国の繁栄が見て取れる。実際、旅の楽師が見てきたどの国よりもオドナスの食卓は豊かだった。

 卓台を囲んでいちばん奥に座すのがセファイド王、その両側に王女リリンスと正妃タルーシアがいた。それから国王の子の生母である四人の側室も同席している。


 彼らは食事の手を止めて、楽師の演奏に聴き入った。

 サリエルが奏でているのは穏やかな波のような曲だった。数本の弦を同時に響かせ、不思議な和音が波紋のように広がってゆく。夜のオアシスを思わせる、静かで美しい曲。

 給仕係の女官たちも仕事を忘れてうっとりと目を閉じている。その中には王の侍従見習いであるナタレの姿もあった。


「美しい音色だ、楽師殿。素晴らしい」


 最後の和音が消えると、セファイドはゆっくりと拍手をしながら賛辞を送った。彼は昼間よりももっと簡素な部屋着姿で、長い足を投げ出すようにして長椅子に凭れている。

 サリエルはヴィオルを置いて姿勢を正し、一礼した。


「畏れ入ります」

「奏でるあなたもお美しいこと。今日は後宮の女たちが大変な騒ぎようでしたわ」


 口元に扇を当てて妖艶に微笑むのは正妃タルーシアであった。

 国王と同じくらいの年齢なのだろうが、手入れされた肌には染みひとつない。それでいて身を飾る豪華な装飾品に負けない風格を感じさせる美女だった。


「あなたのような方が長く旅の生活を送っていたとは信じられませぬ。それだけの腕と美貌があれば、どこの国でも厚遇されたでしょうに」


 タルーシアはそう言って女官の一人に向けて扇を振った。女官は素早く盆に載せた杯をサリエルのもとへ運ぶ。

 杯に注がれた果実酒を、サリエルは目礼してから飲み干した。


「私にとっては旅が家のようなものです。物心ついてよりずっとそのような生活を送って参りましたので、ひとところで暮らすことなど考えられませんでした」

「では、オドナスに留まるのはなぜだ?」


 セファイドは皿の上の料理を摘みながら訊いた。南洋で採れる牡蠣を干したものだ。

 サリエルはセファイドの方へ顔を向けて、


「このオドナスが、今現在、地上で最も繁栄している国だと感じたからです。そして、畏れながら陛下、その国を造り統治する王がどのようなお方か、ぜひ自分の目で確かめたいと思い、ここへ参りました」

「見かけによらず好奇心の強い男だな。で、実際に俺に会ってどう思った?」


 タルーシアと側室たちが少し強張った表情で彼らを見た。一介の楽師が国王を評するのを許すのか。

 サリエルは、しかし動揺した様子もなく、


「明朗で理知的なお方です。快楽を否定なさらず、それでいて何事にも軸のぶれない強い理性を持っておいでのようです。それは何かを深く悟っていらっしゃるからこそではないかとも思われますが」

「それって誉めてらっしゃるのよね」


 リリンスが横から茶々を入れた。


「この国が嫌になって、早々にオドナスを立ち去ったりしないわよね?」

「リリンス、おまえはまたそういう口を」


 タルーシアが窘めたが、セファイドは笑っている。


「王女もおまえが気に入ったようだ。一生この国で過ごせとは言わんが、できるだけ留まってくれると嬉しい」

「勿体ないお言葉です」

「ナタレ」


 セファイドは広間の入口付近で待機するロタセイ王太子を呼び寄せた。昼間と同じ緋色の衣装のナタレがやって来て脇に控えると、


「シャルナグから聞いた。これと縁があるそうだな」


 と、サリエルに尋ねる。

 先ほど演奏に聴き入っていた時は穏やかな笑みさえ浮かべていたナタレであったが、セファイドに呼ばれた途端、よくできた仮面のような硬い表情が少年の顔を覆った。


「はい、将軍からお聞き及びの通りです」

「ナタレはなかなか見所があってな、今は俺の侍従見習いに取り立てている。ロタセイはオドナスの東の守りの要だ。将来は役に立ってもらわねばならん」


 侍従は国王の秘書や執務補助を主な仕事とし、貴族の子弟が務めるのが普通だ。王の身近で政治や軍事を学び、認められれば将来は国の要職に就くことが約束される。

 セファイドは、その対象を属国の王族にも広げようとしているらしい。


 ナタレは変わらぬ無表情で立ち尽くしている。彼が押し殺しているのは自分に対する誇りだろうか、蔑みだろうか――。

 そんなナタレを少し悲しげに見詰めるリリンスに、サリエルは気づいていた。


「父上!」


 突然、広間に快活な声が響き渡った。

 広間の入口の薄布を勢いよく跳ね上げて、一人の少年が入って来たところだった。


「おお、アノルト!」


 タルーシアが椅子から立ち上がる。

 大股ですたすたと歩いて来るその少年は、今まさに砂漠から戻ってきたような旅装束に身を包んでいた。実際に、上着の裾から金色の細かい砂が零れ落ちている。


「ただ今戻りました、父上」


 彼はセファイドの傍らに行くと、そう言って丁寧に一礼した。

 オドナス王の長男、アノルト王子である。父親によく似た端整な顔立ちと晴れやかな黒い瞳。長い手足を備えた体躯は、十七歳という年に似合わず十分に逞しい。

 タルーシアだけでなく側室たちも席を立って、彼へ深々と頭を下げた。

 埃っぽい姿のまま広間に現れた息子の日焼けした顔を、セファイドは満足げに眺めた。


「アノルト、よく戻った」

「お食事中、このようななりで入室したことをお許し下さい。つい先ほど王都に着きました。一刻も早くお会いしたくて」

「何も気にする必要はありませんよ。おまえはこのオドナスの王子なのだから」


 タルーシアは約七ヶ月ぶりに会う息子を満面の笑みで迎え、愛おしげにその肩を撫でた。


「よく顔を見せておくれ……まあこんなに日焼けをして。怪我などしませんでしたか? 食事はちゃんと摂れていましたか?」

「母上……俺はもう子供ではありませんよ。この通り元気です」


 アノルトは苦笑しながらも、母親の気遣いには感謝しているようだった。タルーシアにとってはただ一人の子であり、次の国王の座にいちばん近い王子であるから、その溺愛ぶりは当の王子が少々辟易するほどであった。

 アノルトは食卓を挟んだ向こうで立ち尽くしているリリンスに目をやった。

 リリンスは胸の前で手を組んで珍しくもじもじしている。父と母と子、その中に入っていくのをためらうように――。


「どうしたリリンス、兄の顔を忘れたか?」


 セファイドが優しく声をかけた。

 リリンスは緊張した面持ちで言葉を紡いだ。


「あ……アノルト殿下には無事のご帰還、心よりお祝い申し上げます。えっと……」

「リリンス」


 アノルトはにっこりと笑って妹の名を呼んだ。


「会いたかったよ。おいで」


 その笑顔に釣られるように、リリンスの緊張がいっきに解けた。

 彼女は彼女らしい満面の笑みになってアノルトに駆け寄った。真新しい茜色の衣装の裾がひらひらとたなびく。


「兄様、お帰りなさい!」


 胸に飛び込んできた妹を、アノルトは抱き締めた。母親の違う二人ではあったが、その姿は仲のよい兄妹そのものだった。


「ただいま。大きくなったね、リリンス」

「もう駱駝にもひとりで乗れるようになったのよ」

「それは凄い」

「いつまでたってもお転婆で困ったものです」


 タルーシアが手にした扇をぱちんと閉じて眉をひそめた。


「もう縁談がきてもおかしくない年頃だというのにまるきり子供で。今日だって回廊を走り回っていたと聞きましたよ」

「母上は相変わらずリリンスにお厳しいな。縁談などまだ早いではありませんか」


 義母に叱られて萎れるリリンスをアノルトが庇ったが、タルーシアは首を振った。


「私はリリンスのためを思って言っているのです。いずれはオドナスの王女として他国へ嫁がねばならぬ身――国を背負って一生を送る王族の女としての覚悟を、リリンスも早く持たなくてはなりません。それなのに陛下ときたら甘やかすばかりで……」


 タルーシアは濃く縁取りされた切れ長の目でじろりとセファイドを睨んだが、夫は気にする風もなく受け流した。


「もう小言はそのくらいにしておけ、タルーシア。息子が無事に務めを果たして戻ったのだ。アノルト、戦果は先に帰還した部隊から報告を受けている」

「はい、父上のご命令通り、南方の二部族を平定して参りました。これで諸島部進出の足がかりができました」


 アノルトは誇らしげに答える。


 大陸の南の果てまでその領土を広げたオドナスであったが、未だ大国に抵抗を続ける部族がいくつか残っている。

 そのうち南方の沿岸部に住む二部族を、アノルトは約半年をかけて打ち破り、その結果南洋交易の要所ドローブ港がオドナスのものとなった。諸島部諸国と交易を続けるにしろ侵攻するにせよ、重要な拠点を得たことになる。


 セファイドの少し後ろでやり取りを聞いていたナタレの手が、自らの緋色の衣の裾をきつく握り締めていた。指の関節が白く浮き出るほどに。


「詳しくは後で聞こう。今後についても」


 セファイドは、息子の高揚を押し止めるように穏やかに言った。


「正式な凱旋祝いはいずれやるとして、今夜は十分に飲んでゆっくり休め」

「はい、ありがとうございます」


 アノルトはリリンスの頭をくしゃくしゃと撫でた。


「ねえ、兄様もサリエルの演奏を聴いて。とても素敵なのよ」


 リリンスは撫でられて乱れた前髪を気にもせず、さっそくお気に入りの楽師を兄に紹介した。

 長い食卓の向こう、敷物の上に腰を下ろした楽師は慎ましく頭を垂れていた。


「新しい楽師のサリエルだ。珍しい楽器を演奏する。今日やって来たばかりだが、もう王宮の有名人だぞ」


 からかい混じりのセファイドの言葉に、サリエルは困ったように微笑んで顔を上げた。

 アノルトはその美しさに驚き、それから、さっきすぐ横を歩いてきたにもかかわらず彼の存在に気づかなかったことを意外に思った。これほどの存在感がある男なのに、広間に入ってきた時には何の気配も感じなかった。


「サリエルと申します。アノルト殿下」

「あ……ああ、確かにあなたなら一日で有名人になりそうだな」

「もう一曲所望する。王子のために弾いてやってくれ」


 セファイドが命じると、サリエルは肯いてヴィオルを手に取った。

 女官たちが帰還したばかりのアノルトから旅装束の上着を預かり、てきぱきと動いてタルーシアの隣に席を作る。

 王子が長椅子に腰掛けて、杯を手に取った頃、震える弦の音色が再び広間に流れ始めた。

 




 ナタレは何ともいえない居心地の悪さを感じながら隣室の様子を窺っていた。

 今夜は新月で、壁に取り付けられた数基の燭台に照らされた室内は薄暗い。その灯りさえも、窓から入ってくる風に揺らされて時折心許なくなる。風はアルサイ湖を渡って湿り気を帯びていた。


 晩餐の後、セファイドはサリエルを伴って自室に戻った。

 シャルナグ将軍などごく一部の側近を除き、彼が自室に他人を招き入れるのは珍しいことである。それも、今日やってきたばかりの楽師を。

 朝までその続き部屋で待機しているのが侍従見習いの役目だった。これは当番制で、十日に一度ほど回ってくる。ただしセファイドが後宮に渡る晩だけは、年少のナタレはその任を免除されていた。さすがに教育上よろしくないと、侍従長の配慮だろう。


 夜中に呼び立てられる用はほとんどなかったが、寝ているのかと思いきや、王はいつも明け方まで読書をしたり書き物をしたりして起きていることが多いようだった。

 国王はいつ眠るのだろう、とナタレは不思議に思う。生まれつき睡眠時間が極端に短い体質の人間がいるというが、あの男もそれなのだろうか。


 ナタレは大きく開いた窓枠に腰掛けた。涼しい風が頬を撫でてゆく。

 月が出ていないのでいつもより時間の経過が分かりにくいが、もう夜半近い。少しの間ヴィオルの音色が心地よく流れていたものの、それも止んでずいぶん経つ。


 二人で何を話しているのか――自分でも不思議なほどそわそわしていた。


 今日回廊でサリエルに再会して、本当はとても嬉しかった。

 同じ旅人に再び出会えるなど、砂漠では奇跡に等しい。たったひとりきりで灼熱の世界を渡ってきた彼がどんな人間なのか、もっと話が聞きたかった。

 でも、だからこそ、ナタレはサリエルに親しく声をかけることができなかった。

 彼は過酷な旅を経てなお変わらずに美しい。それに比べて自分は――あの時自由に砂丘を駆け回っていた自分はもういなくなってしまったのだ。


 今の自分は籠の鳥だ――大切な一族を征服した仇の懐で、安穏と養われている。

 それでもナタレが境遇を受け入れ自己を保ってこられたのは、自分を王太子に選んでくれたロタセイ王たる父に報いるためだった。

 




 圧倒的な軍事力の差でロタセイを追い込んだオドナス軍は、あえて彼らに止めを刺そうとはしなかった。わざと戦いを長引かせ、疲弊したところを見計らって、ロタセイにとって相当に有利な条件で和睦を持ちかけたのだ。

 ロタセイはオドナスの属国となるものの、オドナスからの知事は置かず、完全な自治を保証する。オドナスの領土内であれば活動範囲に制限は設けない。ロタセイ王家もこれまで通り存続を認める。


 ただし王太子、つまり次期ロタセイ王を王都へ送ること――これが唯一課せられた逆の条件であった。


 ロタセイ王ザルトは悩んだが、結局はオドナスの条件を飲んだ。

 突っぱねればオドナス軍は本気で彼らを壊滅しにかかり、そうなればロタセイの民は一人残らず砂漠で干からびるだろう。それにオドナス側から和睦の申し入れがあったこと、完全自治を認められることで、何とか部族の面子が保たれたからだ。

 ロタセイ王の後継者はその時点では決まっていなかったが、ザルトはナタレを王太子として指名した。


 ロタセイのために王都へ行ってくれるか、と父は問い、喜んで参ります、と息子は答えた。


 ナタレは正室の子ではあったが、王の長男ではなかった。王には側室との間に先に生まれた男子がいたのである。しかもナタレの母親である正室は産後すぐに亡くなっており、子はナタレだけで、弟妹もみな側室の子であった。

 父王は子供には平等に接したが、母親のいない彼はやはり常に孤独を感じていた。腹違いの兄弟たちにも気を遣う。

 正室の子でありながら後ろ盾のない彼は、王太子となれるかどうか難しい立場だった。


 その自分を父上は王太子と認めて下さった――嬉しさと誇らしさが、遥か異郷の都へ向かう心細さを凌駕していた。

 いつも無口で厳しく、笑顔など見たことのない武人そのものの父――ナタレはそんな父を慕っていたし、尊敬していた。

 父上のために、俺は立派に務めを果たしてくる。ロタセイの王太子として決して誇りは失わない。


 そんな健気で強い決意を胸に、オドナス軍に同行してナタレは単身王都へ向かった。

 今から一年前、彼が十四歳になったばかりの頃である。

  




 ふいに人の気配がして、ナタレは我に帰った。

 王の部屋に繋がる出入口の布を押し上げて、白い人影が立っていた――サリエルである。


「少し手を貸して頂けないだろうか?」


 驚くナタレにそう言って、サリエルは隣室に戻ってゆく。

 ナタレは慌てて後を追った。

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