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水面の月を抱く国  作者: 橘 塔子
おまけの小咄集
54/57

楽師の弱点

Web拍手のお礼画面に掲載していたオマケ小説の転載です。

コメディ掌編集ですのでお気楽にどうぞ。

 褐色の液体が磁器のポットに滴り落ちると、香ばしい湯気が柔らかく漂った。

 甘いような苦いような、何とも言えないその匂いに、リリンスは小さく鼻を鳴らした。


「ああ、いい香り」


 完全に液体が落ち切るのを確かめて、侍女のキーエは手早く漏斗ろうとを外してポットの蓋を閉めた。この珍しい飲み物の入れ方に、女官一同はようやく慣れてきたところだ。

 最近南方から輸入されて、オドナス王宮で流行っている飲み物である。炒った黒い木の実を粉状に挽き、布を敷いた漏斗に入れて熱湯を注いで、出てきた汁を飲む。珈琲コーヒーというらしい。

 取っ手付きの磁器の器もまた、この木の実と一緒に輸入されたものだ。そこに半分ほど注がれた液体は、褐色を通り越してどろりと黒い。

 キーエはそこに、別に温めておいた牛乳をたっぷりと加えた。それから大量の砂糖を入れて、掻き混ぜる。


「姫様はこの飲み方をされるのでしたよね。どうぞ」

「だって苦いんだもの。夜眠れなくなっちゃうし」


 リリンスは桜色の唇を尖らせて、可憐な顔立ちを拗ねたように歪ませた。それでも器を両手に取ると、うっとりとその香りを楽しんだ。

 ひどく苦い珈琲は、若い王女の口にはまだ合わないのだった。香りだけは好きなので、牛乳と砂糖を混ぜる飲み方を独自に楽しんでいるところだ。他の者はそれを聞いて気持ち悪そうに首を振るので、今のところこの飲み方を嗜んでいるのはリリンスだけのようだった。

 それに、リリンスも敢えて他人に勧めようとはしない。それには理由があるのだが――。


「サリエル様はどうなさいます?」


 キーエが尋ねると、王女の部屋に招かれた楽師は、微笑んで肯いた。


「姫様と同じで」

「よし!」


 リリンスは思わず声を上げて、慌てて口に手をやった。


「お、美味しいよね、珈琲の牛乳割り。同志がいて嬉しいわ」

「今日は何を演奏いたしましょうか」

「飲んでからでいいわよ。それまでお喋りしようよ」


 長椅子に並んで腰掛けたリリンスは、温かく甘い珈琲を一口飲んで、満足げに笑った。


「ねえ、サリエルはいろんな場所に招かれていろんな話を聞くでしょう? 面白い噂話や誰かの秘密、教えてよ」

「噂話ならば、私よりも姫様の方がお詳しいですよ。秘密は……お話しするのは職業倫理に反します」


 サリエルは穏やかな口調ながらきっぱりとそう答えて、器を唇に当てた。白い喉が小さく上下する。

 こういうところが信頼される由縁よね――リリンスは澄ました白皙の美貌を眺めて納得する。つまり彼は、様々な人間の様々な秘密を知っているのだろう。


 実に好奇心を刺激してくれる男だ。将来は愛人にしたいと、彼女は半ば本気で思っている。


「じゃあさ、あなた自身の秘密は? 私、サリエルのことあんまり知らないわ」

「私には、秘密などありませんよ」

「そうかしら」


 リリンスは残りの珈琲を飲み干して、意味ありげに微笑んだ。





 リリンスはやや頬を紅潮させて、サリエルを見下ろしていた。


「姫様……やはりご本人に教えて差し上げては?」


 渋い顔で忠告するキーエに対し、リリンスは笑いを堪えながら首を振った。


「駄目だめ。こんな面白いこと、独り占めしない手はないわ」


 彼女の視線の先で、サリエルは長椅子に身を横たえている。肘掛に頭を乗せ、睫毛の長い瞼を閉じ、すらりとした四肢を完全に弛緩させ――眠りこけていた。胸が規則正しく上下を繰り返している。

 招かれた先で眠るなど、彼にしてまずあり得ない粗相であった。それどころか、彼の寝姿を見たという人間さえ未だにいないのだ。


 リリンスは長椅子の脇に座って、そっとその手をサリエルの顔に伸ばした。柔らかな指が頬に触れても、彼は目を覚ます気配もない。


「うふふ、よく寝てる」

「変な悪戯をしないで下さいよ」

「分かってるわよ。見て楽しむだけ」


 そう言いながらも、彼女は彼の黒髪をいらうように撫でている。


「お父様を酔い潰すほどお酒に強いって聞いたけど……変わってるわよね、珈琲で酔っ払うなんて」


 正確には、珈琲と牛乳と砂糖の取り合わせが、彼に何らかの異変をもたらすらしい。器に一杯ほどの量で酩酊状態に陥り、意識を失ってしまったのである。珈琲を生のまま飲む機会はこれまで何度もあったはずだが、このような事態にはならなかった。

 現在のところ、その事実を知っているのはリリンスとキーエだけであった。サリエル自身も気づいてはいない。彼が眠ってしまうのは実はこれで三度目なのだが、入眠の記憶は残らないらしく、目覚めた彼は早すぎる時間の経過に首を傾げつつ退出したのだ。


 何から何まで完璧で一分の隙も見せないサリエルは、意外な弱点を持っていた。

 それを握ったリリンスは、嬉しくてたまらない。いつでも彼を無防備な状態にできるのだと思うと、背筋がゾクゾクする。

 優越感か、征服欲か、少女の無邪気さか――あるいはその全部か、彼女自身にも分からなかった。


「本当に綺麗……このまま剥製にしたいくらい。チュウしちゃおっかなあ」

「姫様……大概たいがいになさいませ」

「はいはい。キーエ、このことは絶対に秘密だからね」

「もちろんですわ。他の方に知られたら、サリエル様の身が危のうございます」


 すでに十分危ないですけどね――キーエは胸の中でそう呟いて、肉食動物のような目で美しい楽師を見詰める王女に、溜息をついた。

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