消えゆく月
うるさいほどの笑い声に包まれた部屋を退出して、サリエルは王宮中央へ続く廊下に出た。
庭の植栽を透かして、キラキラとした木漏れ日が足元に落ちている。もう王宮では午前の業務が始まっている時刻だが、ここ東の離れには人影がなかった。それだけに、ナタレの部屋の騒がしさが余計に際立っていた。
サリエルはヴィオルを抱え直し、同じく廊下に佇んでいた人物に話しかけた。
「彼らがやって来ると王宮が賑やかですね」
「たまにはいいだろう」
セファイドは軽く肩を竦めて苦笑した。
ナタレの体調がほぼ戻ったと聞いて、今日になってようやく彼は留学生たちの見舞いを許可したのだった。集団になった若者たちは元気がよすぎて、重病人の見舞いには向かない。
「陛下はお入りにならないのですか?」
「今は遠慮しておく。皆を無駄に緊張させてしまう」
おそらく午前の謁見時間を延ばして様子を見に来たらしいセファイドは、それほど残念そうな様子でもなかった。
二人は並んで廊下を歩き始めた。
「子供というのは、時に期待した以上の成長を見せるものだな」
歩を進めながら、セファイドは妙にしみじみとした口調でそう言う。
「あの子があれほど際どい交渉を仕掛けてこようとは思ってもみなかった。しかも、策を弄すこともなく正面突破だ。喧嘩両成敗で双方とも処断すると俺が言ったらどうするつもりだったのか……まったく、怖いもの知らずというか……」
「申し上げにくいのですが、ナタレは多分にリリンス様に感化されていると思われます。姫様は陛下にそっくりでいらっしゃいますけれども」
「……返す言葉もないな」
サリエルの真っ当な意見に彼は苦々しい顔をしたが、すぐに息をついて顎を撫でた。娘が自分に似ていると指摘されるのは、まんざらでもないらしい。
「ともあれ、扱いの難しかったロタセイの民を、これで公明正大に統治下に置くことができましたね。スンルー側でも、ロタセイに加担したタンゼア公を処罰したと聞きます」
情報通の楽師は、皮肉ではない賛辞を述べた。
「今回のオドナスの裁きは、前知事に不満を持っていた東部諸国には歓迎されるでしょう。陛下のご判断の正しさにはいつもながら感服致します」
「お誉めに預かり畏れ入るよ」
セファイドは前を向いたまま棒読みに言って、少し声を落とした。
「俺はあらゆる意味で買い被られているんだよ。名君だ何だと誉めそやされると背中が痒くなる。属国に自治権を認めたのも、徹底した中央集権を敷かないのも、奴隷制を廃止したのも、決して崇高な信念があってやったことではない」
「王都に人が集中するのを避けるため、でしょうか」
「なぜ、そう思う?」
問い返したものの、独り語りのようだ。彼もまた、サリエルの纏った空気に言葉を引き出されているのかもしれなかった。平らかな鏡面に己の姿を映すがごとく。
「……この都の基盤はあまりに脆弱だから」
図星を突いたサリエルの返答をむしろ望んでいたのか、セファイドに動揺の気配はなかった。
ただ、諦めの混じった笑みを浮かべる。
「俺がユージュたちに何をさせているか、おまえは気づいているのか」
「アルサイ湖の水質検査ですね」
穏やかな表情のまま、サリエルは答えた。
セファイドは楽師の美貌に目をやることなく肯く。
「俺は信仰を持たない人間だ。アルハ神の恩寵を信じることもない。だから、どこに水源があるのかも分からん湖に依存した王都の状況が、恐ろしくて堪らなかったのだ。神の裁きなどよりもよっぽどな」
彼は足を止めて、顔を上げた。
庭の木々の向こう、南の空に細い月が見える。澄んだ青空に浮かぶ朝の月は、白々と消え入りそうに儚げだった。
「だから、あの特別な知識と技能を持った神官たちを登用した時、アルサイ湖の正確な面積と水量を測定させた。いったいどれだけの人間の生活を支えられるのか調べる必要があった――これまで通り農業と生活用水に使用した場合、彼らの試算では、五十五万人が上限なのだそうだ」
「では今の王都の人口は……」
「ほぼ限界だ。これ以上この都に人を集めるわけにはいかない。すなわちそれが、オドナスの国家としての限界なんだよ」
月に守られた都の主は、皮肉にも、神なき世界を独りで生きていた。
月神の守護を信じ、神意に背かぬ限り繁栄の永続を疑わない民を従えながらも、彼は冷徹な現実を見据えていた。
王都に人口が集中できない以上、強力な中央集権国家にはなり得ない。砂漠の各都市を結び、緩やかな連邦国家を目指すしかない。奴隷制を廃止したのも、王都の権力者が必要以上に大勢の労働力を抱えるのを避けるためだ。
その結果、彼はオドナス史上最も強く、かつ寛大な為政者として謳われるようになった。
多くの秘密をその内に抱えて。
「神官たちに毎日監視させているが、もし湖に何かが起これば、我々は灼熱の砂漠に放り出される。おまえの言う通り、王都は脆弱すぎる基盤の上に建っているのだ」
セファイドは弱々しい月を睨み据えた。
おまえの守護など当てにはしない。人間を守れるのは人間だけだ――そう宣言するように。
サリエルは毅然とした国王の横顔を見詰めて、淡い微笑を浮かべた。
「けれど、陛下はどこか楽しんでおられるように見えますが」
あいつは平気な顔をするのが天才的に上手い――そう友人に評された男は、眼差しから厳しさを消して笑った。
「当たり前だ。この程度のことで揺らいでいて国家元首が務まるか」
欲して欲して、肉親を犠牲にしてまで望んだ王位。
血塗れの両手で掴んだ権力の座から眺める風景は、あまりにも寂寥としていた。あの天空に浮かぶ土塊の実像と同じだ。
それもまた面白いと、彼は思っていた。
筋金入りの現実主義者でありながら、彼はまた恐るべき楽観主義者でもある。そこが熱砂の海であろうと極寒の荒野であろうと、自分の立ち位置を俯瞰して、楽しめていた。
よほど肝が据わっている、というよりこれは生まれついての性格であろう。
「おまえの旅してきた極北の地では」
ふと、セファイドは眩げに目を細めた。ほんのひと時意識が地上のしがらみを離れて、蒼天を渡る風に乗ったような、そんな清々しさを感じさせる表情だった。
「様々な色の光が、この空を覆うことがあると聞く。恐ろしいほど美しくて壮絶な眺めだと言うが――」
「仰せの通りです。虹色の光が柔らかな絹布のように閃いたり、天球全体が燃え上がるように赤く染まったり、時によって様々に形を変えます。極光、と呼ばれていますが」
淀みなく答えるサリエルは、おそらくそれを実際に目にしたのだろう。白く凍える大地と幻想的な色彩に染まる空は、この楽師にあまりも相応しかった。
そう感じたらしく、セファイドはわずかな羨望を含んだ声で、
「いつか見てみたいものだな」
「お連れ致しましょうか、いつか」
「ああ、だがそれはずっと先の話だ。俺がこの国での役目を終えて、次代の人間にすべてを譲り渡した後――その時おまえがまだここにいれば」
珍しく感傷的な物言いをする国王を前に、サリエルはしばし沈黙した。何か思いを巡らすように瞼を伏せている。
軽やかな足取りで、セファイドは再び歩き出す。もう空の月へは一瞥もくれない。
その隣につき従いながら、
「……しばらく旅に出たいのですが、お許しを頂けますでしょうか?」
と、サリエルはやや唐突に切り出した。
セファイドはじろりと楽師を見て、
「さっそくオドナスを去るか?」
「いえ……数ヶ月で戻って参ります」
「ならば別に構わないよ。おまえは自由だ」
「ありがとうございます」
行き先も目的も、彼は尋ねなかった。もともと旅を我が家としていた楽師である。例えそのままオドナスを出ると言われても、受け入れられる気がした。
おそらくこの楽師を縛ることは誰にもできないのだ――。
「しばらくその楽の音が聴けないのは寂しいが」
慎ましく微笑んだサリエルにそう言って、セファイドは立ち止まった。
彼に向かい合い、右手を差し出す。
「気をつけてな。無事を祈る」
「はい、陛下もお元気で」
サリエルは国王の目を正面から見詰めて、武骨なその手を握った。
固い握手を交わす彼らは実に自然で、十年来の友人のようにも見えた。まだ数か月の付き合いだというのに、奇妙なほど波長が合っている。
一国の王と旅の楽師、人間世界の両極に位置する二人の間に不思議な友情が芽生えていた。
そのくせ別れ際はあっさりとしていて、
「では支度がありますので、私はここで」
「ああ」
とだけ言葉を交わして、二人は別々の方向へ歩き出した。
歩みを止めて、楽師は振り返る。
役人や侍従の持つ風紋殿へ戻っていく国王の後ろ姿は、精悍で逞しかった。
彼はその背中に、責任や使命や、尊敬や恨みや、愛情や憎悪や、とてつもなく重いものを山のように背負っている。
それでいて、彼の足取りは颯爽としていた。
誰よりも重い荷物をやすやすと抱え、軽やかに進んでゆく。その道は研がれた刃先に敷かれたように危うく、一歩でも足を踏み外せば底の見えない谷底に落ちるというのに。
楽師は鏡のような銀色の瞳に敬意と愛情を込めて、国王を見送った。
それは国王個人だけではなく、この国に住まう人間すべてに向けられた感情であるように見えた。
力強い地上の人間とは対照的に、天空の細い月は、今にも息絶えそうに弱々しかった。