変容と受容
午前の眩い日差しが、薄緑色の布越しに柔らかく差し込んでくる。
室内の暖かい空気を、艶のある弦の音色が震わせていた。
ナタレは寝台の上で枕に凭れ、寛いだ様子で耳を傾けている。
窓際の長椅子に腰掛けたサリエルが演奏しているのは、遠い東方の子守歌だった。ヴィオルの深い音色は優しい旋律によく合って、大きな波に揺られているような気分にさせる。ナタレは何度も眠りかけては瞼を開けていた。
当初の高熱は下がったものの、まだ微熱がしつこく続いていて、彼は医師から安静を厳命されていた。
とはいえ五日も休んで体力も十分に戻ったので、明日には学舎の方へ戻る予定だった。
「……こんなにダラダラしていると、身体が鈍って仕方ないよ」
ヴィオルの音が止むと、ナタレは大きく息をついて呟いた。さすがにもう点滴は外されている。寝台の脇机には、王宮の書庫から借りてきた本が山積みになっていた。
サリエルは彼の退屈そうな不満顔を見て、くすりと笑う。
「長旅の後の休養だと思って、まあのんびりすることだね。学舎へ戻っても、しばらくは王宮へ出仕しなくていいと言われているんだろう?」
「働いていた方がよっぽど楽なんだけどな」
ナタレはあくびをして鼻を擦った。
――ロタセイに対する正式な処分が決まったのは昨夜の話だ。病床の彼の元へもその知らせは届いていた。
結局、今回の武装蜂起は私的な諍いであったと見なされ、騒乱罪として裁かれることになった。
首謀者ハザン個人への処分は免れたが、ロタセイは自治権を剥奪され、今後は東部知事の統治下に管理される。また、ロタセイの王位は一時オドナス国王預かりとなり、ナタレの身柄もこのまま王都に留め置かれることとなった。
これがもし国家に対する大逆罪に問われていれば、ハザンもナタレも他の加担者も極刑に処されていただろう。自治権を奪われ王権を差し止められたとはいえ、懲罰としては軽く済んだと言える。
その代わり、サイハング知事も表立って裁かれることはなく、知事職を罷免されて政治の舞台からは姿を消すことになったという。事実上の失脚である。
「新しい東部知事は、王族ではないが、陛下のご信任厚い優れた人物だそうだよ。それに王都からの監査も厳密になると聞く。ひとまず安心だね」
サリエルはヴィオルの弦を弾いて調律をしながら、そう話しかけた。
新任の知事は、東方へ向けて近々王都を発つ予定になっている。
領地に着いて最初の仕事は、前任者の不正に加担した者たちの洗い出しと処罰、それに、前ロタセイ王の葬儀の許可を出すことだ。
ナタレは複雑な表情で肯く。
「自治権を失うことについて、故郷の皆が納得するよう説き伏せるのは骨が折れると思う。兄上は苦労するよ……何しろロタセイの民は、まあ気位が高いから」
少し自嘲的な響きを聞き取って、サリエルは顔を上げた。
「分かってる、俺も前はそうだった」
ナタレは穏やかに言って、自分の手元に視線を落とした。
「王都に来た時は、オドナスに迎合するくらいなら一族ごと滅びた方がマシだと信じてた。冷静に考えれば、例えロタセイがオドナスに吸収されたとしても、別に俺たちの存在自体が消えてなくなるわけじゃないのにな……今はとにかくロタセイの皆が生き延びられればそれでいいと思ってるんだ」
彼の右手の掌には、まだ一筋の傷跡が残っている。イエパの懐剣を止めた傷だ。
死なせたくなかった。義母にも兄にも弟妹たちにも、生きていてほしいと願った。この先この巨大な王国がどうなろうとも、ひたすら命を繋いで生き抜いてほしい。
王族の責任でも王太子の使命でもない。ただ彼らが好きだから、大事だから、理性より先に感情がそう命じる。
彼らの存在は自分を支える根幹――自分もまた彼らに守られていたのだと、ナタレはやっと分かった。
「大事なものを守るためなら、俺は何でも利用するし誰にだって頭を下げるよ。泥を被ろうが恥を晒そうが気にもならない」
少し考え方が柔らかくなった少年に、サリエルはゆっくりと肯いた。
「それが君の答え?」
「暫定的なね」
ナタレは晴れやかな表情で窓の方を見た。開き直りと切り捨てるにはずいぶん前向きだ。
「また考え方は変わるかもしれない。でも自分が変わってしまうことはそう怖くないんだ。それはその時と受け入れられる気がする。ここでいろんな人に出会えたおかげかもな」
十年後の自分、一年後の自分、明日の自分、一瞬先の自分。考えようによってはみな別人だ。ならば、何があろうと決して変わらない自己を求めるのは傲慢ではないか。
俺は決して強くない。だから、変わることができるんだ。
そんなナタレの考えを見通したように、サリエルは答えた。
「人間はひと時たりとも同じではいられないんだよ。生きている限り変わり続ける――それが人間の素晴らしいところだ」
君の精神は本来もっと柔軟で生気に満ちているはず――かつてロタセイの王太子にそう説いた楽師は、優しく微笑んだ。
彼の美貌には慣れているはずのナタレが思わず恍惚と見蕩れてしまったほど、美しく慈愛に満ちた笑みだった。
サリエルの銀色の瞳は、何物にも染まらず澄み切っている。それは彼が他者を受容しているからか拒絶しているからか、それともただ傍観しているからなのか。
どちらにせよ、サリエルの静謐な眼差しはまるで鏡のようで、対峙する人間の心の最奥にあるものを自然と呼び出してしまうのかもしれない。ナタレは、自分がこんなにも素直に話ができたことが不思議だった。
この人は何者なんだろう、と今さらのように思う。
「……あなたはずっと変わらないような気がするよ。何だかいつまでもそのままのような」
ナタレはぼんやりとサリエルを見詰めて呟いた。
サリエルは笑みを消さず、ヴィオルの弦に弓を当てた。
新しい曲が流れ始める。初めて耳にするのにどこか懐かしさを感じる旋律だった。
楽師の出自を勘ぐるのを諦めて、ナタレは目を閉じた。自分が物凄く贅沢な時間を過ごしているのに気づく。
同じ楽人でも、今日の午前中に見舞いに来たキルケはずいぶん雰囲気が違った。
よく生き残れたわねえ、男になったわねえなどと軽口を叩きながら、ナタレの頭を撫でたり小突いたり、好き放題からかって帰っていった。
キルケらしい励ましだったのだろうとは思うが、正直ナタレはどっと疲れが出た。彼女の大人っぽい仕草や匂うような色香は、どうにもまだ苦手なのだった。
だから余計にヴィオルの音色に心が安らぐ。彼の演奏を独りで聴ける機会はそうそうない――幸運だ。
「あーっ、ナタレずるい!」
場違いな大声が響いて、ナタレは目を開けた。曲が止まる。
部屋の入口にリリンスが姿を現したところだった。
「ずるいって……」
「サリエルを独り占めするなんて! 贅沢すぎるわよ」
彼女はつかつかと部屋に入ってくる。
ナタレは驚くよりも呆れた。許可は得たのか、勝手に来たのか、などと尋ねる気にもならなかった。
「二人っきりで楽しそうにして……怪しい」
リリンスは拗ねたように言って、長椅子の背凭れの向こうから、サリエルの首にぎゅっと腕を巻いた。私のもんだ、と言わんばかりである。
サリエルは冷静に、
「姫様、首が締まります」
「私を仲間外れにするからよ」
「お一人でお見舞いですか?」
「あ、そうだった」
リリンスは身体を離して、入口を振り返った。
彼女が手招くと、外で待っていたらしい大勢がわらわらと入室してきた。
「みんな……」
大きく目を見開くナタレの前で、先頭の人物が大股に駆け寄ってくる。
「ナタレ! よう戻ってきたなー!」
顔をくしゃくしゃにして飛びついてきたのは、フツだった。
彼の後ろには他の留学生たち全員が揃っている。誰もが安堵の笑顔で寝台を取り囲んだ。
「おまえら何で……」
上半身をぎゅうぎゅうと抱き締められて、ナタレはフツの肩越しに学友たちを眺めた。
リリンスは腕組みをして得意げに笑う。
「あなたの無事な顔が見たいだろうと思って、私がお父様にお願いしてあげたのよ」
「明日には学舎に戻りますのに」
「少しでも早い方がいいでしょ」
ナタレは苦笑して、力任せにしがみつくフツを押しのけた。さすがに苦しい。
「……助命嘆願書を書いてくれたらしいな。ありがとう、みんな」
彼は一人ひとりの顔を順番に見て、大きく頭を下げた。
「ほんっとうにありがとう! 心配かけてすまなかった」
「水臭いこと言うなや、困っとる時に助けるんが友達やん」
フツはナタレの頭をぐしゃぐしゃと荒っぽく撫でた。
「なあ、姫様」
「そうね、ナタレ、全員に借り作っちゃたわね。どうやって返す?」
リリンスが意地悪く言うと、みんな声を上げて笑った。いつの間にやら王女と留学生が仲良くなっていたようで、ナタレは言葉が出なかった。
全員まとめてアノルト殿下に殺されても知らんからな――そう言いたいのを我慢して、大きく溜息をつく。
フツはにんまりして、仲間を見回した。
「で、せっかくやから、退屈しとるはずのおまえに差し入れを持ってきてやったで」
「差し入れ?」
「ほらっ」
彼の合図で、みんな同じようににんまりし、服の内側から本を取り出した。どれも数枚の紙を束ねただけの薄い冊子だ。何やら色刷りの絵が描かれている。
「え、フッくん、何それ?」
「あかんあかん、姫様は見たらあかんもんです。ほらナタレ、さっさと隠せ」
人数分、三十冊以上の冊子を押し付けられ、その内容を見て、ナタレは途端に真っ赤になった。
「お、おまえら! 馬鹿かっ!?」
「何言うてんねん。王都中探して買い漁ったんやで。嫌いやないやろ?」
「こんな所でこんなもん渡すな! 姫様っ……見ては駄目です、目が腐ります」
興味深げに手に取ろうとするリリンスから冊子を奪い取り、ナタレはこれ以上ないくらいに慌てふためいた。
少年たちの陽気な笑い声が部屋中に弾ける。
彼らの熱気と活力は、朝の太陽と同じように明るく力強く――ナタレもまた笑ってしまった。
自分たちの状況は決して恒久的なものではないと分かっている。いずれはそれぞれ、答えを出さなくてはならない日がくる。
それでも今は、この中途半端な猶予期間を楽しんでいたかった。
「あれ……」
喧騒の中、リリンスがふと周囲を見回す。
いつの間にかサリエルは部屋を出ていったらしく、三日月のような美しい姿はもうそこにはなかった。
次回、最終話とエピローグになります。