三度目の告白
同じ日の夜、キルケはシャルナグ将軍宅を訪れた。
「本日はお招きありがとうございます。無事のご帰還、お喜び申し上げますわ」
キルケは居間でシャルナグと対面すると、丁寧に頭を下げて挨拶した。朱色の衣装に身を包み、縮れた長い髪を緩く編んだ歌姫の姿は、まるで舞台に立っているかのように華やかだった。
シャルナグはそんな歌姫を見て眩しそうに目を細める。
「うむ、何か土産をと思ったのだが、あまり時間もなくてな……これをあなたに」
テーブルに置いてあった素焼きの瓶を手に取り、差し出した。小さいが重たげな瓶だ。
キルケは両手で瓶を受け取って、不思議そうに耳元で振ってみた。
「これは何ですの?」
「スンルー産の蜂蜜だよ。王都で流通しているものより味が濃い。収穫量が少なくて、東方の地でしか手に入らないとか」
「まあ、そんな貴重なものを私に?」
「湯に溶かして飲むと喉にいい」
強面の将軍の心遣いに、キルケは目を伏せて感謝の意を表した。
高価な服や装飾品を贈る贔屓筋は多くても、こういった繊細な気配りの品を思いつく者はそうはいない。
「ありがとうございます、シャルナグ様。寝る前に飲むようにしますね」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
「では……今宵はどんな歌をご所望でしょう?」
礼をするようにさっそく歌う準備を始めるキルケを、シャルナグは戸惑いがちに制止した。
「いや……今夜はいいのだ。とりあえず掛けてくれ」
どことなく緊張したシャルナグの様子を怪訝に思いつつ、キルケは長椅子に腰を下ろす。
シャルナグもまたテーブルを挟んで彼女の正面に座った。
贅沢に並べて灯された蝋燭のおかげで、室内は十分に明るい。しかし将軍は暗がりで小さなものでも探すようなしかめっ面で黙り込んでいる。
女中が茶を運んで来たが、その間シャルナグはずっと無言だった。
「あの……シャルナグ様……?」
沈黙が続くのでキルケが声をかけると、彼はようやく息を吐いて動き出した。
「ああ、すまんな。何から話せばよいのか迷ってしまって……」
「と、おっしゃいますと?」
「今回の遠征で二ヶ月以上も王都を離れて……ナタレの故郷や肉親を見たから余計に感傷的になったのかもしれんが、私には家族がいないから、私の帰りを待つ者はいないと気づいたのだ。もちろん将軍としての私を待っている者は多いのだろう。だが私個人をというと……これが誰もいない」
シャルナグは珍しく回りくどい言い方をした。
ぽかんとするキルケの前で、
「まあそれは以前から分かっていたことなのだが、それでは誰に待っていてほしいかと考えた時に、思いつくのは、やはり、あなただったのだ」
と、しごく真面目な表情で彼女を見詰める。
「はあ……あの……」
「キルケ殿、私が再び妻を持つとしたら、それはあなた以外に考えられない」
悩んで告げた割には、彼の口調はずいぶん堂々としていた。自分に何ら恥じ入るところがないのだろう。
キルケは右手を胸に当てた。
「シャルナグ様……それを聞くのは三度目ですわ」
「分かっている」
「前は確か、一年前のロタセイ遠征から帰還された折……その前はいつだったかしら、やはり戦から帰って来られた時でした。長く王都を離れられた後には必ずそんなことをおっしゃるのね」
彼女は紅を乗せた唇に苦笑を刻み、それからきちんと居住まいを正した。
「私のお返事は同じです。私はあなたの妻になれるような女ではございません。ご存じの通り、もと娼館の卑しい女奴隷です。たまたま歌が上手かっただけの」
「そんな言い方をするんじゃない」
シャルナグは身を乗り出した。少し怒ったような表情だった。
「キルケ殿の価値とは何の関係もないことだ。第一、あなたは自分の出自を恥じてなどいないだろう。いつも凛としていて、噂や悪意など寄せつけず――だから私はあなたを」
「私自身が恥じていなくても、他人の評価はまた別です。オドナスの大将軍が奴隷上がりの女を娶るなど、王宮で何と言われるか」
「他人に非難されて困るような家柄ではない。将軍職は世襲ではないし、私とて、もとは一介の兵士だ」
キルケは笑みを浮かべたまま俯いた。蝋燭の灯りが、褐色の頬に艶めいて映える。
「……あなたにはもっと相応しい方がいらっしゃいますわ。私は一生誰の妻にもなりません。歌さえ歌えれば満足なのです」
思い詰めた様子ではなかった。低い声はあくまでも明るくて軽い。
だがそれだけにはっきりとした拒絶が伝わってきて、シャルナグは柄にもなく胸が痛んだ。しょげたり、逆に激高したりするほど若くはなかったが、彼は背凭れに首を預けて天井を仰いだ。
「キルケ殿……あなたが国王陛下を愛しているのは知っている」
彼の呟きに、キルケは顔を上げた。
驚いてはいるが動揺の気配はない。彼女はほんの少し眼差しを険しくして、将軍を見据えた。ここでそれを口にするのは卑怯だ、と非難するように。
シャルナグは彼女の無言の抗議を穏やかに受け止めた。
「だがあいつは、それがどんなに才能のある女であろうと、自分の側女を宮廷歌手に祭り上げたりすることを嫌う。歌と恋心の間で、あなたは悩んだはずだ」
「そして私は歌を選んだのだわ」
キルケはどことなく気だるげに応じた。
「歌で身を立てることは夢でしたし、その方が長くあの方のお傍にいられると思いました。数多い愛妾の一人になるよりも、国一番の歌姫でいた方が希少価値がありますもの」
「あなたがあいつを好きでも構わない。私はただ……ここであなたが待ってくれていると思えば、砂漠の果てからでも必ず帰って来られる。私は一生、キルケ殿の歌をいちばん近くで聴いていたいのだ」
シャルナグは強い髯に覆われた顔を紅潮させて、真摯に真っ直ぐに語りかけた。実直な彼らしい、飾り気のない正直な思いだった。
しかしキルケの表情が悲しげに歪んだのを見て、彼はすぐに自制した。
「す、すまん、年甲斐もなくこんなことを……自分がこれほどしつこい男だとは思ってもみなかった。あなたを困らせるつもりはないんだ」
これまでの堂々とした態度の反動のように、急に当惑して目を泳がせる。自分がとんでもなく大胆な告白をしてしまったと、いたたまれなくなったのだ。
気まずげな様子の将軍を前に、キルケはそっと立ち上がった。
テーブルの端を回って彼の椅子の脇に歩み寄り、その場に膝をつく。
「シャルナグ様、あなたのお気持ちは本当に勿体なく、嬉しく思います。けれどやはり、お申し出をお受けすることはできません」
「そうか……」
「ですが、もしあなたがお望みならば……」
彼女はシャルナグの節くれ立った手に自らの掌を重ねた。
切れ長の目が、艶めかしく潤んで彼の顔を映す。
「今宵一晩だけ、お相手をいたします。一晩で一生分、あなたを満足させてあげますわ……」
恋歌を口ずさむように囁き、歌姫はうっすらと微笑んだ。驚くシャルナグの手を優しく取って、指先に赤い唇を押し当てた。
「キルケ殿……」
「ですからこれで……私のことはお忘れ下さいませ」
薄い香水の匂いが体臭に混じって甘く漂い、シャルナグは軽い眩暈がした。
至近距離で眺めるキルケの肌は、蝋燭の灯りに照らされていつもより赤らんでいる。首筋に触れると、しっとりと汗ばんだ感触が掌に伝わってきた。
キルケは半分瞼を閉じて、シャルナグに顔を寄せた。
その表情は見蕩れるほどに官能的で、舞台で脚光を浴びる歌姫そのもので――。
背中を悪寒に似た欲動が駆け上がり、彼女を抱き寄せたシャルナグは、しかし、吐息の触れ合う距離で動きを止めた。
彼女にとってここは舞台なのだ。男を惑わせる際どい恋の歌を歌っているだけなのだ。
そう気づいて、彼はそっとキルケを押し返した。
「いや、やめておこう」
「なぜ?」
「私もあなたと同じだ、キルケ殿。あなたを一晩だけ手に入れられるよりも、ずっとあなたの崇拝者でいることを選びたい」
ひどく真面目な口調で言われて、キルケは一瞬呆気に取られ、それから勢いよく横を向いた。口を押さえて、吹き出しそうなのをこらえている。
先ほどまでとはまったく違う、歌姫の素顔を見た気がしてシャルナグはほっとした。
「笑うな」
「ご、ごめんなさい……だってあんまりキザで……似合いませんわよ……あははは」
キルケは我慢できなくなったらしく、声を上げて笑い転げた。
ひとしきり屈託なく笑った後、憮然とするシャルナグの前で衣服の胸元を直す。
「二度とない機会なのに、そうおっしゃるのなら仕方ありませんね。ではせめて歌わせて頂きますわ。よろしいかしら?」
立ち上がって髪を掻き上げる彼女からは、もう淫靡な空気は消え失せている。恐るべき切り替えの速さだった。
シャルナグは苦笑して椅子に座り直した。
甘い残り香が、まだ鼻先に残っている。絶好の機会をみすみす逃してしまい、惜しむ気持ちがなくもない。だがこれでよかったのだと思う。彼が望んでいるのはそういうことではないのだ。
出された茶は、テーブルの上で冷めてしまっている。キルケはそれを一口飲んで喉を潤おし、居間の奥へと移動した。
「……意気地なし」
彼に背を向けて、そう呟きながら。
このコンビお気に入りです。