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水面の月を抱く国  作者: 橘 塔子
第六章 故郷で待つもの
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兄の覚悟

 ハザンは城に入ってすぐの小広間で拘束されていた。

 広さからして会議などに使われる部屋なのかもしれない。今は家具も何もなく、石の床に絨毯が敷かれただけの殺風景な空間だった。

 王都の建物とは違い閉鎖的で薄暗かったが、小さな窓が壁に並んでいる。そこから柔らかい日光がうららかに差し込む。


 今回の反乱の首謀者たるハザンは、十人あまりのオドナス兵に取り囲まれて床に座らされていたものの、枷や縄をかけられてはいなかった。見たところ大きな怪我はしていない様子で、ナタレはほっとした。


 ナタレとシャルナグが入ってきた時、男の大声が広間に響き渡っていた。


「取り調べをするまでもない! この男が主犯に間違いない!」


 やや甲高い声で怒鳴り散らしているのは、この場でただ一人毛色の違う人物だった。

 年齢はシャルナグと同じくらいで、甲冑ではなく裾の長い平服を身に着けている。太ってはいないがどことなくたるんだ印象の男だった。


「さっさと首を刎ねたらどうだ。そのために来たのだろう!?」


 兵たちの前をせわしなく歩き回る男を、オドナスの師団長が宥めている。


「我々に属国の王族を裁く権限はないのです、閣下。国王陛下のご判断を仰ぐまでは捕虜として身柄を保護せねばなりません」

「黙れ、下っ端軍人が! この私を二ヶ月も監禁しおったのだぞ。ロタセイなど女子供に至るまで焼き殺してやれ!」


 顔を真っ赤にして喚く男は、どうやら人質になっていた東部知事サイハングらしい。もともとは柔和な顔立ちなのだろうが、それが今は獣じみた怒りの表情に歪んでいた。


「犬の分際で飼い主に逆らうとどんな目に遭うか思い知らせてやればいいのだ。その男は斬首する前に手足を引きちぎってしまえ」

「……偉そうな口をきくな、下衆が」


 ぼそりと呟いた声は、その低さと冷たさゆえによく響いた。

 床に胡坐をかいて座ったハザンが、じっと知事を見上げている。


「自分だけでも助けてくれと、俺たちに泣いて命乞いしたくせに」

「で、でたらめをほざくな!」


 知事は師団長の止める間もなく、ハザンの顔を蹴り上げた。

 勢いで仰向けに倒れた彼を何度も蹴りつけ、さらにのしかかってその胸倉を掴む。


「卑しい遊牧民め! 愚弄すると許さんぞ!」


 無抵抗のまま暴力を受ける兄の姿に、さすがにナタレは飛び出していきそうになった。だがシャルナグがそんな彼の肩を掴んで引き止め、大股で知事に近づいた。


「そのへんでもういいでしょう、サイハング閣下」


 シャルナグは振り上げた知事の拳を背後から掴んだ。

 知事が驚いて振り返り、周囲の兵たちが慌てて頭を下げる。


「我が軍では私刑は認められておりません。それにロタセイは貴殿の飼い犬ではありませんぞ。れっきとした自治国です」

「おお将軍か……短時間で城を制圧した采配は見事であったぞ。だがこの罪人には報いを受けさせねば……」

「おや、少しお痩せになりましたか。だが髭も髪も整えられておられるし、何よりそれだけの体力がおありとは、少なくともロタセイは貴殿ら人質を人道的に扱ったのでは?」


 シャルナグは知事の襟首をひょいと握って、強引にハザンから引き離した。

 知事は乱れた上着を不機嫌そうに直す。激高したところを将軍に見られて、さすがにバツが悪くなったようだ。

 それから入口近くに突っ立ったままのナタレに気づき、


「あの若いのは何だ?」

「ロタセイの正統な王太子、ナタレ殿です。貴殿が今蹴り上げた男の弟君ですよ」

「ふん、同じ犬の仲間か」


 蔑みきった物言いを、ナタレは我慢した。ここでこの男と悶着を起こしてもどうしようもなかった。

 シャルナグは溜息をつきながら、甲冑の内側から一通の封書を取り出した。


「いったん帰還するよう、国王からの命令書です。準備が調い次第、王都へお戻り下さい。兵の一部を同行させます」

「あ、ああ、承知した。国王の前でこやつらの凶行を証言してくれるわ」


 封書の中身を確認した知事は、憎々しげにハザンとナタレを睨みつけて、足早に広間を出ていく。王都に戻れば、監禁中の扱いについてあることないこと触れ回るのは目に見えていた。


 ナタレは広間の中央へと歩き、兄の前に立った。

 ハザンは鋭く冷たい眼差しで弟を見上げる。先ほど知事に蹴られた右頬は腫れて血が滲んでいる。身を包む緋色の衣装にも、戦闘の名残りか汚れと破れが目立った。


「兄上……ご無事で」


 絞り出すように言ったナタレへ、ハザンは殺意に近い憎しみの籠った表情を向けた。


「よく俺の前に顔が出せたな、ナタレ。オドナス軍を引き連れて得意げに凱旋か?」


 前庭でロタセイ兵から向けられたのとは桁違いの敵意を感じ、ナタレの身体が強張った。覚悟はしていたが、肉親からこのような言葉を浴びせられると、やはりきつい。

 だが、ここで引くわけにはいかなかった。


「将軍、申し訳ありませんが、少しの間二人だけにしてもらえませんか?」


 ナタレは兄の方を向いたまま、シャルナグにそう要請した。

 丸腰とはいえ手枷も嵌められていない捕虜と二人きりになる。危険な状況を作ると分かりきってはいたが、シャルナグは肯いた。


「外で待つ。何かあったらすぐに踏み込むぞ」


 と、不安げな師団長をはじめ他の兵たちを連れてその場を離れた。

 彼らがいなくなると、ナタレは大きく息を吸い込んだ。


「なぜこのような真似をなさったのですか、兄上? 本気でオドナスに勝てるとでもお思いだったのですか?」


 弟の問いに、ハザンは答えない。剣を持たせたらすぐにでも斬りかかってきそうな殺気を発しながら、頬の血を拭う。

 窓からの日光が、緊張の気配も知らぬげに、兄弟の上に暖かく降り注いでいる。

 ナタレはなるべく冷静に言葉を繋いだ。


「オドナスは兄上が考えている以上に強くて豊かな国です。ロタセイ一国が反旗を翻したところでびくともしないでしょうし、また我々に同調する他の部族がいるとも思えません。オドナス支配の中でロタセイの独自性をどう守るか、今はそれを優先して考えるべきです」


 闇雲に独立を求めても無駄な血が流れるだけ。それよりも今はオドナスの支配を受け入れ、繁栄を極めるあの国から吸収すべきところは吸収し、その上で自分たちの矜持を保つのだ。

 それがナタレの出した暫定的な回答であった。

 だが彼は独立を諦めているわけではない。どんな巨大な国であろうと永久には続かないはず。いつか必ず分裂する日がくる。その時に備えて祖国を守り続ける――。


 ひたむきに語りかけるナタレの前で、ハザンはゆっくりと立ち上がった。

 上背のある引き締まった体つきはナタレよりもずいぶん逞しいが、二ヶ月に渡る籠城で憔悴したように見えた。


「おまえこそ、なぜここにいるのだ? ロタセイ王太子のおまえが、なぜオドナスに加担して同胞を殺す? どんな屁理屈を捏ねても、結局は保身のため祖国を売ったのだろうが。この恥知らず!」


 紛れもない悪意の矛先を真正面から向けられて、ナタレは全身の血が熱くなるのを感じた。幼い頃から親しんだ兄の豹変を悲しむよりも、まず怒りが勝った。


「そんなことを言われる筋合いはない!」


 ナタレは初めて大声を出してハザンに詰め寄った。


「俺は兄上の馬鹿な扇動からロタセイを救いに帰ってきたんだ! 人質になった俺がこの一年、どんな思いで王都で過ごしてきたか分かってるのか!?」


 イエパ王妃の怯えた表情や、庭に並べられた遺体や、同胞の兵士からの敵意のある視線が脳裏に浮かぶ。酒場でのシャルナグの忠告を思い出すまでもなく、抑えに抑えてきた感情がいっきに溢れ出した。


「皆を死なせたのは兄上だ! 王の崩御に乗じて勝手な真似を。父上がこのようなことを望んでいたはずがない」


 日焼けした頬を怒気に紅潮させ、黒く燃えるような目で睨みつけるナタレに対し、ハザンはふっと笑った。憐れみと蔑みの混じった、投げやりな微笑みであった。


「父上の望みか……ナタレよ、おまえは本当におめでたい奴だ。父上がおまえに何を望まれていたか、気づきもしなかったのだな」

「何だと……どういう意味だ?」

「なぜおまえが王太子に選ばれ王都へ送られたか、本当に分かっていないのか?」


 含みのあるハザンの口調に、ナタレは急に不安になった。

 こめかみの辺りにうっすらと靄がかかる。何かとんでもない事実を隠すように。


「おまえは一族の誰よりも誇り高く、意志と責任感の強い王子だった。だからこそ父上は期待したのだ」


 ハザンは笑みを消して、険しい表情でナタレを見下ろした。


「おまえが、オドナス国王を殺してくるのをな!」


 足元がぐらりと揺れるような感覚が、ナタレを襲った。

 兄の言葉の意味を、脳より先に身体が理解した。


「俺が……国王を……?」

「オドナスは現王が一代で大国に育て上げた国だ。まだ今なら内部の組織はもろい。国王さえ倒れれば、その機に乗じて反乱を起こす属国はロタセイ以外にも多いだろう」


 後ずさりするナタレの肩口を、ハザンは掴んだ。骨が軋みそうなほどに強い力だった。


「刺し違えてでも国王を亡き者にできれば、祖国に独立の好機を与えられると――そうは考えなかったのか? しかもおまえは侍従として奴の身近にいた。寝首を掻くこともできたはず。自分の命さえ惜しまなければな」


 侍従見習いに取り立てられたことを父に知らせた時、父からの返事には、王太子として相応しい働きを期待している、と書かれていた。

 相応しい働きとは、つまり、そういうことだったのか。

 父の死とロタセイの反乱を知った時以上の衝撃が、ナタレから表情を奪っていた。彼が知ったのは、自分の正体だった。


 自分は、暗殺者だった。


 考えなかったわけではない。図らずしも国王のすぐ傍に仕え、今なら背後からひと刺しにできると思ったことは何度もある。だがその度に、故郷のために我慢しろと自分に言い聞かせていた。

 故郷のためとはただの言い訳だったのか――単に死ぬのが怖かったのかもしれない。

 王都でひたすら従順に平穏に暮らしてきた日々が、実はとんでもなく見当違いであったと知って、いたたまれなくなる。


「兄上……兄上、俺は……」


 動揺のあまり震えだしたナタレの肩を、ハザンは突き放すようにして離した。ナタレはふらふらと数歩後退する。


「おまえは父上のお心を汲み取れなった愚かな息子だ。せめて別の役目を果たせ。ナタレ、俺を斬るんだ」


 ハザンは呻きに似た低い声で言う。

 窓からの日差しが彼の顔にくっきりと濃い影を落とし、初めて見る他人のような表情を作り出している。


「俺の首を手土産に、オドナス王に詫びを入れろ。ロタセイを救う道はそれしかない」

「い……嫌だ……!」


 ナタレは大きく首を振った。

 思ってもみなかった事実を突きつけられ動揺したところへ、さらに追い打ちを掛けられて冷静に判断ができなかった。ここへ来るまでは、場合によっては兄を討つ覚悟をしていた。それなのに、今口をついて出るのは正直すぎる気持ちだった。


「兄上を殺すなんてできない! 俺が間違っていたのならなおさらだ。絶対に嫌だ!」

「この期に及んでぬるいことを言うな!」


 弟とは対照的に兄の口調は明瞭だった。


「オドナスの裁きに任せば、少なくともロタセイの王族は全員処刑される。母上も弟も妹たちもだ。おまえの手で首謀者の俺を殺し、他の皆の助命を国王に乞え。それが王太子の役目だ」


 別人のように冷たかった兄の表情がにわかに熱を帯びた。ロタセイを、家族を守りたいと願う彼の本心が、混乱したナタレにもはっきりと伝わってくる。

 ああこの人は本当に兄だ――ともに暮らしていた頃の優しかった兄なのだ。


 ならば、オドナスで罪人として処刑される前に。

 他人に手をかけさせる前に。

 実の弟である自分が――。


 ナタレは左手を腰に伸ばした。

 イエパの懐剣で右手を負傷してしまったため、剣は右腰に吊るしてある。両利きの彼は左手でも不自由なく剣を扱える。


「やれ、ナタレ」


 促すハザンはむしろ穏やかだった。


 兄の覚悟、弟の責任、果たせなかった父の望み――。

 ナタレは充血した目をハザンから逸らすことなく、左手で剣の柄を握った。


 その手首を、そっと押さえた指があった。

 ナタレはびくりと身を震わせて、自分の右腰を見る。もちろんそこに他人の手などあるはずもなく、付近に人の気配もなかった。

 しかし確かに、彼の左手には、柔らかく温かい手が添えられた感触があった。

 剣を抜こうとする左手の袖口から、黒い紐のようなものが覗いている。王都を発つ時に受け取った御守である。おそらく今も彼の無事を祈り続けている少女が、自らの黒髪を編んで作ったものだ。


「リリンス……」


 ナタレは少女の名を呟いた。宝石を扱うように、大切に。

 彼女は彼の手を押さえ、澄んだ大きな瞳で問いかける。

 その答えで本当にいいの? 後悔しないの?


 不審げに様子を窺うハザンの前で、ナタレは剣の柄を握ったまま動きを止めた。眉間が小刻みに震えている。


「早くしろ!」


 痺れを切らしたハザンが叱咤するのと、広間の入口の扉が開くのは同時だった。


 ――姿を現したシャルナグは、室内の様子を見て軽く息を飲んだ。

 兄弟はずいぶん近づいて対峙しており、ナタレは右腰の剣に手を掛けている。それが抜き放たれる直前だったのではと思えて、彼は足早にナタレに近寄った。

 ハザンは将軍が入室するとすぐに弟から距離を取ったが、ナタレの方は身じろぎひとつしない。


「何をしている?」


 強張った横顔に問いかけると、ナタレはようやく我に返ったように瞬きをした。


「いえ……将軍、何でも……」


 剣から左手を離し、その手首を右手で強く握る。そこに何かを守り隠しているかのような仕草だった。

 シャルナグは太い眉を寄せて二人を交互に見たが、すぐに気を取り直して、


「ナタレ、おまえに会わせてほしいと、ロタセイ王妃がおみえになっている。お通しするか?」


 兄弟は同時に顔を上げた。

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