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水面の月を抱く国  作者: 橘 塔子
第六章 故郷で待つもの
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知事府入城

 明るい朝の光に照らされた緑地は、すでにオドナス軍によって制圧されていた。

 よく訓練された駱駝に乗ったオドナス兵が天幕の間を駆け、抵抗を試みるロタセイの守備兵を取り囲んでいる。男たちの雄叫びと威嚇の声が絶望的に響く。


 凄まじい喧騒の中、ナタレは大隊長の姿を見つけて叫んだ。


「すべての天幕を確認して下さい! 誰一人として自害させるな!」


 オドナス兵も命の危険を背負っている以上、ロタセイ兵を傷つけるなとは言えない。だが女子供は全員無事で保護しなければならなかった。

 大隊長が了承の合図に手を上げるのを見届けて、ナタレは自らの駱駝に乗った。

 目にも鮮やかな緋色の衣服は、眩しい陽光と茂みの緑によく映えた。

 オドナス兵に向かって長槍を突き出していたロタセイの守備兵が、ナタレの姿に気づいて愕然と動きを止める。


「皆の者! 俺の顔を見忘れたか!」


 彼は大声で言って、駱駝の鞍につけていた旗を掲げた。

 赤い布に金糸と黒糸で、羊の角と風を表す幾何学模様が刺繍されている。それはロタセイの国旗であった。


 彼は旗を翳して水場の緑地を駆け回った。

 天幕の間を縫い、小競り合いを続ける集団を蹴散らし、片手で巧みに手綱を捌きながら疾走する彼の姿は、国旗の赤と相まって発光する焔のようだった。

 戦闘中の守備兵が次々と彼を見、例外なく驚愕して、武器を引く。天幕が開き、閉じこもっていた女や老人たちが顔を出す。


 水場を一周したナタレは王妃の天幕の前に戻ってきて、ロタセイの民を見下ろした。

 年若い少年ながら拒絶を許さない迫力が備わっており、その風格ともいえる力をそこにいる全員が感じた。


「俺は王太子ナタレ、ザルト王の息子にして正統な後継者だ! これはオドナスによる侵略ではない。王位継承者の帰還である! 男たちは抵抗をやめよ。女たちは自害してはならん。皆の命、この俺が責任をもって預かる」


 彼が知事府の開城作戦ではなく、民の探索に同行したのはまさにこのためだった。

 オドナス軍がいきなり乗り込めば、ロタセイの民はまず間違いなく自決の道を選ぶ。それを防ぎ、なるべく血を流さずに収めることこそが自分の役目だと思ったのだ。


 突如現れた王太子の力強い宣言に、彼らはざわめいた。

 驚きと戸惑いと、わずかな後ろめたさ――彼らはハザンの下知に従ったのだ。その結果人質のナタレがどうなるか分かっていて。


 天幕から子供を連れた王妃が姿を現した。

 彼女はナタレの前に進み、その駱駝の足元にためらいなく跪いた。


「ナタレ様、我々はあなたに従います。新たな王としてあなたを受け入れます」


 もう涙は拭いていた。正室の亡き後王妃として先の王を支えたイエパの、優しさと凛々しさはロタセイの民に慕われている。その彼女のひたむきな口調に、ざわめきが静まっていった。

 まず天幕の前の守備兵が膝をつき、それから天幕から出てきた老婆が平伏し――気づくと水場に集まった三千人のロタセイの民が全員跪いていた。


 国旗の旗竿を握り締めたナタレの右手は、傷ついてはいたが震えてはいなかった。研ぎ澄まされた刃のような眼差しで民を睥睨している。それを見てイエパは泣き笑いの表情になった。


 やはりこの少年はあの母親の子――自分はどんなことをしてでも息子ハザンを止めるべきだった。この子に従わせるべきだった。

 知事府の城で不毛な抵抗を続ける息子を思って、彼女は両手で胸を押さえた。





 分厚い扉の向こうで、慌ただしい足音と大勢の人の気配が湧いた。

 城壁が崩されると城は下層から次々に破られ、残った味方は皆この最上階の知事室に追い詰められていた。

 少し前、侵入した敵兵によって城門が内側から開かれた。正面からオドナス本隊が攻め込んできた以上勝ち目はない。

 そしてこの知事室の前にもオドナス兵の一団が迫っている。


 ハザンは扉の前に立ち、仲間を振り返った。

 三十人はいるだろうか――誰もが緊張の面持ちで静まり返り、腰の剣に手を掛けていた。


「こんなことに巻き込んですまなかった」


 ハザンは彼らに向かって深々と頭を下げた。


「俺の見通しが甘かったせいだ。やはり俺には父上の代わりは務まらなかった」

「何を言うのだ、ハザン!」


 一人が声を上げた。ハザンの叔父にあたる男だ。


「皆おまえの思いに賛同したからこそここにいるのだぞ。最後までついていく。あのような屈辱に耐えるくらいなら、戦って死んだ方が百倍は名誉だ」


 そうだ、と同調する声があちこちから上がった。

 閂の掛かった扉が、外側から激しく鳴った。


「ロタセイ第一王子ハザン殿はおられるか!」


 外から呼びかける声は実に堂々としていた。


「私はオドナス王国の将軍シャルナグである。この城は我々が制圧し、人質となった知事閣下も無事救出した。もはや貴殿らに勝機はない。速やかに投降されよ」


 ハザンは扉を睨み据えて唇を噛み締める。

 正午まで待つという将軍の言葉を信用した自分が甘かった。一年前と同じ相手に、また負けるのか――。

 将軍はしばらく待ったが、


「ご返答頂けぬようなら、これより室内に突入する。どうか無駄な抵抗はなさらぬように」


 と、告げた。


 ややあって、扉が大きな音を立て、激しく内側にたわんだ。

 ハザンは息を吐いて、ゆっくりと剣を抜いた。

 敵の目的はあくまでも知事府の解放、ロタセイを虐殺しに来たわけではないと分かっていた。しかし最初の一人は死ぬだろう。そしてその一人には自分がなるつもりだった。

 木がへし折れ、金属が弾け飛ぶ音がして、ついに扉が破られた。


 号令とともにオドナス兵がなだれ込んでくる。室内のロタセイ兵たちもいっせいに武器を抜いて身構えた。

 ハザンは背後の仲間を庇うように、真っ先に斬り込んでいった。


 剣を叩き合わせ攻撃を掻い潜りながら、壊れた扉の外を目指す。ロタセイを二度も負かした将軍に、一矢なりとも報いてやりたかった。

 何層にも壁を作った敵兵の向こうに、ひときわ大柄な黒髯の男が見えた――あいつだ!

 標的に気を取られた分、防御がおろそかになった。一瞬の隙を突かれて、目の前に迫る剣先に気づくのが遅れた。

 やられた、と思うより先に、ハザンの身体は脇から強く突き飛ばされていた。


 横向きに転倒すると、剣を握った腕を敵兵に踏みつけられた。間髪をいれず、数人の兵士がハザンにのしかかり、その動きを封じる。

 床に押さえつけられた彼は何が起こったのか分からず、首を捻じ曲げて周囲を見た。

 さきほどまで彼が立っていた位置には、ナダオムがいた。

 彼の受けるべき刃を胸元に引き受け、傷を押さえた左手の指の間から鮮血が噴き出している。


「ハザン様」


 愕然と見上げるハザンに、ナダオムは意外としっかりした声で告げた。


「あなたはここで死んではなりません」

「おまえ何で……」

「あなたは生きてロタセイをお守りください――ナタレ様とお二人で」


 父王の腹心だった男は膝をついた。苦しげに顔を歪ませながらも、真摯に畳み掛ける。


「ザルト様のお子同士が争ってはいけない……どうかお力を合わせて……」

「ナダオム……!」

「どうか……」


 声は徐々に小さくなって、彼は自らの作った血溜まりの上に倒れ伏す。

 その口元に満足げな笑みが浮かぶのを見て、ハザンは抵抗を諦めた。





 朝日がくっきりと緑の平原を照らし出す頃、知事府の城はあらかた制圧されていた。

 正午までという期限を示しながら、シャルナグは夜明けとともに城壁に発破を掛けた。半日かけて退避なり交渉なりの案を練ればいいと相手に心理的な余裕を与えておいて、その隙を突いたわけである。

 夜の闇に紛れて城に近づいた発破の工作隊に、ロタセイ兵は気づかなかった。眼前に迫るオドナス軍本隊に気を取られていたのだ。一ヶ月をかけて派遣された二万名の師団が丸々おとりに使われるなど、考えられるはずもなかった。

 将軍名義の通告文まで送りながら相手を謀ったわけだから、無論シャルナグとて批判を受けるのは覚悟の上である。人質を無事保護するため、とにかく短時間で城を解放するのがこの作戦の目的だった。


 城壁の主要部が火薬で吹き飛ばされると、城へは比較的簡単に侵入できた。

 百名ほどの小隊が崩れた三箇所の城壁から中へ入り、浮き足立ったロタセイ兵の防御を突破して城の正門を内側から開けた。

 本隊が乗り込んできてからはあっという間だった。

 オドナス軍は圧倒的な戦力差でもって知事府のロタセイ兵を蹴散らし、ハザンをはじめとする王族を捕えて、広間に監禁されていた人質を保護した。

 ロタセイの蜂起は、こうして呆気なく鎮圧されたのだった。





 知事府の城の前庭には、正午前の明るい日差しが燦々と降り注いでいた。

 城壁と城の正面玄関の間の、石畳の庭である。二ヶ月に渡る籠城のせいで、石畳の隙間から雑草が顔を出し始めているが、その緑がかえって庭を清々しく見せている。

 だがそんな前庭には、発破の時に使ったらしい火薬の臭いが漂い、石畳は削れて傷んでいた。赤黒い飛沫の染みもあちこちに飛び散っている。


 そして、庭の中央には五十人以上の人間が並んで横たわっていた――ロタセイ兵の遺体である。

 胸を切り裂かれて血に塗れた者、土埃で真っ黒に汚れた者、四肢が奇妙な形に捻じれた者――動かなくなった身体は人形のようだ。オドナス兵が一体一体に布をかけて回っている。

 ナタレはその光景を前にただ立ち尽くしていた。

 山岳地帯から急ぎ引き返した彼が知事府に到着した時、すでに戦闘は終結していた。駱駝で小高い丘を駈け登り、城門を潜った彼がまず目にしたのがこの遺体だった。


 呆然とするナタレの周囲を低いざわめきが包む。

 前庭には、遺体の他に、生きて捕えられたロタセイ兵のほぼ全員が集められていた。

 彼らは手枷を嵌められ、数人まとめて縄で繋がれていた。オドナス兵に取り囲まれて厳しく監視されていたが、誰一人としてうなだれている者はいないようだった。むしろ、まだ戦いの途中のようなギラついた眼差しで敵兵を睨みつけている。

 そのロタセイ兵たちが、王太子の姿を認めて動揺しているのだ。『山羊の水場』の再現――ひとつ違っているのは、彼らの視線に明らかな敵意が混じっていることだった。

 オドナスと戦った彼らにとって、ナタレはある意味で裏切り者なのだ。

 同胞から向けられる複雑な思いに気づかないわけではない。それでもナタレは並んだ遺体から目が離せなかった。


 おそらくナタレはすべての遺体の素性を知っている。あの男は牧草地で食事を振る舞ってくれた仲間だ。あの男は凄く歌が上手でいつもその場を盛り上げていた。あの若者には去年子供が生まれたはずだ。ああ、父の腹心だった男もいる――ロタセイはひとつの大きな家族のようなものだった。

 『山羊の水場』では幸いにも死者を出さずにすんだ。しかしこの城ではこれだけの同胞が命を落とした。確認はしていないが、オドナス側にも犠牲は出ているのだろう。

 戦である以上仕方のないこととはいえ、覚悟していたこととはいえ、ずらりと並べられた遺体の数は、嫌でも彼に現実の痛々しさを突きつけた。

 手が震える。足の力が抜ける。自分には止めることができなかったのか。


「これはこの私の戦いの結果だ。おまえが責任を感じる必要はない」


 声に振り返ると、シャルナグが隣に立っていた。彼は身動きの取りやすい軽い甲冑を身に着けて、黒い長剣を腰に携えている。しかしこの戦闘でその剣が抜かれていないのは一目瞭然だった。

 ナタレは喉の奥から込み上げてくるものをぐっとこらえた。腹に力を入れないと泣いてしまいそうだった。


「もし俺がこちらに来ていれば……」

「自惚れるなよ、ナタレ。おまえにできることなどたかが知れている。おまえにできたのは隠れた他の民を救うことだけだった」


 シャルナグの口調は厳しかったが、自分を励まそうとする心遣いを感じて、ナタレは目元を拭った。


「来なさい、兄上に会わせよう」

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