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水面の月を抱く国  作者: 橘 塔子
第六章 故郷で待つもの
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帰郷

 翌日、彼らは予定通り東部駐留軍と合流し、知事府に到着した。

 砂漠の東端であるこの地は緑も多く、知事府の築かれた小高い丘は草原の真ん中にある。堅牢な城を遠望しながら、さっそく中隊長格以上の幹部が集まって軍議が開かれた。


 知事府に囚われているのは、知事と役人、衛兵合わせて約二百名。その他の使用人たちは早々に全員が解放されている。知事サイハングの生死は不明だ。

 城内には数ヶ月篭城するのに十分な食糧と水源が確保されている。ロタセイの兵士八百名は時間を稼ぎつつ、周辺の部族に決起を促す文書を送り続けているらしい。数羽の鳩が捕獲されて書簡が確認されている。

 多勢に物を言わせて城を落とすことは可能だ。しかし王族の一員でもある知事が人質に取られている以上、王都の指示を仰がず強引な真似はできないと現場の軍団長が判断して、駐留軍は周囲を包囲するにとどめている。


 知事府を乗っ取られた失態に、軍団長は命を捨てて責任を取ると平謝りした。


「命はいらんから手を貸せ」


 シャルナグは素っ気なく言い捨てて現場責任者の命を救って、知事府の図面を広げた。


「人質の安全を考えると、攻め落とすのに時間はかけられない。城砦を崩して一気にやるしかないな」

「しかし閣下、知事府の城砦はまだ新しく強固です。そう簡単には……」

「そう思って火薬を持ってきた。技術者もな」


 娯楽のためだけにあれほど見事な花火を打ち上げられる国である。火薬の製造と発破の技術は、世界最高の水準であった。


「城壁には数箇所薄い部分があるはずだ。ここと……ここと、ここだな。発破の工作部隊を編成しよう。夜のうちに仕掛けを作るのだ」


 国王からは、城を多少崩しても構わないと許可が下りている。火薬で城壁を破壊することが多少かどうかは分からないが、将軍の決断は素早かった。

 彼は各隊長の意見を聞きつつ計画を詰めていった。長旅の疲れなど感じさせない精力的な様子である。これからが本番なのだ。


「知事府を乗っ取ったロタセイの兵士が八百名……残りの者はどうした? 女子供まで篭城しているわけではなかろう」

「は……我々もそちらから攻めることを考えましたが、どこにもいないのです。定住集落も彼らの放牧地ももぬけの殻で……集団でいずこかへ身を隠したようです」


 軍団長の報告に、その場の誰もが怪訝な顔をした。

 兵士が知事府で戦っている間に、守備の薄くなった集落が襲われたら元も子もない。非戦闘員を避難させるのが得策だが、住民は三千人はいるはずだ。それだけの人数が隠れる場所など、この地にあるだろうか。


「……心当たりがあります」


 ずっと黙って会議を聞いていたナタレが、初めて口を利いた。

 ロタセイを継ぐべき立場の少年は、静かな表情で列席の隊長らの注目を受け止めた。


「言ってみなさい、ナタレ」

「兵士以外の住民には危害を加えないと、約束して下さいますか?」

「我々はロタセイを滅ぼしに来たわけではない。速やかに知事府を解放し、民をおまえに返すことができればそれでいい」


 将軍の宣言に異存のある者はいないようだった。強大な軍事力を持つオドナス軍は、このような戦い方に慣れている。

 ナタレは目を伏せて感謝の意を示した。


「ここからもっと山岳地帯に入った所に、ロタセイしか知らない湧水群があります。我々は『山羊の水場』と呼んでいますが、岩場に隠されて外部からは絶対に分からない場所です。おそらく皆はそこにいるのではないかと」


 絶対に口外してはならない一族の秘密であった。それをオドナス軍に告げるとは、死ぬまで裏切り者と謗られても文句は言えない。

 すべてを覚悟して、ナタレはロタセイを守ると決めたのだ。

 彼の決意が痛いほど伝わってきて、シャルナグは優しく肯いた。セファイドに命じられた通り、何とかその意思を遂げさせてやりたいと思った。


「分かった。地図上でその場所を示せるか?」

「はい」

「閣下、ではまずそこを押さえて、逆に我らの人質とすればどうでしょう。戦わずして知事府を開城できるやもしれません」


 部下の進言に、シャルナグは首を振った。


「彼らは交渉になど応じないだろう。知事に手をかけるかもしれん。避難した民を探すのは城への攻撃と同時進行でいく」


 犠牲の出ない戦などありえない。オドナス軍も危険を背負っている以上、ロタセイ兵の安全を求めることはできない。

 ナタレは押し潰されそうな心に酸素をおくるように、ゆっくり深呼吸をした。


 どうしたって血は流れる。ならばその血の量をいかに少なく抑えるか――自分はそれを必死で考えなければならないのだ。





 オドナス王国は王太子ナタレを正式に次期ロタセイ王として認める。速やかに知事府を解放し、正統な後継者に服従すべし――。


 夜明け前、知事府正門前の監視塔に打ち込まれた矢には、オドナス国王の印章入りの書面が結ばれていた。

 続けて打たれた第二矢ではシャルナグ将軍名義での通告文が運ばれた。本日正午までに投降しない場合は総攻撃をかけ、いかなる犠牲を払おうとも城を奪還する、と。


 見事に勤めを果たした射手は、オドナス全軍から抜擢された弓の名手であった。

 護衛とともに草原を駆け戻って行く騎影の先には、オドナス軍本隊の姿が黒々と広がっていた。夜のうちに進軍して間合いを詰めていたのだ。


 届けられた書面に目を通したハザンは、驚愕に顔色を失った。王太子である弟をオドナスが処分しなかったどころか、彼の後見となったことはあまりにも意外だった。


「ナタレ……何という恥知らずな真似を……!」


 歯噛みして書面を握り潰したハザンを、他の王族が取り囲んだ。彼の叔父や従兄弟たちで、今回の蜂起に賛同した者たちである。


「どうする、ハザン? オドナスは知事を見捨てたのではないか」

「ナタレがあちら側にいる以上、『山羊の水場』も知られているかもしれん」

「人質を解放して交渉するか?」


 ハザンは首を振った。


「総攻撃をかけられてもこの城壁が落ちるまでには時間がかかる。その間に兵の一部を脱出させ、『山羊の水場』に隠れた民をスンルーに逃がすのだ。知事はその人質として連れて行く」


 山岳部を越えたスンルー側ではタンゼア公が待ち構えている。蜂起が失敗した時には、ロタセイの民を保護する約束が取り交わされていた。


 ある意味これは予想された結末だ――あとはあの男に相応の報いを受けさせるだけ。


 即決したハザンは同胞たちの混乱を鎮め、次の指示を出そうとした。

 その時、雷が落ちたかのような凶暴な音が響き渡った。

 続けて三度――同時に、建物が揺れた。





 彼方から響いてくる低い轟きに、ナタレは思わず振り返った。

 急峻な岩場に囲まれた谷間の道である。崖に阻まれて平原の城は見えない。もう太陽の昇る時刻ではあるが、この狭い谷にはまだ日の光さえ射していない。

 それでも、遠く離れた知事府で何が起きているのか、彼はよく分かっていた。


「始まりましたな、ナタレ殿」


 同行する大隊長が、彼の乗る駱駝に並んで話しかける。

 ナタレは肯いて、


「俺たちも急ぎましょう。『山羊の水場』まであと少しです」


 と、自分たちに続いて谷間を進む兵士を眺めた。彼らは、避難したロタセイの民を探索するため約千名からなる大隊を率いていた。

 ナタレが知事府の開城作戦の現場から離れ、あえてこちらに回ったのには理由があった。

 彼らは駱駝の歩を早め、狭い岩場の道を進んでいった。





 先のロタセイ王の王妃イエパは、外の気配がにわかに騒がしくなったことに気づき、天幕の中で目を覚ました。

 同じ寝台で眠る幼い娘たちを起こさぬようそっと身を起こし、天幕の入口から様子を窺う。


 外はもう薄紫色の光に照らされている。そこかしこに茂った背の低い木々に朝露が宿って、暁光をキラキラと跳ね返す。地面は絨毯のような柔らかな苔に覆われ、しっとりと湿り気を含んでいた。

 岩だらけの谷間に優しく茂った緑は、付近に点在する十個あまりの泉の恩恵だった。山岳地帯を行き来して遊牧生活を送るロタセイの民だけが知る、そこは『山羊の水場』と呼ばれる湧水群であった。


 決して狭くはないその緑地に、多くの天幕が密集している。反乱に伴って定住集落から逃れてきたロタセイの民三千人とその家畜が、ここに身を隠していた。


 彼らの護衛をする兵士たちの声と、慌しげな駱駝の足音、それに羊たちの鳴き声で、イエパは尋常ならざる事態が起こっていることを感じた。


「御方様!」


 兵士の一人が叫びながら駆けてきて、彼女の前で跪いた。

 王妃に対する礼を弁えながらも、蒼白になった顔色から切羽詰った様子がありありと窺える。


「どうしました? 何が起こっているのです?」

「オドナス軍がここを嗅ぎつけました。約千名の軍勢が迫っております。守備兵が水場の入口で応戦していますが、突破されるのは時間の問題です」


 ここが見つかるとは信じられなかった。攻められるのはまず知事府の城であろうと、こちらにはそう多くの兵を配置していない。

 この場所のことは決してバレないはずだった。味方の誰かが口を割らない限りは。


 イエパの決断は早かった。

 避難を促す兵士を制止して、天幕の中へ戻る。

 九歳と七歳の娘は、外の喧騒も知らぬげに毛布の中で眠っている。

 十八歳の長男は二ヶ月前から知事府に篭城し、十三歳の次男もそれに同行していた。母親として無事を祈らない日はなかったが――。

 こうなってしまった以上、王の妻として、王子と王女の母親として、すべきことは分かっている。自分だけではない、ロタセイの女は皆同じだ。


 イエパは寝台の枕の下から、華奢な懐剣を取り出した。

 それは女性の護身用であり、また敵に追い詰められた時の自決用でもあった。


 オドナスの捕虜となり、城で戦っている息子たちの足枷になるわけにはいかない――彼女は震える手に力を込めて、白刃を鞘から抜き放った。細かな模様のあるその鞘を静かに床に置いたのは、娘たちの眠りを妨げないためだった。


「……もうすぐ父様に会えますよ。母様も後で行きますからね」


 彼女は囁いて、我が子の柔らかい髪に口づけた。


 突然、眩い光と冷たい風が天幕の中に満ちた。

 驚いて振り向くイエパの目に、大きく捲れ上がった天幕の入口と、朝日を背に踏み込んできた人間の姿が映る。その人物が連れてきた陽光があまりに眩しくて、彼女は思わず右手を翳した。

 寝台で二人の娘がぱちりと瞼を開いた。


「ナタレ兄様!」


 二人は揃ってそう言って、笑った。


 天幕の入口で内部を見回したナタレは、イエパの手に握られた懐剣に気づき、瞬時に状況を把握したようだった。


「イエパ様おやめ下さい!」

「ナ……ナタレ……あなたどうして……?」


 呆然とするイエパの前で、彼は素早く天幕の奥へ駆け込んだ。

 寝台で身を起こした二人の妹を毛布ごと抱き上げて、自分の身体の後ろに庇う。


「剣を置いて下さい。あなたがこんなことをしてはいけない」


 彼女を見据えるナタレは、一年前故郷を発った時に比べてずいぶん逞しくなったようだった。肩や腕の線はまだ華奢だが、その顔つきは別人のように大人びている。


「邪魔をしないで! オドナスの捕虜になって辱めを受けるくらいなら、いっそ……」


 すぐに我に返ったイエパは、懐剣の切っ先を自らの喉元に向けた。


「こうしないと亡くなったあなたのお母上にも申し訳が立ちません」

「馬鹿なことを言うなっ!」


 ナタレは怒鳴って、一瞬怯んだイエパの懐剣に手を伸ばした。

 彼女の喉元へ突きつけられた白刃を、何のためらいもなく素手で掴む。


「ナタレ!」


 イエパは思わず剣を引いたが、びくとも動かなかった。

 刃を握り締めたナタレの右拳から赤い液体が流れ始め、冷たい金属の表面をゆるゆると伝い落ちた。


「……あなたはこれまで、俺を実の子以上に慈しんで育てて下さいました。母のいない俺が無事に成長できたのはあなたのおかげです。感謝してもしきれません。だから……!」


 彼の言葉はゆっくりと落ち着いていて、しかし声は震えていた。


「俺が守ります! あなたも弟妹もロタセイも、俺が必ず守ります。俺を信じて――ここで死んではいけません!」


 毅然として言い放ったナタレは、沸き立つ激情を強靭な理性で捻じ伏せたのか、表情はあくまでも冷静だった。そのぶん拳に力がこもり、傷が深くなって血は流れ続ける。

 その姿は、彼の父親よりもむしろ母親に似ていた。ロタセイ王の正室――イエパが誰よりも敬愛して止まなかった女の面影を、彼女に感じさせた。


 イエパは懐剣から手を離し、その場に座り込んだ。

 二人の娘が母に走り寄る。彼女は我が子を抱きしめて、ほろほろと涙を零した。緊張の糸がいきなり切れたようだった。この水場に隠れ住んでからずっと神経を尖らせてきたのだ。

 ナタレもようやく肩の力を抜いて、握り締めた懐剣を床に置いた。

 深く切り裂かれた右の掌が痛んだが、安堵の思いの方が強かった。


「ナタレ……ハザンを止められなかった私をお許し下さい……あなたには本当に申し訳ないことを……」


 泣きながら謝るイエパに大きく首を振って、ナタレは天幕の入口へ向かった。ここはもう大丈夫だ。


「兄上とは直接話をします。それよりもイエパ様、他の皆にも早まった真似をしないよう呼びかけて下さいませんか。ここにいる全員を生かすのが俺の義務です」


 彼は背を向けたままそう告げ、外へ出た。

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