麦酒の味
「ちょっと外へ出ないか」
シャルナグ将軍にそう誘われて、ナタレは天幕から出た。
周囲には似たような天幕が無数に設営されていた。そこかしこで火が焚かれ、大勢の兵士が火を囲みつつ、賑やかに食事を摂っている。それぞれの天幕に繋がれた駱駝も、今はのんびりと蹲って休息しているようだ。
何十日にも渡って見慣れた、野営の光景であった。
王都を出発してから三十二日目、明日はいよいよロタセイの地へ足を踏み入れるところまで到達していた。今夜が戦いの前の最後の休息になるのだろう。
兵士たちの様子は今までと変わらず、浮き足立った者は誰もいない。この落ち着きが、場数を踏んだ王軍の貫禄なのだった。
ナタレはひとり緊張して、思い詰めた様子で天幕に閉じ籠っていたのだが、そんな彼をシャルナグが外へ連れ出したのだった。遠征の間中、ナタレは将軍と同じ天幕で寝泊りしている。
そこはタカトという町の郊外だった。
物資の補給を兼ねて、野営地はたいてい大きな町の近くに設けられる。兵士たちは十の集団に分けられて、野営の度に交代で町へ入ることが許されていた。
夕闇が迫る中、シャルナグは徒歩でタカトの町へ向かいながら、
「ナタレ、おまえ今まで一度も町へ出てなかっただろう」
と、隣を歩く浮かない顔のナタレに尋ねる。
少年は一月あまりの長旅で少々痩せたが、日焼けしたせいでずいぶん精悍に見えた。
「物見遊山の旅行ではありませんから」
「真面目なのもいいが、たまには社会勉強も必要だ」
二人は町でいちばん大きな宿屋に入った。二階建てで、一階部分は広々とした酒場になっている。まだ宵の口なので、半分ほどの客の入りだ。
王軍の兵士が数人集まって酒を飲んでいたが、シャルナグの顔を見ると慌てて席を立った。
「いやいや気にしなくていいぞ。こっちも息抜きだ」
シャルナグは彼らにそう言って、奥の席に座った。
兵士たちはとりあえず座り直したが、ちらちらと将軍の様子を窺っているようだ。無理もないだろう。
行軍中に野営地の町で騒ぎを起こした者は厳罰に処される。また、遠征先での略奪行為は例外なく死罪と定められていた。現王はこの鉄の掟で、大陸一強力で統制の取れた今のオドナス軍を作り上げたのだ。
「いらっしゃいませ。あら、将軍様じゃありませんか。お久しぶり」
注文を取りに来た宿屋の女将が、そう言ってにっこり笑った。四十代前半くらいの、美人ではあるが化粧の濃い女だ。
一年前のロタセイ遠征の際にもオドナス軍はタカトに立ち寄ったことがあり、将軍がここを訪れるのは二度目だった。
「東のロタセイが反乱を起こしたそうですね。恐ろしいこと。オドナス王様のご統治に何の不満があるのかしら」
「そのせいでタカトの町もここの宿屋も儲かっているのだ。水も食糧も言い値で買ってやっている。ありがたく思えよ」
シャルナグは冗談めかして答えて、ナタレを気遣うように見た。その反乱を起こした国の後継者である。
「もちろん感謝してますわ。今夜はうちに泊まって下さいな。いい娘をお世話しますよ」
「そういうのは必要ない。ついでに他の兵にもあまり勧めないでくれよ。士気に関わる」
隊商相手の宿屋が娼婦の仲介をするのはよくあることだ。商売熱心な女将の勧誘をシャルナグはにべもなく断った。
「今夜は美味い酒を飲みにきたんだ。麦酒をくれ女将。ここいらの名産だろう」
「はいはい、そちらの若い方は何になさいます? あ、ひょっとして将軍の息子さん?」
「違うよ。まあ、預かり物でな。同じものを頼む。それからつまみを適当に」
女将はにこやかに肯いて下がったが、ナタレは憮然としている。
「俺は飲めませんよ」
「王都に帰還するまでは成人待遇だ。子供を戦に連れて行くわけにはいかんからな」
運ばれてきたのは麦から醸造した発泡酒だった。陶器の大きな杯にたっぷり注がれたそれを、シャルナグは美味そうに飲み干す。
ちょっと小馬鹿にされた気がして、ナタレも麦酒をあおった。蒸留酒類に比べてアルコール度数は低い。だが独特の苦味と炭酸が舌を刺し、なかなか喉に入っていかなかった。
とりあえず酒は置いておいて、しばしナタレは食事に専念した。ロタセイに近いここの料理は故郷の味付けに近くて、空腹だった彼の食は進んだ。
二杯目を注文したシャルナグが、牛肉の胡椒焼をかじりながら笑う。
「故郷に近づいてからずっと浮かぬ顔だ。怖くなったか?」
やはりそういう話がしたかったのか、とナタレは嘆息する。とはいえ相手は、この旅の間ずっと剣の稽古をつけてくれている恩人だ。無視を決め込むわけにもいかなかった。
「お気遣い頂いて申し訳ありません。怖くはないのです。ただ……兄に何を言えばいいのかまだ決め兼ねていて」
「ほう」
「兄は昔から家族思いで責任感が強くて、心から尊敬できる人間でした。たぶん俺よりずっと王に向いている。そんな兄がどうしてこんな暴挙に出たのか理解できないんです。一族全体を滅ぼすような真似をして……」
ナタレは麦酒をもう一口飲んで俯いた。美味しいとは感じないが、腹腔が熱くなった。
「俺はまだ父の死も受け止め切れていません。本当に事故死だったのか……まさか自分が実権を握るために兄が……」
「真面目なおまえがそんな発想をするとはな」
シャルナグは意外そうに目を丸くした。
父王暗殺説は実はリリンスに焚きつけられたものだったが、さすがにそうは言えなかった。代わりに、ナタレは身を乗り出した。
「そういうものなのですか? 肉親の犠牲すら厭わないほどの意思がなければ、強い王にはなれないのでしょうか?」
酒気のせいか、ナタレの思い詰めた眼差しが少しぼやけている。日頃表に出さない彼の懊悩を見た気がして、シャルナグは痛々しさを感じた。
自分はこの年齢の頃、何を考え何をしていただろうか。
「セファイド陛下も、実の兄君を討って王位に就かれたと聞いています。けれどあの方は罪悪感など微塵もないような明るさで君臨しておいでだ。俺はあんなふうにはなれません。兄弟の骸を平気で乗り越えることなど」
「平気なわけではないよ、あいつも」
シャルナグは二杯目を飲んで、小さく息をついた。髯についた泡を手の甲で拭う。今は臣下ではなく友人として心を寄せているのが分かる、親しみの籠った口調だった。
「少しも平気じゃない。ただ、平気な顔をするのが天才的に上手いんだ。それが王に必要な才能なのかもしれんが。あのな、ナタレ」
上背のある彼はナタレを見下ろした。相変わらず厳つい顔つきではあるが、雰囲気は不思議と温かかった。
「肉親を踏み台にできることが王の条件なのかどうかは、私には分からん。だがおまえが兄に何を言うべきかは分かる」
ナタレは唾を飲み込んで将軍を見返した。ぼちぼち客で騒がしくなってきた店内で、彼の太い声は聞き取りやすかった。
「何で俺を裏切ったのか、と責めればいいのだ」
「え?」
「おまえは、兄の起こした反乱がロタセイに危機をもたらしたことに対して憤慨しているようだが、おまえだって危険に晒された。いいか、おまえは人質として斬首され、我々はその首を掲げてロタセイに攻め入る選択すらできたのだぞ。それをなぜまず怒らないのだ?」
「それは……故郷を出た時から覚悟しておりましたので……」
「違うな、ナタレ、おまえは自分の怒りを王太子の責任感に掏り替えている。一族を大事に思うのはよいが、まずは自らの感情に正直に向き合え。自分を偽って逃げるばかりでは、兄を諌めロタセイを守ることなどできん」
胸の奥を刺し貫かれたような痛みを感じて、ナタレは言葉を返せなかった。
父のためにロタセイのために、故郷を離れ王都で従順に過ごした一年を、兄は蔑ろにした。わだかまりが熱い泥のように心に溜まっている。
それを怒りだと認めるのは、王太子としてあまりにも身勝手な気がして、ナタレはずっと気持ちを押し殺していた。再びオドナス軍を呼び寄せる結果を招いたことこそが兄の罪だと、その罪に対して怒るべきだと自分に言い聞かせていた。
何で俺を裏切ったのかと――怒っていいのか。
ナタレは杯を手に取って、残りの麦酒を一息に飲み干した。
王の条件とか責任とか、頭だけで小難しいことばかり考えていたが、それ以前の問題で自分はすでに駄目だったのだ。
何だかぼんやりしてきて、ナタレは食卓に肘をついて頭を抱えた。
「将軍のおっしゃる通りです……俺は未熟だ……情けない……」
「……本当に素直な奴だなあ」
シャルナグが呆れたように眺める。まだ子供の領域を出ていない彼に、いきなりいろいろ言いすぎたかと心配そうだ。
「……あと、頭が痛いです……」
「何? もう酔ったのか!?」
軽い頭痛を伴うものの、ぽわんとした感覚は心地よかった。生まれて初めて感じる酔いは、ナタレの心ををずいぶん軽くしていた。
そうか、俺は怒ってもいいのか――。
「もう酒はやめておけ。今水をもらってやるからな」
「シャルナグ様」
ナタレは両手を膝に置いて深々と頭を下げて、それから笑顔になった。
「ありがとうございました。完全に迷いが晴れたわけではないけれど、まずは兄に気持ちをぶつけてみます。兄の真意を問い質すのはそれからです」
王都を出立してから初めて見る、ナタレの明るい顔だった。
屈折しているようで案外単純な性質なのかもしれないと、シャルナグは苦笑した。
そして、こういうところが放っておけないのだな、と自分の人のよさを棚に上げて納得し、三杯目の麦酒を注文した。