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水面の月を抱く国  作者: 橘 塔子
第六章 故郷で待つもの
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天空の砂漠

「……上へご案内いたします」


 今の出来事などなかったかのようにユージュが言って、彼らの前へ出た。短い黒髪に縁取られた顔は、いつもと同じく表情が薄い。

 彼女の変化のなさに、リリンスはなぜか少しホッとした。


「燭台がないのに何でこんなに明るいのかな……」


 興味の対象の多いリリンスは、吹き抜けの天井を見上げて呟いた。

 確かにこの建物には蝋燭や燈台らしきものが見当たらない。それなのにどこからか白い光が差し込んで、王宮よりよっぽど明るいのだ。


「変わっているだろう、この建物は。ユージュたちが作った仕掛けだ」


 セファイドは慣れているのか、リリンスの背中を押して奥へと促す。そうされなければ、彼女はいつまでも光源を探していたことだろう。


 ユージュの先導で、彼らは上階への階段を昇った。幅の広い階段もまた白い石造りで、不思議な光に照らされている。

 王都にある建物はほとんど平屋で、高くても二階建てがせいぜいだから、これほど長い階段はリリンスにとって初体験だった。湖の堤防を平気でよじ登れる彼女ではあったが、長い裾を踏みつけて何度か転びそうになってしまい、その度にセファイドに支えられる始末だった。神官服の裾を器用に捌いてすたすたと階段を昇るユージュを、リリンスは尊敬の眼差しで見詰める。


 王都の神事を一手に束ねる女大神官――聡明で冷静で美しくて、父からも絶大な信頼を寄せられている。

 昨年この若いユージュが神官長職を継ぐことを父が承認した際、彼女と父の間を勘繰るような下世話な噂もあった。でもそれはないな、と娘であるリリンスは確信している。父は、自分の手つきを要職に就けるようなことは決してしない。

 本当を言うと、リリンスはこの神官長ともっと親しくしてみたいのだった。ユージュの謎めいた雰囲気は、リリンスの旺盛な好奇心を刺激してくれる。

 とはいえ、高位聖職者の彼女をおいそれと呼びつけるわけにもいかず、仲良くなる機会を窺っているところだ。


 彼らは三階まで昇ると、長い廊下を歩いた。

 白い壁に木の扉が等間隔で並ぶ風景は一階と同じだ。それぞれの部屋は宝物と文書の保管庫だろうか。

 廊下の突き当たりで三人の神官が待っていた。ユージュとセファイドの姿を認めて頭を下げる。


 彼らが開けた扉の先は、外だった。2階の屋根の上に出られるようになっている。三階は二階より面積が一部屋分小さく、そこが平らな濡れ縁になっているのだ。

 ちょうど南に懸かった月が見える。

 リリンスは濡れ縁に出て、そこからの眺望に感嘆した。

 弱い月光に照らされた夜のアルサイ湖が一望できる。向こう岸にキラキラと輝くのが王都の灯りだろうか。


「姫様、こちらへ」


 夜景に見蕩れているリリンスを、ユージュが濡れ縁の端で呼んでいる。父もそちらにいて、妙な形の物体を取り囲んでいた。

 見たところ、長い筒のようなものだった。直径が人の顔ほどもある太い筒が頑丈そうな三脚に据えられて、空に向かって斜めに固定されている。白い色をしたそれが木製なのか金属製なのかリリンスには分からなかったが、戦で使う大砲に似ていると思った。

 扉の前で待っていた神官が三人がかりでその筒をいじっている。太い筒から突き出した細い筒を覗いたり、三脚の角度を変えたり、何やら忙しそうだ。そしてセファイドとユージュはそれを黙って眺めていた。


「お父様、これは何ですか?」


 リリンスは興味深々で筒を凝視した。

 セファイドは空を向いた筒の先端を指差して、


「ほら、ここを」

「わあ、大きなレンズ!」


 覗き込んだ筒の中には、大きく分厚いレンズが嵌め込まれていた。軍で使用している遠望鏡や双眼鏡のレンズとは比較にならない。

 思わず手を伸ばしかけたリリンスへ、


「いけません姫様っ! レンズには触らないで下さい!」


 と神官の一人がすっ飛んできた。本気で焦っている。


 少し待って、ようやく調整が終わった。

 神官に促され、まずセファイドが小さな筒――接眼鏡を覗く。彼は口元に子供のような笑みを浮かべて、娘を手招いた。


「これはなリリンス、天体望遠鏡というものだ。星を見ることができる。神殿の宝物として古くからあったものだが、使えるようにしたのはユージュたちだ――見てごらん」


 セファイドはその場を娘に譲った。

 胸を期待に高鳴らせながら、リリンスは接眼鏡に右目をあてがった。


 視界に入ってきたのは、真っ黒い背景に浮かぶ巨大な天体。

 それが月であることはすぐに分かった――色のない世界の中で、いびつな円形の天体は異様な姿を晒していた。表層は白と灰色の斑模様で構成されていて、ところどころに円い池のような窪みが見える。引き攣れた古い傷跡のような凹凸もあった。そして左半面は薄い陰が覆っている。この薄闇が月をいびつに見せかけているのだ。

 美しい、とは思う。

 だがあまりに寂寥とした風景だ。命の気配も陽光の輝きもない。


「……銀色の砂漠みたい」


 リリンスは呆然と眺めながら呟いた。


「月の表面は夜の砂漠と同じだわ。お父様、あれがアルハ様なの?」

「そうだ」


 肉眼で見る月は、時には華やかな金色に時には冷酷な銀色に、いつも明るく輝いていた。

 だが分厚いレンズを通して見た実像は、荒涼とした死の世界そのものだ。静謐で硬質で変化がない。

 もしそこに住んでいる者がいるとすれば、それは生きた人間ではないのだろう。永遠に姿を変えず、そこで死に続けているのだ。


「アノルト兄様や他の方もこれを?」


 リリンスは接眼鏡から目を離して尋ねた。初めて見た光景に興奮しながらも、どこか悲しげだった。辛い結末の物語を読み終えた時に似ている。

 セファイドは首を振った。


「誰にも見せたことがない。俺と、中央神殿の神官しか知らないことだ。覚えておきなさい、あれがアルハ神の実像だ」


 リリンスは、セファイドのその言い方にどことなく不敬の響きを聞き取った。

 まさか父は、ここで月の実像を目の当たりにして、アルハ神への信仰心をなくしてしまったのだろうか。あれは神でも何でもない、砂漠を鏡に映したような、ただの土塊だと。

 リリンスは正直な感想を口にした。


「今見たのがアルハ様の真のお姿なのだとしたら、何てお寂しそうなのかしら。まるで……私たちに生命を与えて下さった代償に、ご自身はすべてを失ってしまわれたみたいです」


 脇に控えたユージュが笑ったのに気づいて、リリンスは驚いた。いつも表情の乏しい神官長がこれほど明確に微笑むのを初めて見たのだ。しかもとても優しげに――。

 セファイドは胸の前で腕を組んで俯いた。考え込むような仕草である。


「リリンスの感性は優しいな……」

「お父様がこれを他の人に見せない理由、分かります」


 リリンスは澄んだ黒い眼差しを父親に向けた。


「アルハ様は常に皓々と輝いていなければなりません。あんなふうな寂しい実像を見たら、信仰心どころかアルハ様の存在すら疑う人もいるかもしれないもの。でも私は……私なら大丈夫だと思ったのでしょう、お父様? 万一私が信仰心をなくしても、いずれ国を出て行く人間だから……」


 そこまで言って、彼女は少し息を飲んだ。


「……もしかして、どこかから縁談がきましたか?」

「まったくおまえは」


 セファイドは娘の肩を引き寄せて、その華奢な身体を抱き締めた。


「余計なことにまで頭が回りすぎだ。望遠鏡を見せたのはおまえが喜ぶと思ったからだよ。建国祭以来すっかり元気をなくしていたからな。後で土星の輪も見せてやるぞ」

「心配をかけてごめんなさい。で、どこの国からです?」


 けろりとして訪ねるリリンスの表情に、セファイドは天を仰いだ。

 ユージュたち神官はあさっての方向に目をやって、会話を聞かないふりを決め込んでいる。


「……そこまで具体的な話ではない。ただ、アートディアスから使者が来た。まだ誰にも言うなよ。正式に国交を結びたいと」

「アートディアス!」


 リリンスは声を上げた。アートディアス帝国は西方の大国である。民間での交易は盛んだが、国家としてのやり取りはまだなかった。

 オドナスとアートディアスが国交を開いて不可侵条約でも結べば、大陸の平和がまたひとつ確かものになるだろう。


「皇太子がおまえと同い年なんだそうだ」

「じゃあ未来の皇后ね! 凄い!」

「だから……まだ正式な話は何も進んでいないと言ってるだろう。リリンス、おまえ、そんな遠い国に嫁ぐのにためらいはないのか?」


 セファイドは無邪気にはしゃぐ娘の頭をそっと撫でた。

 リリンスは間髪入れず肯く。


「オドナスの役に立てるのならどこにだって行きます。だって、私はそのためにここにいるんです。ここで王女として育ててもらったんです」


 自分の役目はまさにそれだ、とリリンスは気持ちを固めていた。王の娘である以上避けては通れない道なのだ。だとしたら、前向きに受け入れるしかない。

 ナタレが自分の国を取り戻すために戦っているように――自分もまた努力しなければ。


 先ほどまでのあどけなさが嘘のように消えたリリンスの表情であった。大きな黒い瞳にひたむきな光が宿り、口元の笑みは大人びていた。

 実の娘の静かで固い意志に、セファイドはしばし言葉を失った。成長というより、それは諦観に感じられた。

 当惑する父の前で、リリンスは再び子供っぽい笑顔を見せた。


「そんな顔をなさらないで、お父様。私は本当に満足してるんですから」

「そうか……」

「ね、土星の輪って何ですか? 見たいわ!」


 彼女は父の手を握って、望遠鏡の前へと引っ張った。

 この翳りのなさ、そして時折見せる頑固なほどの気丈さ――それは否応なしに彼女の生母を思い出させる。


 ――私はあなたの子供を生むけれど、あなたの妻には絶対にならない。


 セファイドが愛おしげに、だが少し苦しげに目を伏せるのに気づいて、リリンスは不思議そうに首を傾げた。


 空に浮かんだ砂漠の鏡は、南天の高い位置からゆっくりと降下しつつある。

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