国王と王女
オドナスの第三王女リリンスは、その日、朝からとても機嫌がよかった。
毎日朝食後に出されるコダヌ――木の根を煎じた苦い飲み物で美容と健康にいいらしい――を今日は文句を言わずに全部飲んだし、苦手な礼儀作法の授業も、厳しい教師に腹を立てることなく今日は一生懸命に励んだ。
昼近くになって授業が終わり、教師がリリンスの部屋を退出すると、彼女は大きく伸びをしながらあくびをした。今出て行った教師が見たらさぞかし落胆するだろう。
「姫様、そんな大きなお口を開けて……蝿が飛び込みますよ」
侍女のキーエが呆れたように言う。
「口開けないとあくびできないでしょ。ね、あれ出しといてね、こないだ新しく作ったお衣装。夜に着るんだから」
十四歳の王女は涙の溜まった黒い瞳をキラキラと輝かせながらにっこりした。
「はいはい、あの茜色のお衣装ですね。昨日からもう何度も仰せつかっていますよ」
「そうだった? だって今夜は兄様が六ヶ月と二十六日ぶりにお戻りになるんだもの。綺麗にしとかなくちゃ」
「本当に姫様はアノルト様が大好きですのね。今日のように姫様のご機嫌がよいとキーエも助かります」
「私はいつもと同じよ」
リリンスは明らかに弾んだ声で答えて、椅子から飛び降りた。鏡台の前までぱたぱたと走って行って、くせのないまっすぐな黒髪を櫛で梳いた。
「お腹空いたなあ。今日のお昼は何かしら」
黙って立っていれば、どこから見ても可憐そのものの少女である。
大きな円い目が印象的な顔立ちは幼いながらに美しく、あと数年のうちに大輪の花を咲かせるであろう蕾のような清純さを漂わせていた。
だがそれは黙っていればの話であって、
「最近便秘気味なのよ。ほら、ニキビ! 毎日コダヌ飲んでるのに何でかしらねー」
およそ王女らしくない物言いに、キーエが頭痛を抑えるように額に手をやった。
「……午後からは農場にお出かけなんでしょう? おぐしを結いましょうか?」
「ベール被ってくからこのままでいいわ。農務大臣と一緒に、アルサイ湖の北の方の農場を視察するのよ。舟に乗ってくの」
前々から農場が見たいと熱望していた好奇心旺盛なリリンスに対し、ようやく父王の許可が出たのだった。大臣が同行するとはいえ、王女が農業の現場に足を運ぶなどこれまでなかったことである。
リリンスはもう一度鏡を覗き込んでから、鏡台の隣に吊るした鳥籠に目をやった。
中には鮮やかな赤い色をしたインコが一羽、止まり木に留まっている。リリンスに気づくと餌をねだるようにさえずった。
彼女は陶器の餌箱から小麦の粒を掌に出して、ぱらぱらと籠の中に入れてやりながら、
「大臣はね、もっと農場を拡げて作物を輸出に回すべきだと言うの。私はそれってどうかと思うんだけど……都の人たちが食べるには十分な量が収穫できてるわけだし、これ以上作地面積を拡げるのはアルサイの水の無駄遣いじゃない?」
「難しいことは分かりませんけれども……きっとお父様が正しいご判断をなさいますわ」
「私もちゃんと見ときたいの。それがただでごはん食べてる者の責任だと思う」
リリンスが意外なほどきっぱりした口調でそう言い切った時、部屋の入口に吊るした目隠しの麻布を跳ね上げるようにして、別の侍女が駆け込んできた。
「ひ、姫様!」
「何ですバタバタと」
「どうしたの!?」
後輩の落ち着きのなさに眉をひそめるキーエをよそに、リリンスは露骨に顔を輝かせた。騒ぎや事件が大好きなたちなのだ。
侍女は胸を押さえて呼吸を整えながら、
「シャルナグ将軍が国王陛下への謁見におみえなのですが……推薦する楽師様をお連れになってて……それがすごく素敵な方なんです! もう目の覚めるような美男子で!」
「うっそ……」
「今、回廊においでです」
「でかした! 見に行くわよ」
リリンスは衣装の裾を持ち上げて、侍女よりも先に部屋を飛び出していった。
その日王宮は、見慣れぬ旅の楽師を迎え入れて、静かで異様な興奮に包まれていた。
王都の最北端、オアシスを背にして建つオドナスの宮殿は、白い壁に深い青の彩色を施した美しい建物だった。
規模は将軍の屋敷の20倍はある。建物は数多くの棟に分かれ、将軍宅と同じ高価な黒い石で作られた回廊がそれぞれを繋いでいる。建物の入口と部屋の仕切りはやはり薄布だが、光沢のある絹に細かい刺繍の施された豪華なものだった。
オアシスの潤沢な水で広い庭園には植物が溢れ、あちこちから鳥のさえずりが聞こえてくる。
燦々と降り注ぐ陽光に露を含んだ緑がきらめき、甘い花の香りが漂う回廊を、その異国の楽師は静かに進んでいった。
先導するのはシャルナグ将軍である。今日は総髪を結い上げて、絹の正装に身を包んでいるが、腰に巻きつけた太い皮帯には長剣が携えられていた。王宮で帯刀が許される数少ない人物だ。
若い楽師は白地に銀糸をあしらった衣装を身に着けていた。将軍宅の熟練の女中頭が選びに選んで誂えた布地だ。右手には無花果に似た形の弦楽器を抱えていた。
その楽師の美貌を聞きつけて、回廊が繋ぐ建物のそこかしこから宮廷人が顔を出した。
貴族や役人、王の愛妾もいる。彼らは楽師の姿を目にすると、例外なく感嘆の溜息を漏らし、それから会釈もせずに慌てて顔を引っ込めた。
シャルナグはそんな人々に威嚇するような視線を投げつつ、
「悪く思わんでくれ。いつもはこれほど不躾でも腑抜けでもないのだ」
と、注目の的の麗人に詫びた。
サリエルは無言だが気にしている様子はない。慣れているのだろう。
自覚があるのかないのか、とにかく神経は太い男だ、と、この二日間同じ屋根の下で生活してきたシャルナグは思った。
将軍の屋敷に招待されてから2日の後に王に謁見が叶うことになり、今日ここにやって来たわけだ。
回廊のいちばん先にひときわ巨大な建物があり、そこがオドナス王の居住部分だった。
宮殿の中で唯一、砂漠の統一後に改築された建物である。同じく紺色に彩色された壁には波の模様のレリーフが施されている。遠く西方から呼び寄せた職人が腕を振るった。その精緻な模様から、この建物は『風紋殿』と呼ばれていた。
入口を入ってすぐが謁見室だった。
王の謁見時間は午前中と決まっていて、楽師が本日の最後だった。すでに前の者は反対側の出口から部屋を後にしている。
「シャルナグ将軍閣下、お待たせいたしまし……た……」
呼び出し係の若い役人は、シャルナグの傍らの楽師を見て固まってしまった。
将軍はそんな反応を気にも留めず、立ち尽くす役人の傍らを通って中に入ろうとしたが、我に帰った役人が慌てて止めた。
「し、失礼を。陛下は中庭でお待ちです」
「中庭で?」
「はい、将軍ご推薦の楽師の腕前を、他の皆にも聴かせたいとおっしゃいまして。正妃様はじめ大勢がお集まりです」
シャルナグは分厚い唇を歪めた。優れた楽師であれば本当に厚遇するだろうが、そうでなければ満座で恥を掻かせて追い出すつもりなのだ。
いつもながら子供っぽい真似をする――王をよく知るシャルナグは少し呆れた。サリエルが動じていないのが頼もしかった。
謁見室には入らずに役人の先導で来た道を引き返してゆく楽師と、一瞬目が合ったような気がして、リリンスは慌てて柱の陰に顔を引っ込めた。
庭の東屋にはリリンスをはじめ数人の侍女たちが群れていた。
「今こちらをご覧になったわ! ね姫様、素敵な方でしょう?」
「いろんな方が謁見にいらっしゃいますけど、あんなに綺麗な殿方は初めてですわ」
侍女たちが声を潜めて、けれど興奮を抑えきれないように口々に言う。
リリンスも頬を紅潮させて、
「ほんと、これは当たりね。もう楽器の腕とかどうでもいい。立ってるだけで十分!」
「大丈夫、腕も確かですよ。きっと姫様のお気に召します」
彼女らの後ろからひょいと顔を出したのは、キルケである。
「キルケ! 来てたのね」
「ごきげんよう姫様。さっそく彼に目をつけられましたね。さすがに趣味がよろしいわ」
歌姫は口元に手を当ててくっくっと笑った。
オドナスきっての歌手であるキルケは王宮への出入りも多く、リリンスとも顔なじみだった。さっぱりした性格のキルケを、リリンスはまるで姉のように慕っている。
「あの人のこと知ってるの?」
「はい、シャルナグ将軍とともに彼を推挙したのはこの私ですもの」
「ど、どこで見つけてきたのよ?」
「街の広場で。辻音楽師をしていましたから」
凄まじく目立っただろうなあと想像するリリンスの背を、キルケは軽く叩いた。
「さ、私たちも中庭へ参りましょう。陛下から召集がかかっております。キーエが姫様を探し回っていましたよ」
黒い石の回廊に囲まれた中庭には、数十人もの宮廷人が集まっていた。
先ほど謁見室へ向かうサリエルを見物していた顔も見えるが、全員が好奇と期待の眼差しを向けている。
それぞれ役職をもった貴族や高官なのだろう。ほとんどが砂漠の民だったが、中には異国人と思われる髪や肌の色をした者もいた。身なりからして前の方にいるのがより身分の高い貴族、後方に下級官吏や兵士、女官たちといった具合だった。
そして、正面の建物から張り出した広縁に、オドナス王その人がいた。
大きめの肘掛け椅子に悠然と腰掛ける男――上質な濃紺の絹で作られた衣装が簡素なのは、彼がこの宮殿の主だからだ。その証拠に、椅子の後ろに並ぶ役人は例外なく正装している。
年は将軍より少し下、三十代後半だろう。浅黒い肌に短い黒髪、彫りの深い顔立ち。目も鼻も口も大きく伸びやかで、理知的で明るい印象だった。
将軍が獅子なら、王は鷲を思わせる風貌だ。
広縁の奥には、鮮やかな色合いの衣装に身を包んだ女たちが十名余り、それぞれ長椅子や敷物の上に腰を下ろして中庭を見下ろしている。そこだけ花が咲いたように艶やかだ。王妃と、王の愛妾たちである。
後方にはリリンスの姿もある。今駆け込んできたところらしく、少し息を弾ませているようだった。
「国王陛下にはご機嫌麗しく」
シャルナグが跪いて挨拶すると、王は手にした長い煙管を面倒臭そうに振った。
「何を今更堅苦しい。昨夜も一緒に飲んだだろうが」
よく通る快活な声だった。この声で指揮される兵士は、高揚と安堵の中で戦えるだろう。
「外の騒ぎがここまで聞こえておったぞ、シャルナグ。貴様、何者を連れて来た?」
「陛下、事前の報告では北方から参った楽師で……」
背後の役人の説明を遮って、国王は将軍の隣に控える楽師に直接声をかけた。
「頭を上げて顔を見せろ」
サリエルは無言で顔を上げた。
国王は初めて正面から彼を見た。サリエルもまた、目を逸らさず大国の支配者を見据えた。
黒と銀の眼差しがしばらくの間交錯した。
隣にいるシャルナグが焦るほど長く沈黙が続いた後、国王は唇の端を吊り上げて笑った。
「なるほど、皆が騒ぐほどのことはある。人間の男とは思えぬほどだ」
確かに、彼が見たどの国のどの人間よりも彼は美しかった。
だが王は他の者のようにその美貌に見とれることはなく、むしろ挑戦的に見下ろした。
「余がオドナス国王セファイドである」
「サリエルと申します、陛下。お目にかかれて光栄に存じます」
サリエルは深々と頭を下げた。こちらにも萎縮した様子は少しもない。
セファイドは背凭れに体を沈めて足を組むと、煙管に口をつけた。息とともに紫色の煙が吐き出される。
「だが見てくれと楽師の才とは関係ないな。まず、その楽器を奏でてみよ。そなたと話をするかどうかはそれから決める」
「御意にございます」
サリエルは戸惑うこともなく地面に座りなおして、ヴィオルを膝に抱えた。短い弓を構え、弦の上を滑らせた。
ふくよかで艶のある音色が中庭に響き渡った。シャルナグを除いて、そこにいる誰もが初めて聞く音色だ。
演奏されたのは、その音色によく合った切なく甘い旋律の曲だった。
サリエルの象牙のような指が、ある時は目で追えぬほど早く、ある時は一本の弦を長く震わせて、指盤の上を動いた。音を聞かずとも、その動きを見ているだけで幻惑される者もいるのではないか。
これは恋歌なのかもしれない――シャルナグはそう思った。
誰かたまらなく愛しい者の名前を、旋律に乗せて何度も何度も呼んでいるように聞こえる。ヴィオルの音域はとても人の声に近い。
シャルナグは数年前に亡くした妻を思い出していた。
彼の遠征中に急病で命を落とした最愛の女。勝利を収めて帰宅した時には、もう荼毘に伏された後だった。それから彼はずっと独り身を通している。
甦ってきたのは喪失の悲しみではなく、妻と過ごした日々の幸福感であった。
やはり凄い、この楽師の演奏は尋常ではない――数年ぶりに溢れそうになる涙を、シャルナグは必死に押し殺した。
サリエルがこの都で披露した中で最も長い曲だった。
やがて切なげな和音を響かせてそれが終わった時、大臣も役人も兵士も女官も、皆その演奏に魅了されていた。
「……ご無礼を」
サリエルは楽器を置き、再び跪いて頭を下げた。疲労の色は見えない。
セファイドは大きく息を吐いて瞼を開けた。我知らず目を閉じていたらしい。この王の脳裏にはいったいどんな想いが去来したものか――。
「見事だった」
彼は穏やかに告げた。薄い笑みが浮かんでいる。オアシスからの涼しく湿った風を感じた時の表情に似ている。
侍従の一人が差し出した煙草盆に煙管の灰を落としながら、
「初めて聴く音色だが、何とも言えず心地よい。別の世界の歌を聴いているようだった」
「勿体ないお言葉でございます、陛下」
「よかろう、そなたを宮廷楽師として召し上げる」
背後に控えた役人たちもその言葉に異存はないようだった。ほんの一曲耳にしただけなのに、音楽に縁のない者にさえこの楽師の実力は分かった。
セファイドはシャルナグに目をやった。
「この男を俺の傍に仕えさせるが、よいな?」
「陛下の御心のままに」
「おまえの推挙だ、出自については心配いらんだろう。まったく、おまえのような無骨者にこんな拾い物ができるとはな」
自分でもそう思っていたシャルナグは苦笑して、セファイドも声を上げて笑った。
それから彼は集まった人々に解散を命じた。
今日聴けた楽師の演奏は素晴らしく、王の余興のために仕事を中断させられた者たちにとっても十分その甲斐があったらしい。迷惑げな表情で持ち場に戻る者は一人もいなかった。
徐々に中庭が静かになってゆく中、セファイドはサリエルに近くへ来るよう言った。
彼を広縁に上げると、椅子の数歩先に控えさせて、肘掛けについた右手に顎を乗せながら、いくつか質問をする。
その楽器の名は? オドナスへはいつ来た? ずっと砂漠を旅しているのか?
サリエルは将軍宅で答えたのと同じように返答をした。
ただ自分の出身についてだけはやはり同じくぼかして答えたが、王もそこは深く追求しなかった。彼の肌の色も目の色も、砂漠から遠く離れた国の民であると証明している。
セファイドは質問をしながら、サリエルの顔を凝視した。
色素の薄い端整な顔立ち――冷淡ではないが、その表情からは感情が読み取り辛い。すべてを拒絶しているようでもあり受容しているようでもある。だが――。
「……以前にどこかで会っただろうか?」
記憶を手繰るように目を細めて、セファイドはそう訊いた。
胸の奥に、さざ波が消えない。湖の奥深くに投げ込まれ、水面に波を立てているものの本体が何か分からなかった。
当然のごとく、サリエルは首を振った。
「いいえ」
「まあそうだろうな……俺の勘違いだ」
シャルナグはそんな国王の様子を眺めて、少し意外な気がした。
彼の知る限り、セファイドは初対面でその者が自分の敵か味方か、有能か無能か、直感的に見抜くことが多かった。その彼が、ここまで興味深げに他人を眺めている。戸惑っている、とも取れる。獲物の正体を計りかねて上空を旋回する猛禽類のようだ。
奇妙な空気を掻き消すように、セファイドは軽く首を振って煙管の煙をふかした。
「宮廷楽師になったからといっておまえの自由は何ら制限されるものではない。誰の前で弾いてもよいし、街へ出ることももちろん構わない。だが、ひとつだけ」
彼は本気か冗談か分からない笑みを浮かべて、
「王宮内での色事は自重してくれ。十分自覚があると思うが、おまえの取り合いで国が滅んではかなわんからな」
「かしこまりました」
サリエルは特に謙遜することもなく、生真面目な表情で肯いた。