開かずの扉
ロタセイの王子ハザンは、知事府の城門の見張り台から、眼前に広がる緑の平原を睥睨していた。
背の低い草がそよぐ丘陵地には森や林がなく、遥か遠くまで見通せる。陽射しの柔らかな蒼天の下、目を細めねば見えぬほど遠くに黒い霞のようなものが群れている。オドナスの駐留軍だろう。こちらの様子を窺っているのだ。
ハザンは小さく舌打ちして空を睨んだ。
十八歳になって間もない若者ではあるが、その表情は暗く大人びている。身を包んだ緋色の衣が、風を孕んで大きくはためいた。
もう一ヶ月以上、この状態が続いていた。
東部知事府は小高い丘の上に建設された石造りの建物である。堅牢な城砦にぐるりと囲まれた城は、小さな村ほどの面積がある。内部に水源を持ち、食糧も大量に備蓄されているため、数ヶ月間篭城することになっても心配はないだろう。
しかし――。
「まだ返答はないか」
ハザンは顔だけ振り返って、背後に控える年配の男に訊いた。訊かれた男は首を横に振る。
「いえ……まだどこからも。ガクダーとルーフォズには今朝方また伝書を送りましたが」
「そうか」
彼らは書簡を飼い慣らした鳩に結びつけ、周辺の属国、部族に送り続けていた。オドナスから独立を勝ち取るため蜂起を促す内容だ。
だが今日までどこからも反応はない。オドナスの軍事力を恐れているのか、それともオドナスの支配に満足しているのか。
大将の自分が苛立った素振りを見せるわけにはいかないと分かっていても、ハザンの中に焦りが募る。いくら長期の篭城が可能といっても、このままではジリ貧だ。
「おそらく、王都からはすでに援軍が遣されているでしょう。到着するまで約一ヶ月……同調する他国がなければ、状況は我々にとって相当に不利になります」
冷静に告げる顎鬚の男はナダオムといい、亡きロタセイ王の腹心である。
ザルトの逝去にあたって本人は殉死を望んだのだが、ハザンら王の遺児に助力を求められて、今回の計画に参加した男だ。
「外に残してきた女子供は……『山羊の水場』はまだ敵に見つかってはいないだろうな」
「は……あの場所が露見する心配はないかと」
「何かあればすぐに外の者たちを逃がせ。我々はそれまで盾になれればいいのだ」
ハザンは手摺に身を乗り出して、乾いた空気を吸い込んだ。
空の高いところで、白い雲がゆるゆると流れている。上空は地表よりもずっと風が強いらしい。
弟よりも少し線の太い、だが明らかに血の繋がりを感じさせる横顔が、ふと歪んだ。
「……ナタレは……もう生きてはいまいな……」
そう呟く後ろ姿に、ナダオムは目を伏せた。
「オドナス王が反逆国の人質を生かしておくとは思えません。後悔しておいでですか、ハザン様」
「いや」
自分の後ろを追いかけてくる幼い姿を思い出す。
弟は正室の子でありながら、父の前ではどこか遠慮がちだった。本当は誰よりも父が好きで、ロタセイの血を誇りに思っていたはずなのに。
歳相応の不安を王太子の責任感で覆い隠し、精一杯努めて参りますと異郷へ渡った弟が、敵地と化したそこでどんな目に遭わされたか――ハザンの胸の辺りがわずかに傷んだが、それ以上感傷に浸るわけにはいかなかった。
「ロタセイが自由を勝ち取るための犠牲だ。ナタレも覚悟していたはず。あれは誰よりも父上の子だった」
ハザンは彼方のオドナス軍を睨み据え、それから勢いよく振り返った。
「何としてもオドナス王にロタセイの矜持を示さねばならない。今日の軍議を始めるぞ!」
自らを奮い立たせるように大股で城内へ戻って行くハザンの後に、ナダオムは粛々と付き従った。
彼らの前に大きな扉があった。
光沢のない鉛色の扉で、高さは人の背丈の二倍、幅も同じくらいあった。
触らなくともひんやりとした質感が伝わってきそうな、金属製の重々しい扉である。
その扉には、取っ手も、手を掛けるための窪みもない。鍵穴らしきものもない。だからそもそもこれが本当に扉なのか、ただの金属の壁なのか、初めて見る者には判断がつきかねるだろう。
「……この扉です」
ユージュは扉を見上げながらそう言った。隣に立つ人物に話しかけているのだろうが、独り言のような呟きである。
「先代がこの地でこれを見つけましたが、私たちには開く術が分かりません」
「湖底の方は、岩が崩れて埋もれていました。ここしかありませんね」
彼女の隣で、サリエルはそっと扉の表面に右手を触れた。左手にはヴィオルを抱えている。
扉は硬質で冷ややかで、滑らかな感触だった。経年は定かではないが、少なくとも表面に錆などは吹いていない。
初めて、ユージュはサリエルに目をやった。期待と興味を込めた視線である。
しかし劇的な動きは何もせず、サリエルはすぐに手を離した。
「やはりあなたにも開けられませんか」
「ここを解放すべきかどうか、実を言うとまだ迷っています」
開けられるかどうかは明確に答えずに、彼は周囲を見回した。
彼らのいるのは白い光に照らされた広大な空間である。
その空間いっぱいに、見渡す限り、同じような金属製の箱が積み上げられていた。片手で抱えられそうな小さなものから、人の背丈ほどもあるものまで箱の大きさは様々だったが、すべて整然と並べられていた。積まれた高さもほぼ同じで、天井近くまで達している。そして箱には一つ一つ文字の書かれた札がついていた。
神経質なほど整理された広い倉庫だった。
積まれた箱と箱の間が桝目状の通路になっていて、人間はそこを行き来するのだろうが、そもそもこれだけの物量を管理するのにどれだけの人数が必要になるだろう。
その倉庫の最も奥にある扉の前で、彼らは佇んでいたのである。
「解放しないという選択肢は、あなたには許されないのでしょう。違いますか、サリエル?」
感情の薄いユージュの声は、どこか諦めを含んでいた。
サリエルは微笑んで首を振る。
「あなたが思っているより、私の自由度は高いんですよ」
「ぜひとも解放して頂きたいものですな」
今まで黙っていた三人目の人物が口を挟んだ。やや薄くなった白髪と、同じ色をした口髭の老爺――中央神殿で最年長の神官であった。
彼は丁寧だが厳しい口調で続けた。
「そのためにこの地へ来られたのだろう? よもやこの国の人間に憐れみをかけるおつもりではありますまいな。あなたの責任と存在価値をお忘れにならぬよう」
「おっしゃる通りです、ゼン殿。私はあなた方にお詫びをしなければなりません」
サリエルはゼンとユージュ、老若二人の神官を交互に瞳に映して、その長い睫毛を伏せた。
「あなた方の時には間に合わなかった」
「恨んでいるわけではありませんよ、サリエル。例えあなたがいたところで、我々の運命は変わらなかった。しかし、だからこそお願いしている。この地を、この地に眠るものを解放してほしい。そして我々の失くした過去をすべて返してほしいのです」
理知的で線の細いゼンの顔には深い皺が数多く刻まれ、五十八歳という実年齢よりも彼を老けて見せていた。青年期から壮年期にかけて味わった放浪生活による疲弊のせいかもしれない。
普段は厳しい教師のように若者を諌めているゼンの口から、初めて本心の願いを聞いて、ユージュはそっと首を振った。心なしか、労りの感じられる仕草だった。
「ゼンさん……それはたぶん違います。私たちに約束の地などない。この地は、ここで暮らす人々のものでしょう」
「ユージュ……」
「私たちの世代はみな、ゼンさんの言うような過去を知りません。それを取り戻すのではなく、ただここで平穏に生きていきたいと思っているんです」
「それが……長たるおまえの意思か?」
「私たちの意思です」
ユージュは凛として言い放った。瑞々しい頬がわずかに紅潮している。
苦難に満ちた旅を生き抜いた年長者に対して敬意は払っても、未来については自分たち若者で選ぶ――そんな清々しい覚悟が籠められていた。
「それに、たった百十三人では民族としてはもう終わっています。この地に根を張り、この国の人たちと血を交えることも考えなければ」
「そうか……そこまで考えておったか」
若き長の清澄な眼差しを受けて、ゼンは肩を落とした。決して大柄ではない彼の姿が、ますます小さくなったようだった。
十年前ならば、彼女を激しく非難したかもしれない。ぬるく豊かな生活に馴染んで、自分たちの本性を忘れたのかと。
だが彼女ら『第二世代』はこの地で逞しく成長した。反対に自らは日々老い、弱ってゆく。それを実感する度、自分が後生大事に抱えたものは、実は彼女らにとっては重荷でしかないのではと迷いが生じた。
「過去を捨てて、この世界を受け入れるか――おまえたちの選択ならば、私はもう何も言うまい」
老神官は祈りの言葉のように静かに呟いて、サリエルに向けて深々と頭を垂れた。
「あなたの本来の役目には逆らうことかもしれんが、どうかこの子の力になってやって下さらんか。もしそれができぬのならば、早々にこの国をお立ち去り頂きたい」
自らと一族の苦難の歴史と、輝かしい過去を捨て去る覚悟、両方を腹に収めた重々しい言葉だった。
サリエルはたじろぐことなくそれを受け止める。
「元より承知しております。申し上げた通り、私は自由意思で動けます。ある程度、ですが」
彼の答えはいつもと同じ、穏やかで勿体ぶったところがない。いかに困難な依頼を受けようとも、その態度が変化することはないようにゼンには思えた。
この男は最初からこうだったのだろうか。それとも、他の人間たちと交わりながらこの世界を生きる中で変わっていったのだろうか。
おそらくサリエル自身にも分からないであろう問いを口に出す気にもならず、ゼンは感謝の意を込めてもう一度頭を下げた。
ゼンが一人で立ち去って後、ユージュはさきほどのサリエルと同じように、金属の扉の表面に掌を這わせた。
「先代の神官長……我々をこの地に導いた長は、私たち『第二世代』の全員にとって父親のような人物でした」
抑揚に乏しくはあるが、確かな体温の籠る人間らしい声だった。
「彼はいつも言っていました。ここに眠るもののために地上の人間が犠牲になってはならない。また逆に、地上の繁栄を守るために眠っているものを枯らせてもいけない。我々はその調整役として、この地で生きるべきなのだと。正直、それが正しいのかどうか今でも分かりませんが」
「正しさよりも、あなた方がどうしたいかではありませんか、ユージュ。迷っても構いません。ご先代から託されたものを、どうか大切になさって下さい」
「そう言われるのではないかと思っていました。でも――ありがとうございます」
こうしろ、という具体的な指示を期待していたわけではないが、それが得られれば楽だった。
しかし結局は、自分たちの生き方は自分たちで決めるしかないのだ。
この国では楽師と呼ばれる男は、秀麗な顔立ちを少しも歪めることなくユージュを見詰めている。彼女もまた、硬いながらも笑みを浮かべて彼を見返す。
彼らはまったく別のものを、各々その背に負っているのだった。