見送る人たち
王宮の正門が開かれ、王軍の師団が東方に向かって出陣した。
よく手入れされた駱駝の隊列が、足並みを揃えて都の大通りを南下していく。兵士たちは軽装の旅装束であるが、磨き上げられた剣や槍はキラキラと陽光を跳ね返し、数え切れないほどの軍旗は風に翻って、沿道に集まった人々に歓声を上げさせた。
王都の市民だけでなく、建国祭に訪れていた他国の商人や使節団の人々も見物にやって来ていた。オドナスの風習に従い、道中の無事と武運を祈って、行進する兵士たちの足元に赤い花が投げられる。
数十万人の見送りを受けながら、彼らは粛々と大通りを進んだ。
ナタレはシャルナグ将軍と並び、隊列の最前列にいた。
いつも通り真っ直ぐに背筋を伸ばし、約一年ぶりに乗る駱駝の背に跨っている。あれがロタセイの後継者か、と沿道から好奇の眼差しが注がれたが、気にする様子はなかった。
彼の澄んだ黒瞳は、ただ東の彼方を見据えている。
リリンスは、王宮の前庭の木陰で、去って行く師団の隊列を眺めていた。
父からの厳しい申しつけによって、結局、ナタレと言葉を交わすことも姿を見ることすら叶わなかった。こうして彼らが出立した後を見送るのが精一杯であった。
隊列が遠ざかるにつれ、前庭の空気は静かになり、砂埃だけが青い空の下に舞い上がる。いずれそれも静まるだろう。
リリンスは掌を組み合わせて、ただ、少年の無事を祈った。
もう泣かないと決めた。だから涙は出ない。
ロタセイの反乱を収めることができなければ、彼は生き残れない。
だが収められても、もしかしたらここへは帰って来られないかもしれない。オドナスの判断によっては、故郷でそのまま次の王になる可能性もあるからだ。
それでもいい――ただ、無事でいて。
正門前広場で出陣式を見送ったアノルトは、視界の隅に妹の姿を捉えていた。
リリンスは木陰に隠れて、門の向こうへ去って行く兵たちを見詰め、ひっそりとその場を離れる。
遠くて表情までは窺えなかったが、アノルトには想像がついた。そして彼女にそんな表情をさせる人物のことも。
あの小僧、戦場で出会えていたなら、俺が斬り殺してやったのに。
ロタセイ王太子のことを考えると、自分でも可笑しくなるほど暗く冷たい気持ちが込み上げた。そこまで目の敵にする相手でもあるまいと分かってはいる。分かってはいるが。
おそらくこれは嫉妬だな――怜悧な理性の持ち主であるアノルトは、自己分析する。
属国から連行された人質でありながら、短期間で父に評価され妹の心を掴んだナタレに、自分は嫉妬している。あれで卑屈なところでもあればまだ可愛げがあるのに、あいつは少しも周囲に媚びない。
故郷で返り討ちに遭うといい――。
自身のどす黒い部分を見るようで、アノルトはさすがに嫌になって溜息をついた。
もう止めよう。こんなことを考えている場合ではないのだ。ドローブで総督の職務が待っている。
彼は気持ちを切り替えて、王宮の建物に向かって歩き出した。
タルーシアは後宮のテラスに立ち、出陣の喧騒が静まるのを待っていた。
東方の小国の反乱だという。国王侍従見習いの少年の故郷らしく、彼が王軍に同行しているのはそのためだろう。
タルーシアは手にした扇を畳み、パチンと掌に打ちつけた。豪奢な金の耳飾りが揺れる。
いつになったら終わるのか――。
即位して二十年、セファイドは約束通りオドナスを強く豊かな国にした。
領土は広がり属国は増え、従わない国は容赦なく滅ぼされた。彼女がかつて嫁いだ隣国も従属を拒んだ結果、すべての王族が処刑さることになった。
セファイドは名実ともに大国の君主となり、何物をも恐れずともよい立場に立った。自分もまた国王正妃としてこの国の女の中で最高の権力を得た。
夫の女性関係には多少悩まされたものの、あの男が正妃の自分を軽んじることは決してない。そのけじめはきっちりつける男だ。
本当に心を乱されたのはただの一度だけ。それももう過去のこと。
彼女は眩しい日の光に目を細める。
あの男は戦って戦って、両の手を血で汚して、自らの世界を押し広げて砂漠の辺境まで繁栄を行き渡らせ――それでもまだ完全な平和には遠い。
もうすぐアノルトがやってくるはずだった。ドローブ総督に任命され、長期の赴任に出立することを母に報告するためだ。すでにその情報はタルーシアの元に届いていた。
結局今年の建国祭で王太子の指名はなかったが、息子が総督職を拝命したことは喜ばしかった。数年実績を積ませてから正式に後継者とした方が、後々譲位が円滑に進むのかもしれない。
それに今のような内政事情では、アノルトに王位は継がせたくなかった。
征服した者たちの怨嗟を受けるのは夫だけでいい。息子には、平らかになった国を繁栄させることだけに専念させたい。
我ながら母親の身勝手さを感じて、タルーシアは小さく笑った。
兄の死んだあの夜、求婚の夜、セファイドは自分を利用しろと言った。だからそうさせてもらおう。殺された父と正妃である母の血を継いだあの子を、最も栄えたオドナスの王にしてみせる。
彼女の表情は、一瞬、少女のように無邪気な笑顔に変わった。
しかしそれをすぐに消し、正妃に相応しい威厳を取り戻して、第一王子を迎えるべくテラスを離れた。
フツは仲間とともに、沿道で師団が通るのを待っていた。
建国祭の興奮もまだ冷めやらぬ中、勇壮な王軍の行進を見物しようと、大通りの脇には大勢の市民が集まっている。みな手に手に赤い花を持っていた。これを出兵の行列に投げるのが、武運を祈り死を遠ざけるまじないなのだという。おかげで王都の花屋は大繁盛だ。
フツは群集を掻き分けて、強引に沿道の最前列に出た。おいコラ坊主見えねえぞ、と後ろから怒号が飛んだが、気にせず背伸びしてナタレを待つ。
自分たちが作った助命嘆願書、あれが果たして役に立ったのかどうかは定かでないが、ナタレは極刑を免れ、代わりに祖国への進軍に加わることになった。安堵しながらも、ナタレの胸中を思うと堪らない。
生まれ育った祖国を、大事な家族を、その手で平定するなんて……。
やがて大通りの先に駱駝の隊列が見えてきた。周囲の群衆がざわめく。
ナタレは先頭にいた。シャルナグ将軍の隣で、やや緊張した面持ちで駱駝の背に跨っている。簡素な旅装束もやはり綺麗な緋色で、腰には重たげな真剣を備えていた。
耳が壊れるほどの歓声が上がった。赤い花が一斉に投げ入れられる。
人の波に押されながら、フツも大声で友人の名を呼んだ。死ぬなよ、絶対戻って来いと叫んだ。
その声が届いたかどうか、ナタレは正面を見据えた姿勢を崩さず、眼前を通り過ぎて行った。
そうや、阿呆な兄貴を二、三発ぶん殴って、おまえを蔑ろにしたこと謝らせて、そんで笑って戻って来い――。
群衆の熱気と祈りに巻き込まれて、赤い花弁が血の雨のように降り注ぐ中、フツは遠ざかる華奢な後ろ姿を眺めていた。
キルケとサリエルは少し高い位置から師団の行進を眺めていた。
沿道にある宿屋の屋根の上に座っている。
キルケが気紛れにこの宿屋の酒場で歌うことがあり、主人と顔見知りで、そのよしみで屋根裏部屋から屋根の上に上げてくれたのだ。
「どうして男の人ってさぁ……」
キルケは膝の上に頬杖をついて、独り言のように呟いた。薄緑色の衣装の裾がはためいて、細いふくらはぎが見え隠れする。
「信念だの責任だの面目だの、くだらないもののため殺しあうのかしらねぇ……あんな若い子まで戦うなんて……」
切れ長の涼しげな目が、悲しそうに伏せられた。
「そんな重荷を背負わなくったって、幸せに生きていけるのに……って、男のあなたに訊いても仕方ないか」
「君は幸せ?」
サリエルは手にしたヴィオルの弦を軽く弾いた。ふくよかな音色は風の音に掻き消されることもなく響く。
「そうね、私はこの国で自由に歌が歌えれば幸せだわ」
「この国で――国王陛下の傍で?」
キルケは沈黙した。
彼らの足元を、色鮮やかな軍旗と勇壮な兵士の隊列が整然と進んでいく。その規律の取れた行進は、歓声に沸き返る沿道の観衆とは対照的だった。
サリエルは眼下の光景をじっと見詰めながら、
「陛下にしろナタレにしろ、自ら進んで重荷を抱えなければ生きていけない人間はいる。そういう人たちにこそ、君の歌は必要だ」
と、優しい口調で言って、短い弓を手に取った。
ヴィオルから物憂げな旋律が流れ始めるのを、キルケは目を閉じて聴いていた。
自分の歌が誰かの慰めになっているのなら嬉しい――それが国王であればなおさらだ。
でもこの楽師はどうなのだろうか。オドナスに留まり演奏して、それを幸せと感じているのだろうか。
キルケはサリエルに対し、あまり多くを問えずにいる。いつか彼はここを出ていくと、確信的に感じているからだ。相手が旅人であれば多くを詮索しないのが礼儀だ。
寂しさに近い感情が、うっすらと歌姫の胸を塞いだ。
この国において、サリエルと自分は似た立ち位置だと思っていたのに、実はまったく違っていたのかもしれない。
恐ろしく整った横顔は眠るように目を伏せて、不思議な弦楽器を奏でている。最も近くにいながら、彼女にはそれが遠い別世界の光景のように思えた。
艶やかな弦の音色が聞こえる。
ナタレは駱駝の背に揺られながら、ふと顔を上げた。
沿道からの歓声は不思議と遠く聞こえる。なのに、その音だけはまるで耳元で語りかけるように間近で聞こえる。
彼は首を巡らせて、その音源を探した。無花果を割ったような形の楽器を奏でる、異国の楽師の姿を。
しかし、降り注ぐ赤い花弁と、掲げられた軍旗に隠されて、見つけることはできなかった。
「こら、きょろきょろするな」
隣を進むシャルナグが小さい声で嗜める。黒い大剣を携え黒い旅装束に身を包んだ彼は、王軍を預かる将軍らしく、厳めしく重々しく口を引き結んでいた。
一年前、ロタセイでオドナス軍を迎え撃った時、この姿がどれほど恐ろしく見えたか。
「申し訳ありません」
ナタレが姿勢を正すと、シャルナグはほんの少し表情を緩めた。身近な者にしか分からないほどかすかな笑顔である。
「まあ俯いているよりはいい。そのまま前を向いておけ。強がりでもいいから、格好つけておくのだ」
戦場を離れた彼は、実直で朴訥とした人間だ。それを知っているナタレは素直に肯いて、眼差しを遥か前方に投げた。
大通りの先、王都の大門の向こう、乾いた金色の大地へ。
楽の音はまだ耳に届いている。無事を祈るというより、何だか背中を押されているような気がする。
ようやく、本当の意味で運命を受け入れるべく、少年は腹を括った。
ロタセイ鎮圧の軍が王都を出立した翌日、三人の王子も領地へ帰還することになった。
前日と同じく礼拝が行われた後、彼らは謁見室へ場所を移した。
重臣の居並ぶその場でアノルトは父から辞令を手渡され、正式にドローブ総督を拝命した。
国王の署名の入った立派な辞令と、真新しい総督の印章を与えられたアノルトは、落ち着いた様子だった。彼の中で緊張と高揚がうまく処理され、冷静に今後を見据えている。
次男セラムと三男サークの両王子は、それぞれ国王の代印を預かった。彼らもまた直轄領を管理する立場だが、あくまでもまだ国王の代理なのである。
「アノルト、セラム、サーク、おまえたちはまだ未熟だ。家臣を軽んじてはならん。くれぐれも独断は慎み、周囲の進言を受け入れる謙虚さを持て」
セファイドは並んで跪いた息子たちを見下ろして、厳しい口調で言い渡した。
「各々、常にオドナス王家の誇りと責任を忘れず、民に誠実であるように」
「御意――陛下のお言葉を胸に、誠心誠意務めます」
三人は揃って答えた。
彼らにとっては世界の誰より尊敬する父親である。実際に自分が統治する立場に立ってみて、その偉大さが改めて分かった。
畏まった息子たちの様子に、セファイドは少し表情を緩めて、彼らを立ち上がらせた。
それから両腕を大きく広げて、三人を抱え込むように引き寄せる。
「……身体に気をつけてな。しっかりやれよ」
「父上……」
「多少は遊んできても構わんぞ」
場の空気が和み、兄弟は顔を見合わせて笑った。
みな立派な体躯をしていて、まとめて抱き寄せられるとぎゅうぎゅうと苦しいのだが、久しぶりに触れる父の腕は温かかった。
自分もいつかこんなふうに、強い腕で家族を守れる男になりたい――彼らは心からそう思った。
「ではお言葉に甘えて羽を伸ばして参ります」
「何か面白いものがあればお送りしますよ」
「父上もご無理はなさいませんよう……もうお若くないのですから」
「不肖の息子どもが、何を生意気な」
それぞれの地へ向けて、学びながら道を進もうとする息子と、それを少し離れたところから見守る父親。
軽口を叩き合う彼らは、今だけはごく普通の親子に見えた。