後継者の資質
派兵へ向けた段取りがまとまって、各大臣が退出した後、執務室には国王と第一王子、それに将軍だけが残った。
淡々と書類を片付け席を立つアノルトに、セファイドは、
「不服そうだな」
と声をかける。アノルトは首を振った。
「父上のお決めになったことに異存はありません」
「おまえなら迷わずナタレを処刑してロタセイを潰すか?」
「はい。王太子を担ぎ出さなくとも、反乱国を滅ぼす正当な権利が我が国にはあります」
アノルトは固い口調で言って、じっと父親を見た。
「……以前の父上なら間違いなくそうなさっていたはず。周辺諸国を平定し国土を広げていた頃の父上であれば」
「国の外郭はもう整った。今は国内を安定させるべき時期だ。不用意な流血は避けねばならん」
セファイドは穏やかだが厳しい眼差しを息子に向けた。
「異民族の集まりであるこの国を、十年、二十年かけて成熟させていくのはおまえたちの役目だ。これからは排除するのではなく取り込む手段を考えろ」
「重々、承知しております」
ではなぜ未だ自分を王太子に指名しないのかと――アノルトは遺憾の思いを口にすることはできなかった。父は絶対であり、またそんな父から信頼と期待を受けていることも分かっていたからだ。
彼の幼い頃、父は王宮にいることが少なかった。常に砂漠のどこかで戦っていて、そして父が王都に凱旋する度オドナスの国土は広がって行った。あらゆる属国の王族が父に頭を垂れ、王都には交易の賑わいと利益が集まった。
父は帰還するといつも彼を膝に乗せて、昔話でもするように戦場の様子を語って聞かせた。そんな父からはいつも砂と太陽と血の臭いがして、彼はそれが好きだった。強い父を誇らしく思い、いつか自分も父のようになりたいと憧れた。
諸国を併合し、自らの力でオドナスを広げる強大な王に――。
それなのに、ようやく役に立てるようになった彼に、もう勝ち取る場所は残されていなかったのだ。
「建国祭が終わったら、早く南部へ戻れ。おまえにはそこで務めがあるはずだ」
息子の悔しさに気づいているのかどうか、セファイドは淡々と告げる。アノルトは素直に首肯した。
「かしこまりました。速やかに出立致します。ですが……」
アノルトは精悍な表情をわずかに歪めた。
「……できることなら、父上とともに戦いたかった。それが許される時期に生まれたかったと思っています」
心臓の痛みでも堪えるようにそう言って、頭を下げた。
執務室を出ていくアノルトの真っ直ぐな背中に、セファイドは声をかけた。
「おまえをドローブ総督に任命するつもりでいる」
アノルトは勢いよく振り返った。
父は相変わらず厳しい顔つきで、しかしわずかな笑みを含んでこちらを眺めている。
「それは……本当ですか……?」
「ドローブは南洋諸国との外交の要所だ。南部知事の管轄を外して、国王の直轄地とする。おまえには総督として彼の地の整備と統治を任せたい。俺の全権を委譲する」
アノルトは息を飲んだ。
大陸の南の果てドローブを攻略したのは彼だったが、これまではあくまでも国王の代理としてそこを管理していただけであった。正式な総督に任命されれば、彼自身の決裁で政務を執行できることとなる。
「できるか?」
「は、はい! 謹んでお受け致します!」
「よし、好きにやってみろ。責任は重いぞ」
これは試験なのだとアノルトは思った。自分が後継者に相応しいかどうか父に試されている。
初めて自分の駱駝を与えられた時、真剣を手渡された時、将軍に同行して本物の戦場に出た時、軍を指揮して南方を平定するよう命じられた時――そして建国祭の闘技会でロタセイ王太子と戦った時、いつも自分は試されていた。そしてその度に父を満足させてきた自信はある。
今度も期待以上の結果を出してみせる。俺は父の子だ、できぬはずがない。
喜びと緊張で全身が震えた。
歳相応の素直な笑みがこぼれるのを隠して、アノルトはもう一度丁寧にお辞儀をした。
――アノルトが退出すると、セファイドは額に手を当てて苦笑を浮かべた。
「野心が強くて好戦的――誰に似たのかな」
「若い頃のおまえにそっくりだぞ」
黙ってやり取りを眺めていたシャルナグが呆れたように言った。二人きりになると、幼馴染の間柄ではだいぶ砕けた態度になる。
「さっさと跡継ぎに指名してやればいいのに。アノルトはおまえに認めてもらいたがっている。自分にも他人にも厳しくなるのは焦っているからだろう」
「よく分かっている。俺も同じだったからな」
セファイドは首を反らして大きなあくびをした。
呑気そうな様子にシャルナグは少し苛立った。昔からこの男には振り回される。
ナタレに王権を認め、ほぼ同時にアノルトには総督の地位を与える――あの二人を競わせる腹なのだと、つき合いの長いシャルナグには分かる。それは長男をさらに鍛えるためなのか、あるいは将来的にナタレを中央の役職につけるつもりなのか。
「……まあ、ナタレの処刑が回避できてよかったよ」
シャルナグが頬髯をなぞりながら呟くと、セファイドはくすりと笑った。
「将軍閣下はずいぶんあの子を庇う」
「あの純粋さは見ていて痛々しくてな、放っておけんのだ。おまえこそスンルーの不確定情報を教えたりして、ナタレをわざと煽っただろう」
後半はやや責めるような口調になった。故郷の兄がスンルーの豪族と通じているかもしれないと吹き込み、若い王子の使命感を昂ぶらせたのだ。
友人の率直な物言いにも平気な顔で、セファイドは目を閉じた。
「資質を問う試練だよ。身内を蹴落とすくらいの欲と覚悟がなければ王にはなれん」
「そんなに他人の兄弟喧嘩が見たいのかおまえは」
「そうだな……あの子が躊躇なく実の兄を斬って捨てられるか、俺は確かめたいのかもしれない」
囁きに近い言葉に、シャルナグはなぜか気持ちがざわついた。
二十年前の、あの運命の夜が脳裏を過ぎる。
セファイドが実際に兄を手にかける現場を見たわけではない。だが、事を終えて『月神の間』から出てきた血塗れの彼は、恐ろしいほど冷静だった。
兄と一緒に自らの一部を殺してしまったのではないか――シャルナグはそう感じた。想像を絶する力で何かが歪められて、それをセファイドは封印してしまったのではないかと。
国王として才覚を発揮するセファイドを支えながら、以来、あの夜のことをシャルナグが問うことはなかった。
それが――二十年経った今になって揺り戻しがやってきたのではとシャルナグは不安になる。砂漠の東の果てで起こった兄弟間の後継争いが、彼の深いところに響きかけ、息絶えたはずの禍々しいものを呼び寄せているとしたら。
「趣味が悪いぞ、セファイド。誰もがおまえと同じようにできるわけじゃない」
するとセファイドは瞼を開けて、探るようなシャルナグの眼差しを正面から受け止めた。
彼の戸惑いを見透かすかのような、晴れやかな笑みが浮かぶ。
「……俺の代わりに見届けてきてくれ。ナタレの意思を遂げさせるように」
いつもと変わらぬ友人の明朗な態度に、シャルナグは安堵した。
「承知した。私が責任を持とう」
「頼んだぞ。知事府の開放自体は、おまえなら二日もあれば十分だろうがな」
全幅の信頼を受けて、彼はつられて笑った。完全に不安が払拭されたわけではなかったが、とりあえずは進軍に集中できそうだった。
大丈夫だ、オドナス王は決して崩れない。そしてこの男が崩れない限り、オドナスもまた安泰なのだ。
将軍が出て行った後、セファイドは続きの間に控える侍従長を呼び寄せて確認した。
「東部知事府からは、建国祭の使者として副知事と次官が来ているはずだな」
「左様でございます」
「すぐに呼べ。俺一人で訊きたいことがある」
他の重臣抜きで、国王が直々に接見するという。
しかしエンバスは何も尋ねず、かしこまりましたと一礼した。
ロタセイへの派兵準備はすぐに調った。
王都の師団に、建国祭で帰還していた東部駐留軍を加えて、総勢二万の兵が東部に向かって出立する。
知事府に篭城しているたかだか八百名を制圧するためにこれだけの大軍を送るのは、ひとえに反乱に対する国王の毅然とした姿勢を見せつけるためであった。当のロタセイだけでなく、国内の他部族への牽制でもある。
東の国境近く、ロタセイの地までの道程は、片道一ヶ月以上かかる。砂漠に点在するオアシス都市を繋ぎ、長期に渡る二万人の行軍を円滑に進められるだけの基盤が、オドナスにはあった。
国土が拡大していく中で、最もセファイドが気を配ったのは、王都から日々遠ざかる国境までの効率的な経路を設計することだった。
街道が建設できない砂漠においては、各都市を整備し生産性を上げて、旅の補給拠点を増やしていくしかない。現王は闇雲に国土を広げたわけではなく、どれだけの規模の兵団がどれほどの時間をかけて行軍できるかを常に計算しつつ、計画的に周辺都市を落としていったのだ。
こうやって少しずつ伸延していったオドナスの道は、大洋を巡る航路のように今では多くの隊商に辿られて、各地の富を国内外へ流通させている。
建国祭が終わって二日後の昼に、彼らは王都を出ることになった。
その日の朝に王宮の礼拝堂で出陣の儀式が行われ、国王を筆頭に、シャルナグ将軍と主だった将校が出席した。その中にナタレに姿もあった。鮮やかな緋色の衣装を纏った彼は、静かに将軍の隣に控えている。
この二日間、ナタレはずいぶん落ち着いて過ごした。
軟禁は解かれたものの東の離れに留め置かれ、他の留学生や王女との接触は許されなかった。それでもきちんと食事を摂り、部屋の中で運動をし、今回の作戦に関する軍議にも参加して、夜はよく眠った。
彼の生きる気力を甦らせた激情が全身にじっくりと染み渡って、意志をより強固に高めているようだった。
祭壇ではユージュ神官長が戦勝祈願の長い祈りを捧げている。
広い礼拝堂には陽光と風が行き交って、その中で彼女の祈りは川のせせらぎのように流れる。今から砂の大地を渡って命のやり取りをしなければならない男たちは、みな穏やかな面持ちで頭を垂れていた。異教徒であるはずのナタレもまた例外ではなかった。
祈りが終わると、衣擦れの音を立てながら数人の女官が入室した。彼女らは両手に抱えた銀の盆を出席者たちに差し出す。白い液体を満たした杯が並んでいた。
全員が杯を手に取ったのを確認して、祭壇のユージュがゆっくりと告げる。
「心正しき者の勝利は約束されます。皆様にアルハ神のご加護があらんことを」
「献杯!」
祭壇の下でセファイドが振り返り、皆に向けて杯を掲げた。
全員が彼に倣って杯を掲げた後、一息に飲み干す。
ナタレも同じようにした。白い液体は強い酒で、ロタセイの未成年には禁じられた行為であったが、儀式の献杯は特別だった。往復だけで二ヶ月もかかる長い道程、ともに過ごす仲間との結束の印でもある。
ほんの一口の量なのにナタレは喉が焼けつく気がして、しかしそれを国王や将軍に気取られるのが悔しくて、平静を装いながら空の杯を返した。
盆を持った女官はナタレから杯を受け取り――その杯で指を隠すようにして、さりげなく何かを彼の手に握らせた。
驚くナタレにそっと目配せして、彼女は、
「……姫様からです。お受け取りを」
と囁き、何事もなかったかのようにその場を去った。
ナタレの掌にあったのは、黒い紐のようなものだった。艶のある細い糸が固く編み込まれて、輪になっている。それが何かはすぐに分かった――髪の毛だ。
旅の無事を祈って自分の毛髪で御守を作るのは、オドナスの女性に伝わる風習である。ごくごく親しい間柄でのみ贈られるそれを、ナタレはぎゅっと握り締め、それから周囲の目に触れぬよう急いで左手首に通した。
故郷で起こっている事態を直視するのが怖くて、ナタレは生きることを放棄しようとしていた。あの聡明な王女はそんな彼を力尽くで引き戻した。
その時には見せなかった彼女の精一杯の気持ちが、御守に込められているのがよく分かる。
ロタセイの地で何が待っているのかは分からないけれど、もう決して逃げない――ナタレは礼拝堂の天井を見上げて、月神ではなく自分自身に誓った。