結んだ縁
真昼の暑い微風が、薄紅色の衣装を揺らめかせて部屋へと流れ込んでくる。
王女は大きな丸い目を見開いて、じっとこちらを見ていた。
ナタレは声を出そうとしたが、乾いた喉と口は思うように動かなかった。
リリンスはつかつかと近づいてきて、机から水差しを取り、グラスに水を注いだ。怒ったようにそれを差し出す。
「まず、水飲みなさい。そんながっさがさの唇して、脱水症状寸前じゃないの! 昨夜から何も摂ってないんでしょ」
ふいに現れた少女の強い態度に圧倒され、ナタレはグラスを受け取って水を飲んだ。
喉に液体が流れ込むと、どれほど身体が水分を欲していたか気づく。彼は一息に全部飲み干してしまった。
ようやくリリンスは表情を和ませた。
部屋の入口近くでは侍女のキーエが控えている。外を警戒する様子から、彼女らが無許可でやって来たのだと想像できた。
「無事でいてくれてよかった……どこも怪我してない?」
拒絶する間もなく、リリンスの手が肩に触れた。彼の存在を確認するように強く両腕を掴む。痛みを感じるほどの力が込められていた。
ナタレはようやく自らの肉体を意識した。リリンスの登場はあまりに意外で鮮烈で、独りきりで考え続けた一晩がまるで現実感のないものに思えた。
彼は俯いた。
「……来て下さって嬉しいです」
喉はだいぶ潤っていたものの、小さな声は掠れていた。
「もう覚悟はできています。最後に姫様にお会いできてよかった……」
口元には笑みが浮かんだが、目の中には光るものが揺れていた。
すべて諦めたようにも、まだ夢の中にいるようにも見えるナタレの様子に、リリンスは一瞬眉をひそめたが、すぐに首を振った。
「あなたのことだから、どうせこんな感じになってると思ったわよ。国から捨てられたと落ち込んでるの? だから処分されても仕方がないって」
「そう……俺は不要な人間になりました。ロタセイは俺を切り捨てて自由になることを選んだ。もう俺がここで生きている理由はないんです。帰る場所もなくなってしまいました」
ナタレは抑揚に乏しい声でそう言って、急に顔を歪ませた。いきなり激痛に襲われでもしたように。
何か強い力が内側から込み上げる。止められない。繕うことができない。
彼はその場に崩れ落ち、床に拳を叩きつけた。
「何で兄上は俺に死ねと言ってくれないんだろう!?」
血を吐くような叫び――激情と一緒に涙が溢れ出して、拳の上にぽたぽたと滴り落ちる。
昨夜から、いや本当は、故郷を出た一年前からずっと堪えてきた涙であった。
「一言そう言ってくれれば……俺は喜んで従うのに! これ以上ロタセイの足枷にならずに済むのに!」
気位の高い彼が初めて見せる生々しい慟哭に、王女は、しかし怯まなかった。
「しっかりしなさい! 泣いてる場合か!」
リリンスはナタレの前に膝をつき、その肩を強く揺さぶった。
「ここで生きてる理由がない、なんて勝手な思い込みよ! 少なくとも私は生きていてほしいし、あなたがここで関わった大勢の人たちもあなたが死んで当然なんて思ってない。ほら、これ見て」
脇に抱えていた紙の筒を床に広げ、うなだれたナタレの顔を強引にそちらに向ける。
「これ、あなたの助命嘆願書! フツって子が留学生の署名を集めて私の所まで持ってきたわ。こんなのがお父様の目に留まったらどんな処罰を受けるか分からないのに、あなたを助けたい一心で乗り込んで来たのよ」
ナタレの涙で滲んだ目の焦点が、紙の上でようやく合った。
たくさんのよく知った名前、名前。たどたどしい文章で書かれた嘆願書。
「フツ……が……」
「俺も一緒に行くって大騒ぎだったけどね、危ないから学舎に帰したわ。ナタレのこと本当に心配してた。それからサリエルも。あなたの居所を突き止めたのは彼なのよ」
呆然とするナタレを睨み据えるようにして、リリンスは続けた。額にうっすらと汗が浮いている。
「あなたはすでにここでたくさんの縁を作ってる。あなたが望む望まないに関わらずよ。こんなにたくさんの人たちに想われておいて、勝手に命捨てるなんて許さない!」
彼女の言葉は真っ直ぐに届いた。
孤独だと思っていた自分の周囲には常に誰かがいたのだ。自分に対して好意を持っていようと敵意を持っていようと、それを縁と呼ぶのか。
リリンスは少し息を抜いて、ナタレから手を離した。
「それにナタレには責任があるわ」
「責任?」
瞬きをすると新たな涙が零れたが、不思議と恥ずかしくはなかった。他人の前でこれほど泣いたのは何年ぶりだろう。
「お父様が亡くなったのなら、王太子のあなたが今は国王になったわけでしょう。国を守る責任があるんじゃないの?」
「あ……」
ナタレは、雷にでも打たれたように頭の奥が痺れるのを感じた。
今の今まで気づいていなかった。父王が逝去した時点で、ロタセイの王位は王太子のナタレに移っているのだ。
普段は息苦しいほどに王太子の立場を意識していたはずなのに、いざその時になって指摘されるまで気づかないとは、動揺していたとはいえ自分の不甲斐なさに忸怩たる思いが湧き上がった。
恐ろしく現実的な王女は、さらに彼を揺さぶることを言う。
「今のロタセイは、王権を持たないはずのあなたの兄によって、不当に支配されている。これを正すのも正統な王の役目よ。このままほっとけば、確実にロタセイはオドナスに滅ぼされるわ。あなたが守らなくて誰が守るの」
「父上が俺ではなく兄上に後を託したのなら……もう俺にできることはない……」
「私に言わせればそれだって怪しいわよ」
リリンスは腕を組んで、ややためらうような様子を見せた。
「……王位欲しさにお兄様がお父様を謀殺した可能性だってある」
「兄上がそんなことするはずがない!」
ナタレは思わず声を荒らげた。
王女は十四歳とは思えないような冷めた表情で彼を見返す。
「可能性よ。でもそんな話はどこの国にでもいっくらでもあるわ。権力に取り憑かれた男はそういうことを平気でやる」
「何ということをおっしゃるのです姫様。兄は優しくて家族思いの人間です。父を手にかけるなど……」
「だからね、ナタレ、お兄様に直接会って確かめてくるの」
リリンスは優しい口調になって、彼の頬を擦って涙を拭った。
「お父様はあなたの処分を決めかねてると思う。この際恥は捨てて、命乞いをしなさい。そしてロタセイへ行って、あなたの手で事態を収めてくるのよ。あなたが生き延びる方法はそれしかない」
リリンスの手は温かかった。だがその言葉は重く、厳しかった。
正面から自分を見据える、少しのぶれもないその強い眼差しに、ナタレは気圧された。
この少女は確かにあの男の娘――オドナスの王女だ。
「誰か来る! 出て下さい!」
入口の方から鋭い声が飛んだ。
間仕切り布から若い衛兵の顔が覗いていた。彼女らの協力者らしい。
「姫様、早く」
「うん」
キーエに急かされて、リリンスは床に広げた嘆願書を丸めながら立ち上がった。
「もう行くわ。ナタレ……忘れないで、ロタセイ王はあなたなのよ!」
彼女は紙を脇に抱え、衣装の裾を持ち上げてその場を走り去る。
どうするつもりかと見ていたら、キーエと一緒に部屋の窓枠を乗り越えて外へ出て行った。
時間にするとほんのわずかな間――しかしナタレにとってはいろいろなものが揺さぶられたひと時であった。
俺は……どうすれば……この滅茶苦茶な状態を俺に収めることができるのか……?
間一髪、部屋に国王侍従長エンバスと数人の衛兵が入ってきた。
初老の侍従長はなぜか右手に小さな猿を抱えていて、これ以上ないくらい渋い表情をしていた。
「……まったくなぜ私まで猿を捕まえなければならんのだ」
「は、申し訳ございません……」
恐縮する衛兵の分隊長に猿を渡して、エンバスはナタレに近づいた。
国王侍従を務める貴族の子弟は、王宮で仕事をしながら政治や外交を実地で学び、ある程度の年齢になると別の役職に就く。
この侍従長を含め数人の管理職は、言うなれば若い人材を育てる教師のようなものだった。職務に忠実な彼は、属国の王子であるナタレに対しても分け隔てなく接した。
ナタレがどうにか王宮での仕事が務まるようになったのも、その厳しく細やかな指導があったからだ。
「ナタレ、大丈夫か」
「……はい」
明らかに涙の跡に気づかれていたはずだが、エンバスはそれ以上質問しなかった。
「来なさい。陛下がお呼びだ」
窓の外で、リリンスは胸を押さえて呼吸を整えた。
侍従長がやって来たことで離れの警備は解かれており、辺りに衛兵の姿はなかった。
じっと身を潜めていると、ナタレが侍従長とともに部屋を出て行くのが見えた。衛兵たちもそれに続く。
たぶんお父様の所へ連れて行かれるのだ――ナタレはうまく切り抜けられるだろうか。
少年の細い後ろ姿を眺めながら、リリンスは祈るように両手の指を組み合わせた。
「姫様、大丈夫ですか?」
今しがた侍従長がナタレに向けたのと同じ問いを、今度はキーエがリリンスに投げた。リリンスの身体がひどく震えていることに気づいたのだ。
リリンスは、先ほどナタレを厳しく叱咤した時とは別人のように、頼りなさげな顔つきになっている。
「どうしようキーエ……私……私……とんでもないことを言ったかもしれない……」
彼女は搾り出すように言って、突然ぼろぼろと涙を零した。
驚くキーエの前で、
「ナタレを死なせたくなくて……生きていてほしくて私……! 実のお兄さんを疑えって、排除しろって、そう焚きつけた……!」
と、涙を拭うこともなくしゃくりあげる。
ナタレが堪えきれずに泣き出した時、本当はリリンスも一緒に泣いてあげたかった。
彼を力いっぱい抱きしめて、その悔しさと悲しみにただ寄り添ってあげたかった。
しかしそれはできなかった――崩れそうになった彼の理性を励まし、力尽くで立ち上がらせるのが自分の役目だと思ったのだ。
そうしなければ彼はたやすく死を選んでいた。
今、ようやく緊張の糸が切れ、同時に悪い考えばかりが脳裏を過ぎる。
「どうしよう、ナタレがお兄さんと殺し合うことになったら……私のせいだ!」
泣きじゃくる王女を、キーエは戸惑いながらも抱き寄せた。
「姫様はご立派でしたわ。本当はお辛いのに……あれ以上のことは誰にもできません」
「でも……」
「後はナタレ様ご自身がお決めになること。彼を信じてあげましょう。ね、泣き止んで下さいませ」
リリンスは肯きながらも、溢れてくる涙と嗚咽を止められなかった。
安堵したのか不安なのか恐ろしいのか、自分でも訳が分からず、ただ素直な感情を押し殺して振る舞ったツケを払うように、声を上げて泣き続けた。