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水面の月を抱く国  作者: 橘 塔子
第五章 東へ
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招かれざる客

 フツは完全に道に迷っていた。

 この棕櫚の木のある中庭は一度通った気がする。あの屋根の模様を同じ角度から見た。ではさっきの井戸の所を逆に行けばよかったのか?


「もー、全然駄目じゃんフツ、こっちじゃないよ」

「一本通路が違ってるんだって。さっき言ったのに」

「だったらそん時にもっと強う言わんかい! ……っと」


 文句を垂れる連れの二人に思わず怒鳴ってしまって、フツは慌てて口を押さえた。

 衛兵に見つかるとまずい。摘み出されてしまう。

 まあ、建国祭最終日の今日、ただでさえ忙しいところに昨夜からのバタバタだ。警備は手薄になっているはずなのだが……。

 しばらく木陰に身を潜めて誰も来る気配がないのを確認して、彼は大きな溜息をついた。


「やっぱり無謀だったんじゃないか? こんな……無計画に王宮に忍び込むなんて」


 連れのイサクが不安げに言う。

 もう一人はスターンといい、どちらもフツと同じ留学生で、つまりはオドナス属国の王族である。


「だいたい、普通いきなりやって来て国王陛下に会えないだろ」

「どんな手ぇ使ても会うんや! 会うて、これを渡す! そのために来たんやろ俺ら」


 フツは右手に握った紙の筒を二人の前に突きつけた。大きな紙を丸めて紐で縛ったものだ。

 彼ら三人は国王に会おうと、約束もなしに王宮へ忍び込んできたのである。


 授業の一環として王宮を訪れたことはあったが、個人的にやってくることはまずない場所だ。

 建国祭中で人の出入りが多く、怪しまれずに中へ入ることはできた。だがいざ奥へ向かおうとすると、王都へ来てすぐ招かれた謁見室への記憶を頼りにするしかない。王宮は単純な構造に見えて似たような建物が多く、要所要所は衛兵が守っているから、それを回避して進もうとするとどんどん目的地から遠ざかってしまう。


 それでも、それでもこれを渡さなければ。あいつの命がかかっている!


「よっしゃ、行くで」


 フツは辺りをもう一度確かめて、木陰から石造りの回廊へ出ようとした。とにかくどこへ向かうにしろ必ず回廊で繋がっているはずなのだ。

 手摺を乗り越えて回廊へ上がった彼が顔を上げると、その目の前に、いきなり白い人影が立っていた。


「ぎゃあっ」


 三人は揃って声を上げて、最後に上がってきたスターンは手摺から転げ落ちそうになった。

 素早く腕を伸ばしてスターンの胸倉を掴んだのは、美しい楽師だった。

 片手で回廊へ引き戻すその仕草は、意外なほど力強かった。左手には無花果のような形のヴィオルを抱えている。


「あ……あんたは……」


 フツは唖然として呟いた。確かに誰の気配もなかったはずなのに。

 サリエルは不思議な色の目で、その場に固まった少年たちを見回した。


「ここで、何を?」


 敵意のない穏やかな声に、フツは我に返った。こんな男、二人といるはずがない。


「きゅ、宮廷楽師の方ですね? 一昨日の音楽会で拝見しました。演奏めちゃよかったです」

「畏れ入ります。サリエルと申します。あなた方は……留学生とお見受けしますが」

「はい! フツといいます。こいつらはイサクとスターン」


 フツが意気込んで自己紹介すると、サリエルは微笑んだ。

 きつい陽射しの照りつける真昼であるにも関わらず、柔らかな夕風を思わせる笑顔だった。


「ああ、御前試合の決勝でナタレに敗れた方ですね。防御の際に目を瞑る癖がおありのようだ」

「ぐう……」


 イサクとスターンが吹き出し、フツは二の句が継げずに息を飲み込んだ。


「おおおおっしゃる通りです……綺麗な顔して油断のならんお人ですね……」

「それで、ここで何を?」


 楽師は最初の問いを繰り返した。

 三人の闖入者は顔を見合わせて、フツは意を決したように肯いた。


「楽師様、あなたは国王陛下のご信頼を得ていると聞いています。いきなりこんなことお願いして頭おかしいと思われるでしょうが、ここで会ったのも何かの縁です。何とぞ陛下にお取り次ぎを!」


 初対面で厚かましすぎるが、必死さだけは伝わってくる懇願である。

 突拍子もない申し出にも驚かず、サリエルは、


「陛下にお会いになって、何をなさるのですか?」

「これを、これをお渡しします」


 丸めた紙を、フツは見せた。握り締めすぎて真ん中の辺りに皺が寄ってしまっている。


「ナタレの助命を求める嘆願書です。留学生三十四名全員の署名を集めてきました」

「半日でよく集めましたね……」

「このまま仲間を見殺しになんてできへん! みんな同じ気持ちです。あんたもナタレとは親しかったんでしょ? 巻き込まれて下さい」


 同じ留学生でもナタレとは正反対の人懐こさだ。相手の顔色を窺うことなくズケズケと物を言う。それでいて嫌われることがないのは人徳だろう。

 サリエルは少し考えた後、小さく息をついた。


「……ナタレは友人に恵まれている」

「じゃあ!?」

「ですがその書面は別の所へ持って行かれた方がいいでしょうね。私についてきて下さい――目立たぬよう、代表者お一人だけです」

 一も二もなく、フツが前に出た。





 リリンスは朝から考え込んでいた。

 泣いているわけではない、落ち込んでいるわけでもない、ただ石のように固まって考え込んでいた。

 朝食もほとんど食べていないし、侍女の用意した菓子や果物にも手をつけない。

 心配したキーエが、


「姫様、南方からの商人が綺麗な小鳥を揃えておりますわよ。黄色や青や、珍しいのばかり。お呼びしましょうか?」


 などと声をかけてみるが、返事もない。


 昨夜ロタセイ王太子が拘束されてから、王女には外出禁止が言い渡されている。そのせいで、ナタレが今どこにいてどういう状況なのか知ることもできない。

 それでもいつものリリンスならば、強引に部屋を脱出してナタレの居所を探す程度の無茶はやってのけるのだが、今回はとてもそんな元気が出ないのだった。

 彼女は自室の長椅子に座って、敷物を膝に抱え、昨夜の兄の言葉を考えていた。


 ナタレは人質だ。ロタセイの反乱の責を負わなければならない――。


 その通りなのだ。彼自身もそれは最初から覚悟してここに来ていた。分かっていなかったのは私だけ。

 悲しいよりも恐ろしかった。昨日まで言葉を交わし笑い合っていた友達が、明日にはいなくなってしまうかもしれない。そんな決断を、自分の父が下すかもしれない。

 そして自分には何もできない。何の権限も力もない自分には。

 無力感が若い王女を襲っていた。この気持ちを絶望というんだろうか……。


「姫様、いらっしゃいますか?」


 部屋の外で、聞きなれた声がした。キーエが入口に吊るした布を開ける音がする。


「サリエル様、よいところへおいで下さいました。リリンス様が塞ぎ込んでおられて……あら、その方はどなたですの?」

「ナタレ殿のご学友です。姫様にお渡ししたいものがあると」

「困りますわ、そのような……」


 リリンスは長椅子から飛び上がって、大股に入口へ走った。

 困惑したキーエの向こうに、サリエルと、見知らぬ少年が並んで跪いている。

 大柄な少年はナタレと同じくらいの年齢だろうか。やや丸顔で愛嬌のある目鼻立ちをしていた。


「いいわキーエ、通して」


 リリンスが言うと、キーエは何を感じたのかあっさりと彼らを招き入れ、急いで布を閉めた。いくら宮廷楽師の紹介とはいえ、外部の人間を王女の部屋へ入れるのはご法度だ。


「俺……いや私はヒンディーナのフツといいます。お目にかかれて光栄です、王女様」


 少年は少し訛りのある抑揚で挨拶すると深く頭を垂れ、すぐに顔を上げた。

 素直そうな明るい瞳がパッと輝く。


「うわ、近くで見るとめっちゃ可愛いやん」

「王女に向かって何と無礼な!」


 キーエが尖った声で注意するのを押しとどめて、リリンスは少し笑った。今日初めて見せる笑顔だった。


「どうもありがとう。ええと……」

「フツです」

「じゃあフッくんね。もしかして御前試合の決勝でナタレに負けた人? お父様に聞いたわ」

「ぐう……」


 フツは変な唸り声を出して黙ってしまった。実に子供っぽく、率直な反応と言えた。


「で、フッくん、渡したいものって何?」

「あ、はい」


 気さくで優しげなリリンスの態度に安心したらしく、フツは恭しく手にした書状を差し出した。

 リリンスは黙って受け取り、紐を解く。広げられた紙は彼女の上半身が隠れるほどの大きさがあった。そこにびっしりと異なる筆跡の署名が並んでいる。


「ナタレの助命嘆願書です。これを何とぞお父上に、国王陛下にお渡し下さいますよう」


 フツはリリンスの足元に跪いて平伏した。肩の震えが彼のひたむきさを伝えている。


 昨夜はほとんど眠っていない。ロタセイの一件を伝え聞いてすぐに学友たちの元を回り、署名を集めた。

 署名することで何か咎めを受けるのではと懸念する者もいたが、最終的には全員がフツの説得に応じた。ナタレの処遇は、同じような立場の留学生たちにとって決して他人事ではなかったのである。

 考えた挙句にフツが王宮に忍び込むという暴挙に出たのも、ただ友人を救いたい一心であった。


 あまり上手いとはいえない文面の嘆願書をじっくり読んで、リリンスはサリエルを見た。彼は部屋の隅に控えている。


「……お父様に直接取り次がなくてよかった」


 サリエルが肯くと彼女は薄い苦笑を浮かべて、


「こんなに早く留学生全員の意思をまとめてくるなんて、あなたの行動力はお見事だわ。みんながナタレを助けたいという気持ち、よく分かりました」

「では陛下にお渡し頂けますか!?」

「それは駄目」


 リリンスは一転、厳しい表情でフツを見下ろした。

 フツはたじろんで、


「な、何で!?」

「落ち着いて考えてみて。オドナスに歯向かった国の王子の助命を、同じ留学生のあなたたちが国王に直訴するのよ?」


 二歳も歳下とは思えない大人びた眼差しを向けられ、フツは急に緊張した。

 無邪気に見えて、やはり王女だ。


「咎めを受けるのは覚悟の上です。どうしても黙ってられへんのです」

「咎めって、それ意味分かってる? あなたが不祥事を起こせば、あなたの国にも累が及ぶのよ。ここに署名した他のみんなもね!」


 リリンスは嘆願書の表面を指で叩いた。怒ってはいない。だが、思いだけで突っ走った少年の頭を冷やすのには十分な迫力を備えている。

 凛とした気品に圧倒され、フツは息を飲んだ。自分の行動が故郷にも影響すると、今やっと思い至ったのである。反逆した国の責任を被ったナタレとは逆に、自分が国王の逆鱗に触れればヒンディーナが危機に晒されるかもしれない。

 人質とは、つまりそういうことなのだ。


「フツ、あなたのやったことは、あなたとあなたの国と、留学生全員とその国を、みんな危険に巻き込む。軽率と言わざるを得ません」

「はい……仰せの通りです……俺が浅はかでした」


 フツは完全にしょげ返って、大柄な身体を小さくした。泣きそうに顔を歪めている。


「でも、そしたらどうすれば……もう俺にできることはないんでしょうか? こっ、このままあいつが死罪になったりしたら……」

「だから、この書状はリリンスが預かります」


 リリンスは身を屈めて、フツの肩に触れた。真っ直ぐに視線を合わせて、


「私、ナタレの力にはなれないと思って昨夜から落ち込んでたの。でもフッくんのおかげでやる気が湧いた。とにかくできることをやってみる」


 と、笑った。可憐な容姿からは想像できない、実に強靭な意志の持ち主なのである。悪く言えば頑固であり、背後でキーエが溜息をついた。

 フツの頬に赤味が差した。半分は希望、もう半分は単に彼女に見惚れたことによる。


「何かうまい手ぇがありますか、姫様?」

「うん、とにかくナタレに会わないと……サリエル」


 リリンスはサリエルを振り返った。


「彼が今どこにいるか、あなたなら調べられるわよね」

「分かりました。すぐに」


 楽師は静かに頭を下げて、部屋を退出した。

 フツをここに連れてきた彼の判断は正しかったと言える。どんな結果になるかはまだ分からないが、それで事態が動き出したのだから。


「夢みたいに綺麗なお人ですねえ……何者ですか?」


 心から感心したようなフツの声に、リリンスはなぜか少し嬉しくなった。


「さあ、ここへ来る前のことはよく知らないの」

「国王とデキてるって噂はほんまなんですかね?」

「実の娘にそれ訊く? 知らないわよ。でもいずれは私の愛人にするんだからね」


 彼女はとんでもないことを明るく言ってフツを怯えさせ、次にキーエに向き直った。

 キーエは王女が元気になって安心しているようではあるが、フツの物言いには納得いかなげだ。同じ王族でも、あの礼儀正しいナタレとはこうも違うものか。


「キーエ、ひとつお願いできる?」

「はい、何なりと」

「南方の商人が来てるって言ってたよね。小鳥買ってきて。あと、他に小動物がいればそれも――いるだけ全部よ!」

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