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水面の月を抱く国  作者: 橘 塔子
第四章 封じられた断章
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神官長の確信

 目の前で寝息を立て始めたセファイドを、サリエルとユージュは並んで眺めていた。

 オドナスに建国以来最大の繁栄をもたらした名君から、その王位の正統性を揺るがす告白を聞いても、彼らに動揺の気配はなかった。

 何の感慨も持たないのか、あるいは想定内の事実であったのか。


「……先王の死についてですが」


 ふいに、サリエルがぽつりと呟いた。

 隣でユージュが肯く。国王の寝顔を見詰めたまま、


「止めを刺したのはこの人でしょうね」


 と、あっさりした口調で答える。


「衛兵たちが執務室に踏み込んだ時、先の王は血に染まった懐剣を握って息絶えていたと言いましたね。でも、この人が最初に見つけた時はそんな様子はなかったし、王太子が怪我をしているわけもなかった。だったら考えられることはひとつです」


 わずかな間を置いて、サリエルが後を引き継いだ。


「衛兵が駆けつける前に、陛下が父王の懐剣を使って息の根を止めて、それを握らせた」


 彼の言葉に感情は籠っていなかった。だた、事実を告げただけの乾いた口調。


「懐剣についているのが誰の血か、確かめる方法はなかったでしょうからね――ここの人たちには」


 まるで自分たちにはそれができるかのような言い方をして、ユージュは背中を丸めた。


 父シェダルが即死しておらず、次兄フェクダを後継にと望んでいることを知って、セファイドは決断したのだろう。ぐずぐずしているうちに他の者がやって来る。皆の前で遺言を遺されたら終わりだ、と。


「陛下が月神の裁きを恐れた本当の理由はそれなのかもしれません」

「父殺しだろうが兄殺しだろうが、人殺しに変わりはないですよ。どんな大層な理由をつけたところでね。まあ私には関係ありません。この人が国王でいてくれた方が、私たちには都合がいいのです」


 若い神官長の冷めた雰囲気に、サリエルは彼女を見た。


「あなたはアルハ神を信じてはおられないようだ――陛下よりももっと」

「月はただの巨大な土塊です。人間を裁くことなどできない。国が滅ぶほどの天変地異が起こるとすれば、それはきっと別の理由でしょう」


 実に罰当たりな台詞を神聖な部屋で吐いて、ユージュはにこりと笑った。笑顔でありながら、一分の隙もない硬質な気配を身に纏っている。


「サリエル様、先日、あなたの髪の毛を一本採取させて頂きました」

「ええ、存じています。アルサイ湖の岩場でですね」


 サリエルもまた穏やかな笑みを浮かべた。彼女とは対照的な、構えのない緩い物腰だ。誰にどう踏み込まれても、逆らわず恐れることもない。


「それで、何か分かりましたか?」


 ユージュは目の前の楽師と、白いアルハ神像を見比べた。

 確かに面立ちはそれほど似ていない。だが、同質だ、と人間に認識させる何かがある。セファイドが動揺したのも理解できた。


「正直に言うと、あなたにこの地へ来てほしくはありませんでした」


 彼女の声に、初めて感情らしいものが混じった。

 薄い紗のような、それは悲しみに似ていた。


「なぜ今なのでしょうか……? 来るのならばもっと早く来ればよかったのに。あなたのやろうとしていることは、たぶんこの国を変容させてしまう――例えそれがあなたの意思ではなくても」


 口にしてから、ユージュは自分の言葉に違和感を感じた。

 意思? この男に意思などあるのか?


「……つまらないことを言いました。あなたの役目に協力は惜しみません。我々に課せられた、それが責任です」

「安住の地を失い、また流浪の民へと戻っても?」


 サリエルの問いかけに、ユージュはほんの少し肩を震わせた。彼女の驚きの反応がそれだった。

 楽師は、彼女ら一族の言語を使って喋ったのである。


 この男、やはり――彼女は深く納得した。

 湖畔での出会いから疑念を抱き、調べて結果を見てもまだ半信半疑だったのだが、一族の言語を使いこなしたことで確信した。


「あなたとあなたの一族の幸福を最優先させて下さい、ユージュ様」


 サリエルは気負いなく、流暢に続けた。


「若いあなたが過去に囚われることはない。もう少し柔軟に、あなた方の未来を考えてみてもよいと思いますよ」


 まるで古い友人と再会したような不思議な気持ちで、ユージュはただ胸を押さえた。

 懐かしい、という感情は故郷を持たない彼女には新鮮で、戸惑いもあったが不快ではなかった。


「サリエル様、あなたは……」


 いつもより柔らかく、同じ言語で話しかけた彼女を、しかしサリエルは掌を上げて押しとどめた。


「少し……外が騒がしいようです」


 低い呟きはオドナス語に戻っていた。


 しばらくはユージュの耳には何も聞こえなかったのだが、そのうちに、入口の扉がコツコツと鳴った。外側から叩かれているようだ。

 ユージュは立ち上がって、足早に扉の方へ向かった。

 金属の扉は彼女自身の手で施錠してある。顔の高さくらいの位置を押すと、横に細長い小窓が開いた。緊急連絡用にと、セファイドがつけさせた窓である。


 扉の向こうにいるのはカイだった。

 細い窓からは彼の目の部分しか見えないが、下から仄かな明かりが差している。手に蝋燭を持っているらしい。


「ユージュ、礼拝堂に国王侍従長が来ている」


 彼は声を潜めて告げた。顔の皮膚が緊張で震えているのが見て取れる。

 現王が認めているとはいえ、月神節の夜伽が妨げられるのは初めてのことだった。


「夜明けまで待つと言っているが、用件だけ伝えるよ」


 ユージュが、ええ、と答えるのを待って、彼は続けた。


「……砂漠の東、スンルーとの国境付近でロタセイの民が反乱を起こした。知事を人質に知事府の城を占拠しているとのことだ。留学中のロタセイ王太子の身柄は、アノルト殿下の判断で王宮に拘束している」

「分かったわ」


 深刻な内容にも動じることなく、神官長の指示は短かった。


「陛下には私から伝えます。侍従長にはそのまま待機していてもらって」


 淡々とした彼女の物言いは、普段はぶっきら棒だが、こんな時には頼もしく感じられる。

 カイは大きく肯いて、暗い通路を急いで引き返して行った。

 その後ろ姿を見送ってから、ユージュは振り返った。アルハ神像の前では、すでにセファイドが身を起こしていた。


「何かあったか?」


 彼は眠りの余韻など微塵もない明瞭な目つきで尋ねた。もしかして本当はずっと起きていて自分たちの会話を聞いていたのかも、とユージュが一瞬勘繰ったほどだ。

 すぐに思い直す――あり得ない。もし空寝であったのなら、サリエルが気づいたはずだ。


 ユージュはセファイドの前に跪いて、カイの報告をそのまま伝えた。

 セファイドの表情がみるみる険しくなる。月明かりが作った陰影が眉間から頬にかけて流れ、苦悩とも怒りとも取れる感情が彼の顔に浮かび上がった。彼にして初めて見せるような生々しい動揺だ。


「……どうなさいますか? このまま夜伽を続行されますか?」

「国王が月神節の晩に神殿を出ることはできん。国王に信仰がないと他の者に気取られるわけにはいかない」


 セファイドは即答した。驚きはわずかの間で過ぎ去り、物凄い速さで思考が動き始めている。この切り替えが早くないと、国王職などとても務まらないのだ。


「サリエル」

「かしこまりました。ご伝言はシャルナグ将軍に?」

「察しがいいな」


 楽師の反応の速さに感嘆しつつ、彼は目の前の二人にそれぞれ指示を出した。


「俺が戻るまでアノルトに仕切らせて構わない。だが、暴走しないように見張っておけ。それから、スンルーの大使を呼び出して謁見の準備を整えておくように――と、シャルナグに伝えろ。ユージュ、サリエルを秘密裏に王宮へ戻すことはできるか?」

「はい、侍従長のいる礼拝堂を避けて、裏から出します」

「よし、では頼んだ」


 サリエルは立ち上がって一礼する。ユージュが彼を先導して、再び出口の扉に向かった。


「あのロタセイの少年、助かるといいけど」


 ユージュの呟きに、サリエルが前を向いたまま肯く。


「本人の決断次第ですね。辛い選択になるでしょうが」


 美しい横顔には微塵の曇りも見受けられなかったが、その声に確かな苦渋を聞き取って、ユージュは珍しく気が重くなった。今日の昼間、闘技場で勇敢に闘った少年を待つ運命を思うと、憐憫の情さえ湧いた。


 そっと振り返ると、その運命を握る男は、神像の台座に持たれて腕を組み、瞼を閉じている。眉間に刻まれた皺から、眠っているわけではないと分かった。

 自国を守るためならどんな非情な決断も躊躇なく下せる男だ――過去の告白を聞く前からユージュにもよく分かっている。

 そして国王が是とするならそれこそが正義で、ユージュらも従う他ない。実際彼の判断はこれまで常に正しかったし、彼女と彼女の一族もその恩恵で生きてこられた。


 あの少年が生き延びられる可能性は、あまりにも少ないように思えた。





 夜が明ける頃には、多くの情報が集約されていた。


 ロタセイ王ザルトは、一ヶ月ほど前、オドナスの建国祭に出立する直前に、落馬が原因で死亡していた。詳しい状況については伝えられていないが、完全な事故死であったらしい。

 しかし残された王子たちはその事実を伏せたまま、予定通り王都に向けて出発した。

 八百人もの隊列を指揮したのは、王の長子ハザン――ナタレの三歳上の兄である。


 彼らは王都に向かう前に、知事を訪問する名目で知事府に入城した。

 知事は当地における国王の代行者であり、東部知事は現王の従兄にあたる人物が務めていた。

 ロタセイは自治を認められているため直接その統治を受けているわけではなかった。だが監督下にはあったので、表敬訪問は不自然ではなかった。

 知事本人は建国祭の期間中も任地に留まり、使者を王都に送っていた。その随行のため駐留軍の多くが知事府を離れた機会を、ロタセイは狙ったのである。


 彼らはもともと『緋色の勇兵』と讃えられるほど戦闘能力に長けた部族である。隠し持ってきた武器を取り、あっと言う間に知事府を制圧した。外からの攻撃には堅牢な知事府の城も、内側からの攻撃には脆かったらしい。

 戦闘の混乱の中で知事は拘束され、武装解除された衛兵隊とともに城内に監禁された。

 通信手段はすべて断たれて、この異常事態が東部に残った駐留軍に伝わったのは反乱から十日も経った後だった。衛兵の一人が知事府から脱出し、満身創痍になりながらも近隣の駐屯地に辿り着いたのである。


 ただちに王都に向けて伝令が出立するとともに、知事府奪還のために駐留軍が動き始めた。だが城は強固で、内部に多数の人質もいることから本格的な攻撃がかけられずにいる。

 ロタセイは篭城を続けながら時間を稼いで、周辺の部族に蜂起を呼びかけている。だがその呼びかけに応える者たちはまだいない。

 反乱が起こってから約一月、事態は膠着していた。

次章、ちょっと試練です。

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