吉報と凶報
しばらく続いた花火は最後にひときわ豪華な色彩の連弾を見せて、爆音とともにその幕を閉じた。
紺色の空には白煙だけが残り、今までの喧騒が嘘のように静まり返る。空気の振動がわずかに続いていたが、それもすぐに収まった。
「綺麗だったね……」
リリンスは名残惜しげに湖を眺める。硝煙の臭いが鼻を突き、夢のようなひと時から現実に引き戻された気がした。
ナタレも彼女と同じ方向を見て、
「花火を見たのは初めてです。ただ人を楽しませるためだけにこれほどの技術を使うとは、この国は本当に凄い……」
「外国のお客様にそう思わせるのがお父様の狙いなのよ。でも、そうね、ナタレが少しでもオドナスを好きになってくれたら、私も嬉しいわ」
言ってから、しまったと思った。彼はただの客人ではないのだ。人質に送られた先の国を好きになれなんて、あまりにも配慮の足りない発言だった。
しかしナタレは気にしたふうもなく、少し笑っただけだった。
ただそれだけのことなのに、リリンスは物凄く嬉しくなって、そしてなぜ自分はこんなに喜んでいるんだろうと不思議になった。
辺りはすっかり静けさを取り戻していた。中庭の方から晩餐会のざわめきがかすかに聞こえてくるが、別世界の出来事のように遠く感じる。
高く上った満月はその色を朱色から金色に変えて、冴え冴えと透明な光を湖面に注いでいた。
二人は何となくその場を立ち去り難くて、堤防に腰掛けたまま空を眺めていた。
やがて――。
「もう戻りましょう、姫様」
ナタレがそう言って、リリンスは肯いた。
正直な気持ちは一晩中でもこうしていたかったけれど、それは許されないと分かりきっていた。彼女は彼女の役割の中に、彼は彼の役割の中に、各々また戻らなければならない。
先に堤防から下りたナタレは、リリンスに手を差し出す。
もちろん自力で下りられたが、その手を強めに握って、リリンスは彼に体重を預けた。
服を通して伝わってくる、ナタレのしなやかな筋肉の動き。リリンスにとって、同年代の異性にこれほど密着したのは初めてかもしれなかった。
「……重いでしょ」
「ちっとも。軽いですよ」
「結構、力強いのね」
とはいえ、昼間あれだけの試合をこなしたのだ。本当は腕も背中も疲労しているはずだった。
痣と傷のついた横顔を間近で見て、リリンスはむしろ気持ちが高揚するのを感じた。
ナタレは少しもふらつかずに彼女を抱き下ろし、そっと手を離した。
「ありがとう……あ、あのね……」
礼を述べたものの、後が続かない。沈黙するのが急に気まずくなって、リリンスは言葉を探した。
おかしい、いつもの自分ならポンポン物が言えるのに……。
ナタレは目を逸らして、足元の青草を見ている。彼もまた言うべき言葉に迷っていると分かり、リリンスはますます焦った。
――その時、王宮の建物の中から、大勢の足音と金属音が聞こえてきた。
静寂をまさに蹴散らすような騒々しい音ではあったが、統制の取れた足音だった。人数は十人を超えていそうだ。金属音は剣と盾が触れ合う音だろうか。
王宮の中で危険はないと分かっていながらも、ナタレはリリンスの前に出た。
「な、何?」
建物の奥からから黒い影のような集団が近づいて来るのが見えて、リリンスは目を凝らした。
月明かりに照らされた裏庭まで出てくると、ようやくその正体が分かった。
剣と盾をもった二十人近くの衛兵と、それを率いる人物。
「アノルト兄様……」
「そいつから離れなさい、リリンス」
アノルトは晩餐会の正装のままだった。しかしその表情は、来賓の応対をしている時とは打って変わり、険しく暗い。
「ナタレをここに連れてきたのは私よ。彼は何も悪いことはしていないわ」
自分が晩餐会を抜け出したことで騒ぎになったのだと、リリンスは慌ててナタレを庇った。
アノルトは無言で妹の腕を掴み、自分の下へ引き寄せる。
それを合図に、衛兵たちがナタレを取り囲み、まるで罪人にするように彼に剣を向けた。
「兄様、何を……!?」
「ナタレ、おまえに吉報と凶報がひとつずつ届いている」
状況が掴めず、戸惑うナタレにアノルトは告げる。
皮肉を込めた冷ややかな口調で、
「まずは吉報――おまえの父親、ロタセイ王が死亡したそうだ。これでロタセイの王位はおまえのものか。おめでとう」
先にリリンスが反応した。大きな目をさらに見開いて、兄を、それからナタレを凝視した。
当のナタレはその意味を理解しているのかどうか、固い無表情で棒立ちになっている。
アノルトは酷薄な笑みを浮かべた。
「次は凶報の方だ。ロタセイが我が国に向けて蜂起した。東部地区の知事府が襲撃されたと、たった今知らせが届いた。祖国はおまえを見捨てたようだな」
「嘘だ」
ようやく、ナタレの唇が動いた。
突然もたらされた知らせに、どう反応すればよいのか感情と身体がついていかないのかもしれない。
ロタセイが反乱を起こした。大国オドナスを敵に回して戦うつもりか。
王都にいる自分を裏切って――父が死んだだと?
「う……そだ、嘘だ!」
彼は声を荒らげて、激しく首を振った。
青い月光の下でも、その顔から血の気が引いているのが分かる。
「そんな……本当なの?」
愕然とするリリンスを自分の背後に押しやり、アノルトはナタレを睨みすえる。
「国王陛下不在時につき、俺が命を下す。ナタレを拘束せよ。ロタセイ王太子として、反逆の責任を取らせる」
衛兵の包囲がぐっと狭まった。
自分に向けられた剣を押しのけようとして、ナタレは数人の衛兵に腕と肩を押さえられた。
「離せっ……!」
「ナタレ殿、どうか抵抗なさいませぬよう」
衛兵の中から、小隊長が声を潜めて嗜めた。侍従の業務上、王宮の衛兵隊とは接点が多く、彼とも顔見知りだった。
「あなたに手荒な真似はしたくありません。ここは殿下のおっしゃる通りに」
「連れて行け!」
アノルトの命令で、衛兵らは両脇からナタレを抱えるようにして王宮の中へと連行する。
ナタレはそれ以上抗う素振りは見せなかった。父親の死と祖国の変節に呆然としているのだ。逃げようとか、この後自分はどうなるのかと考えることがまだできないでいる。
「ナタレ!」
リリンスの呼びかけにも無反応のまま、彼は衛兵に囲まれてその場から引っ立てられていった。
「お……お願い兄様、ナタレに酷いことしないで。お願い……!」
胸元に縋りつくようにして嘆願する妹を見下ろし、アノルトは軽く息をついた。
「それは父上のお決めになることだ」
「では兄様から口添えを。彼自身が何かしたわけじゃないのに、処罰を受けるなんてひどい」
「勘違いをしてはいけない、リリンス」
彼はやや厳しい表情になって、リリンスの両肩に手を乗せる。
「ナタレはオドナスの客人じゃない。ロタセイの服従の証として差し出された人質なんだよ。ロタセイが反旗を翻した以上、ナタレはその責を負わなければならない」
「彼を……こ、殺すの?」
「だからそれは父上のご判断だ。だが奴に何の咎めもなければ、他の属国へ示しがつかないだろう。ナタレもそれは覚悟しているはず――もう友達ごっこは終わりにしなさい」
別人のように冷たい兄の言葉だった。
いや、リリンスも分かっている。アノルトは将来国を継ぐ立場にあって、個人よりも国益を優先した判断ができるよう幼い頃から教育されている。
一方ナタレもロタセイの王太子として、王都へ来た時から、祖国と自らの命は鎖で繋がっているのだと自覚していたのだろう。
今、なぜそうなったのかは分からないが、ロタセイは鎖を断ち切ろうとしている。
切り捨てられたナタレを待つのは、支配国オドナスの冷徹な論理だけだ。
自分もまた彼を裁く側の人間だということに、リリンスは恐怖を覚えた。
以前に彼が見せた、激しい拒絶と嫌悪――その意味がやっと分かって、身体が震えた。
アノルトは建物の中へ視線を送った。
柔らかな足音がして、待機していたらしいキーエら侍女たちが姿を現した。
「リリンスを部屋へ。今夜は外へ出さないように」
おまえにできることはもう何もないし、するべき立場でもない、と兄に言われているみたいだ。
その通りだと思った。
ゆるゆると昇った月は化け物のように巨大で、冷ややかに彼らを睥睨している。
それに祈る気には、リリンスは到底なれなかった。