将軍と歌姫
三年後――。
オドナスの将軍シャルナグは、広場で見慣れぬ楽器を演奏している辻音楽師が気になっていた。
粗末な服に身を包んだその楽師が手にしているのは、無花果を縦に割ったような形の弦楽器だった。それを膝から肩へ凭せかけて、短い弓で四本の弦をなぞっている。
優美に伸びた無花果の先端で、左手の長い指が複雑に弦を押さえていた。人の声に近い音域の、ふくよかで艶のある、しかしどこか寂寥とした音色の楽器だった。
奏でている曲も異国の音楽のようだ。交易が盛んで多彩な文物に溢れたこの都の人々が、最初は物珍しげに足を止め、やがてうっとりと聴き入っている。
数日前に通りかかった際に耳に飛び込んできた音楽は、将軍の心にも不思議なくらい響いた。いつも店を出している露天商に訊けば、三日ほど前からここで演奏しているのだという。
それからもう六日、将軍は毎日その演奏を聴きに足を運んでいた。
広場の中央では国内外の商人たちが市場を形成している。
賑やかな物売りの声、甘くむせ返るような果物の匂い、家畜の鳴き声、銀製品のきらめき――それらすべてを明るい青空と生い茂る熱帯の植物が包んでいる。この砂漠最大のオアシスの恵みで、この都では水と緑には事欠かない。
そこかしこで大道芸人や辻音楽師が客を集めていたが、この不思議な弦楽器の楽師には敵わなかった。
広場の片隅の石段に腰を下ろした楽師の前には、いつしか数十人の人だかりができていた。
楽師はひとしきり甘く切なげな旋律を奏でると、最後の余韻を長く響かせて弓を止めた。客の唇から一斉にため息が漏れ、次の瞬間大きな拍手が湧き起こった。
「何ていう楽器だい、そりゃ?」
「異国の曲かね。もっと弾いてくれよ」
楽師の足元に広げてある袋に硬貨を投げ入れながら、客たちは口々に言った。
「では今度は、北の国の曲を」
楽師はそう言って笑ったように見えた。フードを目深に被り、鼻から下を薄い布で覆っているので実際の表情はよく分からない。
再び、弓が弦の上を滑った。
楽師が歌うことはない。それなのに、聴く者の脳裏には北国の冷たい雪と風が、荒涼とした凍土が、火を囲んで集う人々の踊りが、短い夏の柔らかな陽光が、鮮やかに浮かぶのだった。
シャルナグは少し離れた場所で目を閉じてそれを聴いている。
今年四十歳になった彼は、まさに大国の王軍を預かるに相応しい堂々とした体躯をしており、顔立ちもいかつく頬は髯に覆われている。そんな黒獅子のような容貌の彼が眉間に皺を寄せて目を瞑っているものだから、通行人が避けて通った。
「またそんな恐ろしいお顔をして、シャルナグ様、皆が怖がりますわ」
傍らに佇んでいた女があきれたような口調で言った。
刺繍入りの麻の衣装を身に纏った若い女だ。オドナスの民よりももっと色素の濃い肌をしており、縮れた長い髪を頭頂で丸く結い上げていた。
シャルナグはうむと唸って目を開けて、
「どう思われる、キルケ殿? あの楽師の演奏」
「シャルナグ様のおっしゃる通り、とても素晴らしいですわね。少し怖いくらい。弾いているのは本当に人間かしら?」
キルケと呼ばれた女は演奏に合わせて軽く鼻歌を歌う。やや低音の声が心地よく響いた。
「あの楽師は魔物か何かだと?」
「冗談ですわよ」
「うむ、冗談か。では陛下の御前で演奏させるに値するだろうか?」
キルケは首肯した。
「将軍閣下の耳は確かです」
「ありがとう。今日はあなたに来てもらってよかった」
強面の将軍の笑顔は、意外なほど人懐こかった。
楽師の演奏が終わると惜しみない賛辞と銀貨が振り注いだ。
彼はいつもほんの数曲披露するだけで立ち去ってしまう。今日もまた、あまり愛想を振りまくこともなく、初日の十倍ほども溜まった銀貨をしまいつつ立ち上がった。もっと聴きたげな聴衆に会釈をして楽器を脇に抱えた。弓も本体に差し込める作りになっているようだ。
シャルナグは意を決して彼の後を追った。
「楽師殿!」
広場から大通りに繋がる出口の所で呼び止めると、楽師はゆっくりと振り返った。
フードの下で銀色の眼差しが薄く光っている。冷たい色だが酷薄な感じはしない――。
「素晴らしい演奏だった、楽師殿。貴殿のことは都で評判になっている」
「ありがとうございます。六日前からいらっしゃっていましたね」
楽師の言葉にシャルナグは驚いた。
いくら自分が大男とはいえ、あの群集の中で見分けられていたとは。それともこの楽師は聴衆一人ひとりの顔を記憶しているのだろうか。
「私に何か?」
「うむ。私はシャルナグという。このオドナスで王軍を預かる将軍職に就いている。決して出自の怪しい者ではない。無礼を承知で申し上げるが、ぜひ貴殿を我が屋敷にお招きしたい」
大国の将軍が一介の辻音楽師に対してあまりにも丁寧な物言いであった。
現王の軍事における片腕として領土拡大に最も貢献した武人でありながら、たいへんに生真面目な性格の持ち主である。何かしら自分よりも優れた才を持つ相手に対しては、身分に関係なく敬意を表した。
「ご同行頂けるだろうか?」
「喜んで――」
楽師は目深に被ったフードと顔の薄布を取った。
「サリエルと申します。私のような者が将軍閣下にお目通り叶うなど、光栄の至りです」
「お……」
シャルナグは思わず声を出した。戦場でも滅多に見ることのできない将軍の動揺である。
そこに光が生まれたかと思うほど、楽師は美しい容貌をしていた。
銀細工の両眼に透き通る滑らかな肌、遠く西方の彫像を思わせる端整な顔立ち、それを縁取る豊かな黒髪。
「これはまた……ますます人間離れだわ」
将軍に付き添っていたキルケが小さく呟いた。感嘆というより呆れたふうな口調だ。
彼の美貌に気づいた広場の群集がざわつき始めた。シャルナグは我に帰り、騒ぎになる前にと楽師を通りへと連れ出した。
オドナス王国はこの砂漠全域を統一した初の王国だった。
もともとはオアシス都市国家の一つに過ぎなかったのが、今の王に代が変わって二十年、あっという間に領土を広げ、東西の交易でもたらされる莫大な富を掌中にした。
その急速な繁栄の要因は、強力な軍事力もさることながら、現王の卓越した政治手腕にあった。
オドナスに逆らう国々への侵攻は苛烈を極め、反対に統治を受け入れた者たちへの待遇は実に寛大だった。都から知事を派遣しつつも基本的に自治を認め、自由な商業と文化や宗教を守ることを約束した。
その一方で、隊商を狙う盗賊団の討伐にも力を注ぎ、いくつもの盗人の首が都に晒された。
砂漠に点在しながら細い交易の糸で繋がっていた国や部族を、オドナスがまとめあげて太く強靭な道を敷いたのだ。何も生み出さない砂漠の地は、今や多くの人と物と金が行きかう海となっていた。
オドナス王はまた、統治する部族の若者たちを、客人として王都に招いた。そして自分の目の届く所で教育を受けさせた。
もちろんこれには統治する諸国からの人質という意味もあるが、柔軟な若者の心にオドナスの優れた文化を植えつけ、将来的に彼らの祖国にそれを持ち帰らせるという意図があった。
今のところ国内に多様性を認めてはいるものの、いずれは文化的にもひとつにまとめあげてより強固な国家を目指すというのが、王の長期的な戦略である。
併合された部族にとっては為政者の都合で押しつけられた平和とも言えよう。
ともあれ砂漠は一人の強力な王の元で繁栄を享受しつつあった。
都市国家であった頃は街そのものがオドナス王国の本体だったので、領土が広がった今日でも王都に特定の呼称はない。
しかしその命の源であるオアシスは、『アルハ神の恩寵』を意味するアルサイ湖と呼ばれていた。
砂漠で最大の面積と水量を誇るこの湖は、神話が示す通り、河川もなく雨も降らない灼熱の砂の中に突如として現れる。
一説によると、遥か北方にそびえる山脈の雪解け水が伏流となり、この地に運ばれ湧き出しているとも言われているが、正確なところは分かっていなかった。
だが五十万人余りの王都の人口に十分な水を供給し、それでもなお青い水を満々と湛えて減ることはなかった。
アルサイ湖の周囲にはここが乾いた大地であることを忘れさせるほど濃い緑が生い茂り、畑や果樹園で作物が栽培された。もちろん漁業も盛んで、上がった淡水魚や貝類は毎朝街の市場に並んだ。
王都の市街地はオアシスの南の縁に広がっていた。
高度な技術をもって張り巡らされた水路は血管のようで、街中に澄んだ水を供給した。そのおかげで砂漠の中にあって都は適度な気温と湿度を保ち、豊かな緑が涼しい木陰を旅人たちに提供していた。
時に砂中の翠玉と称されるに相応しい、美しく豊かな都である。
街は水路に沿って格子状に整備されていた。
中央に市場の立つ広場があり、そこからいちばん広い通りが東西南北に伸びる。道沿いには多くの商業施設や旅人相手の宿屋が立ち並び、この国の繁栄を見せつけていた。
大通りから奥へ入ると、都人たちの居住区があった。白い土壁でできた低い家々がひしめき合う。路地では子供が遊びまわり、それを叱りつけて女たちは井戸端で炊事をし、物売りが賑やかな声を張り上げた。雑然とした、しかし平和な生活が垣間見える。
広場から南北に伸びる通りを北へ進むと、やがて白い壁に囲まれた巨大な建物が現れる。その後ろはすぐアルサイ湖だ。
青い湖面を背にして、街へ水を送り出す水門を守るように建つその建物こそ、このオドナスの王宮であった。
サリエルと名乗った楽師が連れて来られたのは、格子状の街のかなり北部、王宮にも程近い場所だった。
この区域は一般の居住区と違い、広い敷地に建つ大きな屋敷が多かった。人通りも少なく、閑静な印象を受ける。
シャルナグは、その中でもひときわ立派な門を持つ屋敷にサリエルを案内した。
門の両脇には使用人というにはあまりに屈強な佇まいの男が剣を携えて立っていたが、将軍を見ると背筋を伸ばして深く頭を下げた。オドナス軍から選び抜かれた精鋭なのかもしれない。
背の低い潅木が手入れされた塀の内側は広々として、葉の大きな木々が爽やかに茂っていた。庭にも水を引いているのか、せせらぎの音がする。
足元には滑らかな黒い石をつないで歩道を設えてあった。奥に立つ屋敷は白い壁に鮮やかな彩色がしてある。壁や屋根に凝った意匠を施せるのは裕福な証拠だった。
玄関前で数名の使用人が主人を待ち構えていた。
玄関といっても、砂漠の気候柄、扉のようなものはない。麻で織り上げた布が垂れ下がっている。昼間は両脇で束ねられ、風通しをよくしていた。
シャルナグは使用人たちに来客を告げ、サリエルとキルケを先に案内させた。
彼らは客間のような広い部屋に通された。
調度品はあまりないが、柔らかな絨毯の上に低い長椅子と黒檀のテーブルがある。テーブルには円い香炉があって、薄い香りがたゆたっていた。
玄関と同じく部屋の仕切りは様々な色合いの布で、庭から吹き込む湿度を含んだ微風が心地よかった。
長椅子に少し離れて座ると、キルケは微笑を浮かべてサリエルを眺めた。
切れ長の目ときりりとした眉が印象的な、どこか中性的な美しさを持つ女であった。年はサリエルと同じ二十代半ばか、少し上に見える。
ここまで来る道すがら、シャルナグはサリエルに彼女を紹介していた。王宮付の歌手でその容貌から『オドナスの黒い歌姫』と称される当代きっての実力の持ち主であるという。
「あなたが顔を隠していた理由が分かるわ」
歌姫の地声はどちらかといえば低音だった。低く囁くような、耳に心地よい声。
サリエルは肯いて手にした楽器を撫でた。
「余計な面倒ごとに巻き込まれるのは避けたいので」
「まあそうでしょうね。演奏にお金を払う前に、あなた自身を買おうとする者達が殺し合いを始めるかも」
物騒な台詞を吐きながらも、彼女の口調はどこか楽しげだった。
程なく――紺色の麻布を潜って、この屋敷の主が姿を現した。
「お待たせしたな」
部屋着に着替えたシャルナグ将軍は、立ち上がろうとした楽師を止めて、自分も彼らの向かいに腰を下ろした。
二人の女中が入ってきて、手早くテーブルに瓶と杯を並べた。この地方でよく飲まれる山羊乳で作った酒だ。客のもてなしの定番である。
酒瓶を持つ侍女たちの手が震えていることに気づいて、シャルナグは彼女らの手から瓶を取った。このままではテーブルに酒をぶちまけられる羽目になると考えたからだ。
それでも客人に見とれていることを咎めはせず、シャルナグは彼女らを下がらせた。
「何と言うかまあ……これほど綺麗な男がこの世にいようとは」
シャルナグは正直すぎる感想を口にして溜息をついた。
サリエルは臆するでもなく少し笑った。白い歯並びが薄い色の唇から覗いて、シャルナグは無意識に目を逸らした。
将軍が手ずから二つの杯に酒をつぐと、サリエルはそれを恭しく手に取って、彼らは乾杯した。歌手であるキルケは喉のために酒類は口にしないらしい。
爽やかな酸味のある酒を飲み干してから、シャルナグは訊いた。
「貴殿は見たところ西方のご出身らしいが、オドナスにはいつ来られた?」
「都に参ったのは十日前です。その前は、ここより遥か北方、雪山と氷海の国を旅しておりました」
「北方……天気のよい日に見える山脈の辺りか?」
「さらに北でございます。人の住む陸地の果て、そこより先には海に浮かぶ巨大な氷しかありません」
「貴殿も彼の地の生まれなのか?」
「いえ……私に故郷と呼べる土地はございません。故あって、物心ついた時からこうしてさすらっております」
その故というのを尋ねたかったが、楽師は答えない気がした。旅人たちには様々な目的と理由があり、深くは問わないのが交易都市の掟だった。
「その楽器は何という? ウードに似ているが弓で弾くのは初めて見る」
「前の持ち主はヴィオルと呼んでいました。西国の楽器職人の手によるものです」
シャルナグは再び溜息をついて、背もたれに体を預けた。
私の半生はこの砂漠の端から端までを駆け回っていたが、この美しい男はさらに外側の世界を見知っているのだな――。
「……サリエル殿、貴殿の腕と旅の経験を見込んでお願いがある」
「どのようなことでしょうか?」
「うむ、今日、キルケ殿の賛同が得られて腹が決まった。貴殿を王宮にお連れしようと思う。王の御前でその素晴らしい楽の音を献じては頂けないか」
サリエルはすぐに答えなかった。美しい表情からは感情が読み取りにくいが、シャルナグはその沈黙を戸惑いと取った。
「王は私などとは違い芸術に明るい方だ。きっとヴィオル……だったか? その音がお気に召すことと思う。そうなれば貴殿は宮廷楽師として召し抱えられるだろう」
「それは誠に光栄ですが……よいのですか、私のごとき素性も定かでない旅の者など」
サリエルは少し声を低くした。
「王に仇なす敵国の刺客やもしれぬというのに」
聞いていたキルケが少々わざとらしく、まあ、と声を上げたが、シャルナグは明るく笑い飛ばした。
「それが狙いなら、最初からその美貌を晒すだろう。楽器など奏でずとも自然と王宮かそれに近い所から声がかかっただろうに」
それにこの男は異質だ――そう将軍の勘が告げていた。
焼けた砂を渡って来たにも関わらず、この清澄さと恐れのなさ。明らかに外の世界から来た異物だ。我々の国とまったく関係のない遥か彼方から。
だからこそ、王の近くへ置いても安全だと思えた。
「オドナスは現国王セファイド陛下の御世になって二十年、急速に領土を拡大してきた国だ。今ようやく国内が落ち着き、外交と内政の整備に力を注いでいるところだ」
サリエルは肯いた。
「僭越ながら、この都はとてもよくできた街です。いろいろな国の都を見て参りましたが、ここほど平和で活気に満ちた場所は他に知りません。それに広場で演奏をしていて、ただの一度もたちの悪い連中に絡まれたりしなかった。治安の良さには目を見張ります」
「オドナスの民はアルハ神に恥じない生き方をするよう幼い頃から教育されるからな」
将軍の言葉はどことなく誇らしげだった。
「だがまだまだ我が国は人の層が薄い――あらゆる方面においてだ。内外から優秀な人材を集めねばならんのだ」
「楽師など、他にいくらでもおりましょうに」
「演奏が素晴らしい上に、砂漠の外を巡り歩いた楽師はそうはいない。陛下は外世界の様子を聞きたがっておいでだ。きっと貴殿を厚遇なさると思う」
サリエルは長い睫毛を伏せてしばし考え、キルケはその横顔を窺った。
謙遜はするが自分を卑下している素振りはなく、醸し出す雰囲気も優雅な青年だ。ふと、気になった。
「あなたのその容貌、物腰……もしかして、どちらかの国で身分のあるお方なのでは?」
「それは違います。私は身分や権力には最も遠い立場の者」
彼は即答した。口元に苦笑に似たものが浮かんでいる。
「――かしこまりました。オドナス王に楽の音を献じます」
シャルナグはほっと胸を撫で下ろした。