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水面の月を抱く国  作者: 橘 塔子
第四章 封じられた断章
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昔語り・3

少し流血描写があります。

 シャルナグと衛兵たちを礼拝堂で待たせて、セファイドは単身で『月神の間』に入った。

 王族と神官以外は入れない場所であった。そこをごり押しして兵士とともに押し入ろうとは思わなかったし、また彼ひとりでなければ都合が悪い理由もあった。


 礼拝堂から続くアーチ型の隧道を歩きながら、セファイドを自分の犯す罪に背筋が寒くなった。それは少し快感に似てもいた。

 もし本当にアルハ神が見ているのならば、自分には神罰が下るのかもしれない。

 逆に何も起こらなければ、それは神の不在を証明することになりはしないか。

 暗い隧道に自らの足音だけがひたひたと響く。彼は確かめるように腰の剣に触れた。


 『月神の間』の扉の鍵は開いていた。

 ゆっくりと扉を開けると、円い石造りの広間には皓々と月明かりが降り注いでいた。

 ちょうど満月が中天し、天窓からその姿をくっきりと望める。冴え冴えと澄んだ銀色をしていた。

 天窓の真下のアルハ神像――国内で唯一の神を写した姿。

 幼い頃父に連れられて初めて対面した時、その圧倒的な存在感と美しさに心を奪われた。この歳になってもやはり見惚れる。交易のある国から運ばれてきた様々な彫像を見たが、この神像ほど生命力を感じる姿をしたものはなかった。


 神像の台座の前で、ミルジムが跪いていた。

 本当に祈っている――許しを請うためか。


「兄上」


 声をかけると、ミルジムはびくりと身体を震わせ、顔を上げて振り返った。


「おお……セファイドか……」


 白い正装にこびりついた大量の血液はどす黒く変色している。

 月光に照らし出された彼の姿は本当に弱々しく、幽鬼のようだった。石でできたアルハ像の方がよっぽど人間らしく見える。

 気の毒だ、と思う心がないわけではない。こうなってしまったのは兄だけの咎ではないのだろう。

 それでも、ここで憐れみをかけるのはオドナスの王太子に対して礼を欠く。


 セファイドは無言で剣を抜いた。

 白刃が月光を跳ね返し、ますます冴え冴えと、呆気に取られた表情のミルジムの顔を照らす。


「な、何だセファイド……何をしようというのだ?」


 彼はじりじりと後ずさった。


「あなたは国王弑逆の謀反人です、兄上」


 セファイドは低く言って、同じ歩幅でゆっくりと間合いを詰めていった。


「そして父親殺しの大罪人でもあります。オドナスの定めに従い、同じ血を持つ私がそのお命を貰い受けに参りました」


 一歩でも踏み間違えれば、自分も相手と一緒に奈落へ落ちる――その際どさがセファイドに訳の分からない高揚感をもたらしていた。

 例え落ちなくても、この先一生、その深い谷の淵に立ち続けなければならないのだ。


 殺気、とも取れる気配は対峙するミルジムにも伝わり、彼はすべてを理解したようだった。


「……謀ったな!? セファイド!」


 ミルジムは腰から剣を引き抜いた。

 父親と側近たちを斬った剣である。血糊こそ拭き取られていたが、斬撃と人の脂で刀身はかなり痛んでいると思われた。


「この私を騙し討ちにして王位を掠め取るつもりか!」

「ご自分の仕出かしたことを棚に上げて勝手なことを。兄上は最悪の方法で自ら王太子の座を捨てたのです!」


 セファイドはいっきに詰め寄って、下から斬り上げた。

 ミルジムは避ける間もなく、何とか剣で受け止めた。


「兄上がもっと強い心をお持ちなら! 堂々と王位を継げるだけの度量があれば! こんなことにはならなかった!」

「おまえこそ勝手なことを言うな! 従順な末子を装いながら、本当は私を見下していたくせに。自分こそが最も王に相応しいと、父と兄の両方の死を望んだだろう。ならばおまえも私と同罪だ!」


 平素は穏やかで控えめなミルジムが初めて見せる、生々しい怒りの表情。彼もまた弟に対する複雑な思いを胸に隠していた。

 だから、彼と弟を比較するような父親の叱責で、彼は爆発したのだ。


 強引に押し返して斬り込んでくる兄の剣を、今度はセファイドが止めた。

 剣術の稽古では、弟である彼が兄に勝ちを譲ることも多かった。それは長兄に恥を掻かせまいとするセファイドの気配りではあったが、本気で勝てないと思ったことは一度もなかった。

 怒りと憔悴で血走ったミルジムの目を、セファイドは怯まずに睨み返す。


「兄上に俺の何が分かる! 俺は父上にも兄上にも生きていてほしかった。でもこうなった以上、俺が始末をつけるしかないだろう!」


 二人はいったん離れて、それから四度剣を叩き合わせた。

 ミルジムは肩を大きく上下させ、額から汗を滴らせている。基礎体力の差だ。

 稽古ならこの辺でわざと隙を見せてやっていたが――セファイドは大きく深呼吸して自分にまだ十分余力があることを確認する。


 さっきからひりひりと全身に視線を感じていた。

 無機質な、冷たい、感情を含まない眼差し。誰のものかは分かっていた。

 そこで見届けるがいい――。


 奇妙な声を上げてミルジムが斬りかかってきた。もう足取りがふらついている。

 セファイドは初めて攻撃を止めずにかわし、兄の胸元に飛び込んで、左胸から右肩口へと一瞬で斬り上げた。

 肉の弾力と肋骨の砕ける固い感触――剣を通して伝わってきたのは、確実に肺まで切り裂いた手応えだった。

 口から血泡を噴いて仰け反るミルジムの喉元に、返す刀でとどめの一撃を入れる。大量の血潮が驚くほど勢いよく噴出して、セファイドの上半身に飛び散った。


 呻くことさえできずに崩れ落ちる兄の身体を、セファイドはどこか他人事のように眺めていた。


 それから、アルハ神像に向き直る。

 白い立像は変わらず静謐な姿でそこにあった。そこにあって彼らを見詰めていた。何の感情も含まない無機質な冷たい眼差しで。

 こんな時だというのに、血で汚れた頬を拭うことも忘れて、彼はただ見蕩れた。


 月光に薄く照らされた室内では、血の色も青黒く現実感に乏しい。むせ返るほどの血臭が場違いに思える。

 神罰は、下るだろうか。


 ふいに、左足首に冷たい痛みが走った。

 見下ろすと、倒れたミルジムが彼の足を掴んでいた。

 首から下のほとんどを朱に染めて、蒼白な顔を苦痛と恐怖に歪めながら、渾身の力で足首を握り締めている。


「……呪うぞ……おまえを……この国を……」 


 ミルジムは聞き取れないほど掠れた声で言った。

 鼻と口から血を流し、両眼は飛び出しそうなほどに見開かれている。破れた肺から呼吸が漏れ出して笛のような音が鳴った。

 セファイドは黙って見下ろしている。


「おまえはこの先も近しい者を殺し続ける……おまえがすべてを失い……この国が滅ぶまで……呪い続けてやる……」

「あなたには無理です、兄上」


 セファイドはむしろ優しく言い放った。


「生きていてさえ何も成せなかったあなたに、死んでから何ができるというのです。せいぜいこの国の繁栄を見ていて下さい」


 その言葉が届いたかどうか。


「……死にたくない……死に……たくない……ちち……うえ……」


 啜り泣きのような呟きが途切れ、指の力が緩んだ。

 セファイドは大きく息を吐いて、天窓を見上げた。満月は円く切りとられた夜空を横切るところだった。





 礼拝堂で待つシャルナグたちの前に、兄の遺体を引き摺ったセファイドが戻ってきた。

 顔も手も身体も血塗れの凄まじい姿に誰もが言葉を失ったが、当の本人はさしたる感慨も見せずに淡々としている。


「王太子は俺が討ち取った。これより王宮に帰還して血讐の完遂を宣言する」

「あ、ああ、分かった。おまえ、怪我は?」

「全部返り血だ。問題ない」

「満月の晩に……アルハの御前で何ということを……」


 副神官長が蒼白になってわなわなと体を震わせている。だが神殿を汚した張本人に食ってかかる気概はもう残っていないようだった。

 セファイドは頬に散った血の汚れを拭いながら、


「神官長が戻ったら、朝一番王宮に出頭するよう伝えろ。謀反人を匿ったその申し開きを聞かせてもらおう」

「か……かしこまりました……」


 ミルジムの遺体は布で包まれ、衛兵数人に担がれて船着場へ運ばれた。

 神官と神殿の近衛兵たちがその光景を呆然と眺めている。

 神の前での兄殺し――信仰心厚き者たちの恐れと敵意を一身に受けながら、セファイドは平然と坂道を下って行く。その後を追うように、金色の月明かりが周囲を明るく照らす。


 オドナスの民として一般的な信仰心しか持ち合わせていないシャルナグの目には、アルハ神がセファイドを咎めているようには見えなかった。

 むしろ、自らの神殿で仇討ちを遂げさせるなど、彼の味方をしているようにしか思えない。

 月神に愛されているから、一晩に父と兄を失いながらこれほど平静でいられるのか――。


 やがて舟に乗り込み、舟がゆっくりと離岸して穏やかな湖面を進み始めても、セファイドは穏やかな無表情を崩さなかった。兄の遺体には一瞥もくれず、汚れた右手を水に浸している。

 その端整な横顔に迷いや後悔は微塵もない。

 あまりにも毅然とした幼馴染の姿から何かを感じ取って、


「……泣いてるのか?」


 シャルナグは抑えた声で尋ねた。


「泣いてない」

「少し休めよ。帰ったら忙しくなるぞ」


 そう、忙しくなる。次兄や叔父達を黙らせ王位についた後は、彼に安息の日は訪れないだろう。

 自身が望んで選んだ結果とはいえ、これから彼が歩む険しさと背負うべき責任の重さを考えると、シャルナグは切なかった。

 もっと楽な生き方もあっただろうに――。


 セファイドは黙って肯いたが、暗い湖の果てを見据えた両眼を閉じようとはしなかった。

 世界を見詰める円い月は、化け物のように巨大だった。

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