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水面の月を抱く国  作者: 橘 塔子
第四章 封じられた断章
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昔語り・2

 兄と叔父たちが慌しく王宮を出て行くのを横目で見ながら、セファイドはひとり王宮の奥へ向かった。

 普段はあまり人気のない、特に男性は立ち入ることの少ない場所、姉タルーシアの居室である。

 彼女は数年前に父親よりも歳の離れた隣国の王に嫁がされた後、その逝去に伴って先月帰国したばかりだった。一度結婚した王女が出戻ってくるなど滅多にないことで、ミルジムの実妹であり正妃の子でありながら、王宮にあっては陽の当たらない存在になっている。

 国王殺害の知らせは無論ここまで届いている。父親の遺体にすぐに面会することも叶わぬほど、タルーシアの立場は脆弱なのだ。


 騒ぎのせいで衛兵の姿はなかった。

 王子のいきなりの訪問に慌てる女官たちを無視して、セファイドは入口の間仕切り布を開いた。

 薄暗い部屋の奥の長椅子で、ほとんど寝そべるように座るタルーシアがいた。その姿を隠すように女官の一人が立ち塞がる。


「何のおつもりです、殿下」


 険のある眼差しを向けたのは侍女エムゼであった。若いが、王女付の侍女の中ではいちばん古株で、王女の輿入れに随行した腹心でもある。


「ここは王女タルーシア様の私室、弟君といえども国王陛下の許可なく立ち入ることは許されませんよ」

「その国王が崩御されたから来たのだ。通しなさい」


 肝の据わった女官の肩を、セファイドはむしろ優しく押しのけて、部屋へ入った。

 長椅子のタルーシアは泣いてはいなかった。放心したように両眼を見開き、足元の一点を見詰めている。

 もともとは華やかで美しい顔立ちの娘であるのに、その頬には疲労とも悲しみともつかない陰がこびりついていた。


「姉上、お久し振りです」


 セファイドは長椅子の手前に膝をついて、帰国以来の再会となる姉に囁いた。

 いや、時たま中庭からあるいは自室の窓から、その姿を見かけることはあった。大輪の薔薇が萎れたような暗い表情のタルーシアを。


「父上がお亡くなりになりました。事故ではありません。ミルジム兄上に斬り殺されたのです」


 タルーシアは初めて顔を上げた。

 未亡人となってからは化粧も身なりも質素にしている。しかも夫の死、離縁、父の死と続いて心身ともに疲弊しているようだ。


「……それはお父様の血ですね?」


 セファイドの衣服の胸から腹にかけて大きく広がった赤黒い染みを見て、そう訊く。彼が肯くと、


「お気の毒なお父様……ご自分の息子に殺されてしまうなんて。そしてお兄様も……どうしてそこまで追い込まれてしまったのかしら……あんなにお優しかったのに……!」


 と、顔を両手で覆う。知らせだけを聞いてまだ半信半疑だったところへ、父の血を浴びた弟がやってきて、すべてを実感していまったのかもしれない。


「姉上、私はこれから兄上を捜し出し、国王殺害の謀反人として討ち取ります」


 セファイドのきっぱりとした言葉に、タルーシアは身体を強張らせた。


「実の兄を……討つと……?」

「フェクダ兄上も叔父上方もすでに動いていますが、おそらく私が最初に兄上を見つけることでしょう。私は兄上を討って血讐を果たし、オドナスの王座に着きます」


 タルーシアは眩暈がした。

 一歳年下の異母弟の言動には、子供の頃からいつも驚かされる。強くて真っ直ぐで、時に息苦しいほど明朗で――父や兄とはまったく違う

 彼は今宵の満月のように澄み渡った眼差しで、正面からタルーシアを見た。曇りなく明るいが、冷たい。


「ならば早くお兄様を捜しに出ればよいではありませんか。なぜここに来てそのようなことを私に言うのです?」

「姉上には私の妻に、オドナスの正妃になっていただきたいのです」


 驚いたが、聡明なタルーシアは一瞬でセファイドの意図が理解できた。

 彼の母親は側室の中でも最も身分が低い。例え仇討ちが果たせたとしても、他の王族たちからの反対が出るかもしれない。正妃の子である自分を娶れば、より強化した血を時代に残せることになり、血統主義者たちを黙らせることができるだろう。


「おまえも……私を利用するのですね」


 タルーシアは低い口調で呟いた。

 この十八歳の王女は、ほとんどの装飾を取り払いながらも、だからこそ静かな迫力と気品を全身から滲み出していた。王の娘として自身の意思を押し殺し、義務を果たす覚悟はできている。実際これまでそうして生きてきた。

 父を亡くしてなお、また別の肉親の踏み台にされるのか。


 セファイドは――微笑んだ。


「姉上はお強い方です。父上とも兄上とも違い、現状をよしとせず、つねに怒りをもっていらしたようにお見受けします。あなたをまた政略結婚の道具にして他国に遣るのは、あまりに勿体ない」


 彼は姉の手を取った。

 労働とも戦いとも無縁の、たおやかで細い手。皮膚は冷たいが内側では父と兄と同じ血が炎のように流れている。


「あなたも私を利用すればよいのです。私は必ずオドナスを強い国にします。諸国の顔色を窺わずとも済むよう、大きく豊かな国にします。姉上に二度とあのような辛い思いはさせません。大国の正妃として、姉上はお心のままに振る舞えばよいだけ」


 いつかこうなるのではないかと思っていた。

 ミルジムに国王としての適性がないのは、昔からタルーシアにも分かっていた。いつかこの聡明で活発な弟が血統を引っ繰り返すのではないかと――隣国への輿入れが決まった時、その予感が当たる日を見ずに済んだと、その部分だけは安堵を覚えていた。

 結果的に自分はオドナスへ舞い戻り、今こうしてその日を迎え、張本人からの求婚を受けている。これも運命かもしれなかった。


 何より――小さくまとまってしまったオドナスにおいてひとり異質なこの異母弟に、彼女は強く惹かれていた。


「ひとつ訊いておきます、セファイド」


 タルーシアは声を潜めて、セファイドの耳元へ顔を近づけた。

 服についた血はとっくに乾いていたが、未だに鉄臭い独特の臭いが消えない。


「おまえが謀って、兄を騙し討ちにするつもりなのではありませんね?」

「アルハ神に誓って、そのようなことはございません」


 セファイドは即答した。笑みを含んだ表情は揺るがない。


 窓から白々とした満月の光が差し込む。

 物の輪郭も曖昧な薄闇の中で、姉弟の周りだけが浮かび上がるように明るい。


 長い沈黙の後、タルーシアは息をついた。


「分かりました。申し出を受けましょう。早く行って……お兄様を楽にしてあげて」


 ――血の匂いとともにセファイドが出て行くと、彼女は再び放心したように長椅子に凭れた。

 エムゼが心配げに近寄ってくる。


「エムゼ……何かお酒をちょうだい」

「はい、ただ今……姫様、あのようなお約束をされて、ご本心からのことですか?」

「セファイドが本当に誰よりも早くお兄様を討つことができるのなら、それは神のご意志なのだわ。私も賭けてみます」


 タルーシアは受け取った葡萄酒の杯を一息に干した。

 渇きが、徐々に潤されていくようだった。





 王宮の前庭に出てきたセファイドを、険しい顔つきのシャルナグが迎えた。

 彼はこの頃西方の国境を守る警備隊の下士官に過ぎなかったが、たまたま王都に戻っており、この騒動を受けて真っ先に駆けつけたのだった。


「動くのが遅すぎるぞセファイド! もうフェクダ殿下も叔父上方も皆出立された」


 幼馴染であり、今でも気の置けない友であるシャルナグは、イライラしながらセファイドを待っていたようだ。彼が掻き集めてきたらしい衛兵が二十人ほどつき従っている。


「そう焦るなよ。兄上たちはどこへ向けて出て行ったんだ?」

「街の外に決まってるだろう。厩から駱駝が一頭いなくなっていて、おそらく砂漠へ逃れたのではないかと。とすれば、いちばん近いディダの村か、あるいはクラン砦まで逃れるつもりか…」

「なるほどな」


 セファイドは兵士が差し出した防具を身につけながら歩く。血に汚れた服を着替える時間はなさそうだった。

 最後に長剣を腰に据えて、


「兵は何人だ?」

「二十三人。これだけ集めるのがやっとだった。何しろ王軍本体を動かすには王か王太子の許可がいるからな。王宮の衛兵はほとんどフェクダ殿下が連れて行ってしまった」


 シャルナグは悔しげに、少しの非難を込める。

 おまえがモタモタしてるから先を越されてしまったんだぞ――さすがに口には出せなかった。彼はたった今父親を亡くしたばかりなのだ。

 セファイドは少し笑った。


「おまえ一人がいてくれれば俺には十分だよ」

「余裕だな。勝算あるのか?」

「兄上は中央神殿にいる」


 断定的な言葉に、シャルナグのいかつい顔が呆気に取られた。


「神殿だと……まさか!」


 その可能性は他の皆も考え、そして選択肢から外したはずだ。


「信心深いミルジム殿下が、陛下を手にかけた直後に神殿になど行けるものか。しかも今夜は満月だ」

「神罰が怖くて近付けないとでも? その信心深い兄上が父親を殺したんだぞ。だいたいアルハの神罰は個人ではなく国に下るんだ。兄上が逃げてもどうにもなるまいよ」


 セファイドは足早に王宮の外ではなく内に向かった。埠頭に行くつもりなのだ。

 シャルナグも慌てて後に続く。


「兄上は間違いなく神殿に匿われているはずだ」


 鋭いが、険のない、どこか楽しんでいるような友人の横顔に、シャルナグはそれ以上の異論を挟むのをやめた。

 彼がこんな顔をするのは揺るぎない確信の証で、それはだいたいにおいて的中する。おそらく本当にミルジムは神殿にいるのだ。

 もしそうなら、神殿と一悶着起きるのは確実だ。ただでは済みそうにない。

 シャルナグは腹が痛くなってきた。





 案の定、神殿側の桟橋に着くと、神殿の近衛兵団に取り囲まれた。

 煌びやかな鎧を纏った彼らは神官長直属の衛兵で、王軍とは完全に別組織である。


「これはセファイド殿下、このような時刻に何のご用で?」


 指揮官格らしい一人が、突然の王子の訪問に戸惑った様子で訊く。だが明らかに不愉快そうだ。ここは我々の縄張りだ、と。


「王太子が来ているはずだ。お会いしたい」


 セファイドは舟から降りると、彼等の方など見ようともせず、神殿に向かって歩き出す。


「お、お待ち下さい。神官長は夜伽の務めで不在でございます。王子といえども武装した御仁をお通しするわけには……」

「俺が用があるのは神官長ではなく王太子だ」


 シャルナグと衛兵たちが素早くセファイドの前へ出て、神殿の近衛兵を押しのけて道を作る。

 その場はにわかに騒然としてきた。


 湖からは相変わらず鐘の音が響いていた。

 シャルナグは近衛兵と押し合いながら、まだ何も知らないであろう神官長が気の毒になった。老体に鞭打って満月の鐘を叩き続け、明け方に戻ってきて初めてこの騒動を知るのだ。心臓麻痺でも起こさなければいいが。


 その場は王宮側と神殿側の兵士たちの小競り合いのような様相を呈した。

 もともと仲のよくない集団同士だ。剣を抜く者こそいないものの、盾を使って押し合いながら怒号が飛び交う。

 そんな中、セファイドだけが颯爽とした足取りで歩いて行く。

 あっという間に丘の上の神殿に辿り着いた。


 満月の月明かりをほぼ真上から浴びた巨大な建物は、くっきりした黒い影を地面に落としている。薄ぼんやりと明るい夜の中で、神殿だけが暗く沈んで見えた。

 金属の重厚な扉は、こちらが叩くまでもなく向こうから開いた。


「これはいったい何の騒ぎですか!?」


 外の騒動を聞きつけて出てきたらしい神官が数人現れる。

 中央にいるのは副神官長、神官長不在時の全権代行者だ。細長い顔をした副神官長は白い眉を吊り上げた。


「神聖な満月の晩に兵士を引き連れて戦でも始めるおつもりか? 即刻この場を立ち去りなされ、第三王子よ。そうすれば神の島での狼藉には目を瞑ります。用があるなら明日の朝出なおして来られよ」

「……つくづく今日は行く手を阻まれる日だな」


 セファイドは軽く天を仰いだが、怯む様子はなかった。


「兄上に会わせろ。そうすれば無礼な物言いには目を瞑る」

「王太子殿下は確かにおいでになっております。だが今は祈りの最中。あなたと違って信仰心の厚いお方だ。お取り継ぎはできませんな」

「ミルジムは国王陛下を弑した」


 セファイドが無感情に言い放つと、副神官長はぽかんと口を開けた。理知的で神経質そうな顔立ちだけに滑稽さが際立つ。


「何と……」

「兄上は着替える間もなく、返り血を大量に浴びていたはずだ。そんな血まみれの兄上を見て異常だとは思わなかったのか? 気づかなかったのならあまりに無能、気づいていて通したのなら弑逆に加担したも同然!」


 セファイドが一歩踏み出すと、副神官長は後ずさった。

 平素は闊達で人懐こい彼が真剣になった時の、その底の知れない気迫――たった十七歳の少年に不気味ささえ感じて、副神官長は唾を飲み込んだ。


「今すぐにミルジムを引き渡せ。さもなくば、神殿も王家に仇なす謀反人の一味と見なして相応の処分を覚悟してもらうぞ。神のしもべが王軍と戦ってみるか?」

「そのようなことをすれば……神罰が下りますぞ」

「下るのならもう下っている。それを回避するために、王太子に責任を取らせるのだ」


 セファイドは笑っていた。

 月光がその端整な顔に深い陰影をつけ、彼を禍々しい何かに変貌させたようで、副神官長は心底ぞっとした。

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