昔語り・1
少し流血描写があります。
その夜は満月だった。
風が涼しく、晴れ渡った美しい夜だった。
宵の口、アルサイ湖から響く鐘の音を聞きながら、セファイドは中庭をぶらぶらと歩いていた。
あの鐘は神官長が鳴らしている。ご老体に鞭打って一晩中ご苦労なことだとは思うが、夜空に染み渡るような深い音色がセファイドは少し気に入っていた。
今日は午前中に王宮で礼拝があった。最近特に兄は神経を擦り減らしているようだったのに、礼拝の間だけは、神官の祈りの言葉を聞いている時間だけは、彼は安らいでいるように見えた。
本来、聖職者に向いているのかもしれない。兄の穏やかな物腰や語り口は、さぞかし信徒の心を捉えるだろうに。
だがそんな兄は、今夜もまだ仕事をしている。父と数人の側近とともに、執務室で会議を続けているはずだ。そしてその場に自分が呼ばれることは決してない。
鬱々とした気分になってきて、セファイドは月を見上げた。
オドナス王家の家督は、代々長男に受け継がれる。それは建国以来の伝統であり、アルハ神の意思なのだ。背けば神罰が下るという。
では、どんなに王に不向きな者であろうと、長男でさえあれば次の王座に着けると、アルハ神はそうお考えなのか。その結果、民が苦しみ国が傾くことになっても。
セファイドの眼差しはいつしか鋭利なものに変わっていた。
アルハ神のご意思を伺ってみたい――あなたが実在すればの話だが。
その不遜な思いに応えたのか――。
突然、甲高い叫び声が聞こえてきて、セファイドは足を止めた。
明らかに尋常でない女の悲鳴だ。続いて、何か陶器が割れるような音。
反射的に声の方向を探して頭を巡らすと、中庭の西側の建物から一人の女官が飛び出してくるのが見えた。
「誰か……誰か来て下さい! 陛下が!」
女官は狂ったように叫んで、何度も転びそうになりながら回廊を駆けて行く。中庭のセファイドには気づいていない。
セファイドはその後を追うことはせず、彼女が今出てきた建物へと走った。それが国王執務室のある棟だと理解したのだ。あそこには父と兄がいるはず。
女官の恐怖に歪んだ表情から嫌な予感がして、彼は植栽を踏み拉き、回廊を飛び越えるようにして建物に辿り着いた。
前室は薄暗いが奥の執務室からは灯りが漏れている。だが人の気配は感じられない。
執務室の入口のところで、先ほどの女官が落としたのか陶器の茶道具が割れていた。
「父上、失礼致します」
入室の許可は待たず、彼は間仕切りの麻布を跳ね上げた。
執務室の中の様子は、ある意味予想通りと言えただろう。
王の執務机の前に広い円卓が配置された、見慣れた御前会議の光景だ。臨席していた者たちも全員揃っている――ただし床の上に。
乱雑に引っ繰り返った椅子から少し離れたところで、皆折り重なるように倒れていた。
そして床は一面血の海だった。
セファイドは息と一緒に叫び声を飲み込んだ。
鉄分を多く含んだ生血の臭いが湧き上がる。吸い込むと体内まで赤く染まりそうな、濃厚すぎる血臭だった。
父はどこに、と必死で室内を見回すと、執務机の反対側に立ち尽くす細い後ろ姿があった。
兄ミルジムだ。
「あに……うえ……」
セファイドは搾り出すように言った。喉に張りついた声は自分のものとは思えなかった。
兄の足元に長く伸びた人の身体がある。
それは、紛れもない父王であった。
ミルジムはゆっくりと振り返った。筋肉に鉛でも流し込まれたかのような緩慢な動き。
そして彼は、この状況を説明する道具をその右手に握っていた――血の滴る長剣を。
彼は焦点の定まらない目でセファイドを見たが、すぐにそれは恐怖の色に変わった。
「セ、セファイド!」
「兄上、これはいったい……」
セファイドは、兄と兄の足元に転がった父親の身体を見比べた。
オドナス国王シェダルは大きく両手を広げた格好で仰向けに倒れている。胸の中央が朱に染まり、そこから流れ出した血液が背の下に大きな血溜まりを作っていた。
尋ねるまでもない。状況は一目瞭然だった。
「セファイド、私は……」
ミルジムはふらふらと近付いてきた。
セファイドは反射的に身構えたが、彼は手にした長剣を投げ捨てて弟にしがみついた。
間近で見る兄の顔は蒼白で、その全身は細かく震えていた。血の臭いが強い。手や衣服に何人もの返り血を浴びているのだ。
「私は……私は何ということを……」
ミルジムはか細い声で呟いた。泣いているようだった。
セファイドは兄の肩越しに父の姿を見ていた。
固く目を閉じた土気色の顔は、すでにこと切れていると思われた。尊敬し、誰よりも愛していた父が。
「……兄上がやったのですね?」
彼の問いには抑揚がなかった。
ミルジムは彼の背中に回した腕に力を込めながら、
「父上が悪いのだ……皆の前で私を責めた。なぜおまえはセファイドのようにできないのだと……いつもいつも! いつもおまえを引き合いに出して…!」
セファイドは自分の頭の中が急激に冷えていくのを感じていた。
後継者の重圧でほとんど切れかかっていた兄の理性。
会議中に父から発せられた叱責の言葉。
礼拝に正装で参加していたため帯刀していたという不幸な偶然。
生まれて初めての激情に駆られ剣を抜き、止める側近たちを次々と斬り倒して。
ついにはその切っ先を父親の胸に――。
どうです父上、セファイドにこんな真似はできないでしょう。
「兄上、お気を確かに、よくお聞き下さい」
セファイドはミルジムの両肩を掴んで顔を覗き込んだ。自分の取るべき行動ははっきりと分かっていた。
「すぐにこの場を離れて下さい。後は私が何とかしますから、兄上はいったんどこかへ身を隠すのです」
「しかし……」
「あまり時間がありません。先ほどの女官が衛兵を呼べば、兄上は罪人として捕らえられてしまう。行き先は、そう……中央神殿がいいでしょう」
セファイドは怯えきり混乱したミルジムに畳みかけた。
兄を愛していた。だが、今しかなかった。
「王宮の埠頭は使えません。アルサイ湖を迂回して対岸の船着場に行くのです。あそこは夜は無人になるはずですから。神殿に着いたら、アルハ神に祈りたいとだけおっしゃって下さい。そうすれば『月神の間』に通されます。王族以外は立ち入れない場所です」
言葉を重ねれば重ねるほど、セファイドは自身が冷静になるのが分かった。
対照的にミルジムは思考が追いつかず、戸惑って判断がつきかねている。
セファイドは兄を強く揺さぶった。
「できますね、兄上?」
ミルジムは――ついに考えることを放棄したようだった。
「わ、私を助けてくれるのだな?」
「どんなことがあってもセファイドは兄上の味方です。私が事を収めるまで、しばらく神殿においで下さい」
縋るような眼差しの兄へ、セファイドは笑いかけた。
「さあ早く。中庭を突っ切って裏門から」
「わ、分かった」
丸腰では不安だったのか、ミルジムは父を殺めた長剣を躊躇なく拾って鞘に納めると、足早に出口へ向かった。床に転がる家臣の亡骸には目もくれない。
自分のしでかしたことに対する現実感が、まだ乏しいのかもしれない。
「兄上、船着場まで馬ではなく駱駝をお使い下さい。砂漠に出たと皆を欺けますから」
「そうしよう。本当に感謝するぞ、弟よ」
ミルジムはおそらく心からの信頼を込めてそう言い、意を決したように執務室から出て行った。
血生臭い部屋にはセファイドひとりが残された。
兄は無事神殿に辿り着けるだろうか。きっとうまくいくはずだ、アルハ神が味方してくれれば――兄ではなく自分に。
今頃になって緊張で手が震える。
これからすべきことを考えると、あまりの途方もなさに眩暈がした。
セファイドはひとつ息を吐き、父シェダルの傍に近寄って跪いた。
完全に死亡しているのを確認するため、首筋に手を伸ばす。
その瞬間、シェダルが呻いた。
セファイドは飛び上がるほど驚いた。
「ち……父上!」
「セファイド……か……」
シェダルはうっすらと目を開き、顔を歪めて浅く短い息をした。
ミルジムの一撃は即死に至らしめるには弱く、まだ命の糸が切れてはいなかったのだ。
セファイドは父を抱き起こした。
力を失った身体は腕の中で重く、氷のように冷たい。床に流れ出た血液の量から、絶命するのは時間の問題と思われた。
「父上、何かご遺言は?」
セファイドが静かに訊くと、シェダルは苦痛よりも疲労の滲む表情で目を閉じた。
「フェクダを呼べ……ミルジムがああなった以上、王位はフェクダに……」
「なぜです!」
下の兄の名を出され、セファイドは激昂した。
「なぜまた兄上なのですか!? なぜ私ではいけないのですか!? 私の何が……お気に召さないのです……?」
声は徐々に小さくなった。
感情が逆巻いたのは一瞬で、すぐに寂しさと悲しみが胸を塞ぐ。父は死を目前にしてなお、自分を認めようとしない。
そう――父はもうすぐ死ぬのだ。
シェダルは目を開けて、血に染まった掌をゆるゆると伸ばし、そっと息子の顔を撫でた。
「おまえは賢くて強い……私の自慢の息子だ」
「ではどうして、私を選んでは下さらないのですか?」
「……おまえにはあまりにも恐れがなさすぎる……自分も他人も、神すらも恐れていないだろう……」
言葉を失う息子の前で、彼は再び目を閉じた。頬に血の跡を残して手が落ちる。
「セファイド、おまえが王になれば、いずれ必ず神罰を招く……」
セファイドは無言で父の身体を抱いた。その重みが増していくのを受け止めていた。
後継者たる長兄が錯乱し、父王を手にかけ遁走した――神罰というなら、今この状況こそが神罰でなくて何なのでしょう。すべてあなたが招いたことだ。
しかし、やりきれない思いを死にゆく父に吐露することはできなかった。
シェダルはか細い呼吸を繰り返している。命の火が完全に消えるまで、もう少し時間がありそうだった。
取り乱した女官から知らせを受けて、衛兵たちが駆けつけた時、オドナス国王シェダルはすでに息を引き取った後だった。
現場は目を覆わんばかりの酷い状態で、床や壁一面に血が飛び散った中、シェダルの他に四人の側近たちが斬り倒されていた。
側近たちは剣を抜く間もなく致命傷を負わされていたが、シェダルだけは抵抗を試みたらしく、血に染まった護身用の懐剣を右手に握り締めた格好で息絶えていた。
血塗れのセファイドがその場居合わせており、普通ならいちばんに嫌疑がかかるところだったのだが、王太子ミルジムの凶行現場を目撃した女官の証言のおかげで濡れ衣を着せられることはなかった。
また、斬られた側近の中にもまだ息のある者がいて、王太子の仕業であるとはっきり言い残して絶命したという。
よって、「女官の悲鳴を聞いて駆けつけたら国王が殺害されていた。兄の姿はすでになかった」というセファイドの証言はあっさりと信用された。
王太子が父王を殺害するという異常事態に、王宮内は混乱に陥った。
何しろ国家元首と、その不在時に職務を代行するはずの後継者が同時にいなくなってしまったのだから、誰の指示と判断を仰げばよいのか、皆が慌てふためいたのである。
静謐だった満月の晩は、たいへんな騒乱に包まれた。
王族や重臣たちが動揺する中、セファイドだけが、次の行動を考えていた。
「兄は父を手にかけた時点でその身分を失った。王の死亡時点で王太子がいなければ、王位継承権順に自動的に後継者が決まる。つまり次男のフェクダ兄だ。だが、王の死が自然死でも事故死でもなく他殺であった場合、特殊な決まりごとがオドナスにはあった」
これは『血讐による継承』が発動される事案だと、王宮に集まった王族のほとんどが気づいていた。
血讐による継承――つまり、国王が殺害された時点で王太子がおらず、また国王の遺言もなかった場合、王位継承権者の中でその犯人を討ち取った者が次の国王となれる、と定める旧いしきたりである。
建国以来、記録に残っているのはわずかに二例。どちらもまだ世継ぎのいない若い国王が戦場に倒れた後、その戦いを引き継いで勝利を収めた親族が王位に就いたという、流れとしては自然な継承であった。
真の意味での仇討ちにより継承順位が引っ繰り返るかもしれない今回の状況は、まさに前代未聞なのだった。
血讐による継承が認められるには神殿の許可が必要だった。だがそれを待っていては下手人たる王太子を取り逃がしてしまう恐れがある。申請書面の作成だけを司書室に依頼し、王位継承権を持つ王族はそれぞれにミルジムの捜索と追撃を開始した。
動いたのはフェクダ、セファイドの二王子、それに王子たちにとって叔父にあたるシェダルの三人の弟たちだった。
肉親の死に乗じさらに肉親を殺してのし上がろうとする行為に後ろめたさを感じてか、表向きは国王殺害の容疑者を捕縛するためとしながらも、誰も生きたままミルジムを連れ帰る気はなさそうだった。
ミルジムを討った者が次の王になれる――熱っぽい期待感が、王を失った喪失感を凌駕して夜気の温度を上げていた。